第3話 エレノアは魔女

  エレノアは作業場で魔法陣を描き込んでいた。作業場の中はインクの独特な匂いと、紙や布の香りがする。少し埃っぽくて、それがまた落ち着く。

  だが今日は、なぜだかやたらと臭う。土っぽく、草っぽい。自然らしいにおいは嫌いではないが、いつもと違って落ち着かない。換気をしても意味がなく、余計ににおいが強くなった気がする。ついには肉の腐ったような生臭いにおいまでしてきた。ふと思いついて魔法陣を描いている用紙を裏返してみると、べったりと何かが糸を引き、つんとするような悪臭が鼻をつく。


「ひぃ……」


 悲鳴に喉が鳴り、目が覚めた。視界には夜空が広がっており、銀の月が輝いている。

 ああ、そうだ。ドラゴンから逃げ、疲れ果てて草むらに転がり、そのまま寝てしまったんだった。夢の中の土や草のにおいは、自然そのもののにおいだったわけだ。

 ……だとしたら、あの腐ったにおいは?

 そう思い至ると同時に、「ガル」と小さな音が聞こえた。暗闇の中に何やら黒い影が動き、金の瞳がぎらりと光る。はあはあ、と荒い息遣いが聞こえる。風に乗り、生臭いにおいがこちらまで漂ってきた。


「ね、ねえ、ヴィクトル……?」

「ん……ああ、寝ちまった。悪い」

「そんなことより、あれ見て。私たち、今危ないのかも」


 傍のヴィクトルは、座ったまま膝に頭を預けている。寝ている彼の腰をつついて起こし、そう囁きかける。あの獣を刺激しないようにできるだけ小さい声で。

 ヴィクトルは膝から顔を上げ、獣を視認した。音もなく膝を立て、じりじりと中腰になる。


「起こしてくれて助かった。俺はあいつを相手する。エレノアはアーサーを起こして、加勢するよう言ってくれ」

「え、ええ。わかったわ」


 エレノアは、窮地に気づかず眠りこけるアーサーの腹をゆさゆさ揺らす。数歩離れたところで、ヴィクトルはブーツの中から何かを取り出した。短い刃が月光を反射し、ぎらりと銀に光る。短刀だ。


「ウルフか? 群れじゃないだけマシだな……」


 ヴィクトルは短刀を構え、臨戦態勢で獣に近寄っていく。視界の端でその様子を捉えつつ、エレノアは必死でアーサーの体を揺さぶった。


「アーサーくん、起きて、起きて! 大変なの」

「……ごめん、もうひと眠り……」

「そんな場合じゃないのよ、もうっ!」

「いてっ! ……な、何だよ、エレノアさんか」

「ヴィクトルが戦ってるの。アーサーくんも加勢して、って!」

「戦ってる……? …………うわ、何あれ」

「知らないけど、とにかくヴィクトルを助けなきゃ!」


 寝起きのアーサーは、理解に時間がかかっている。待ちきれず、エレノアはアーサーを置いて走り出した。ヴィクトルは、獣が飛びかかってきたのを避け、背後から切りつけている。しかしその攻撃は、尾先の毛を少し引っかけただけだった。


「ヴィクトル、私はどうしたらいい?」

「アーサーはどうした!」

「寝起きでまだぼーっとしてるのよ。私が手伝うわ」

「エレノアは何もするな!」


 一瞬こちらに視線を向けたヴィクトルだったが、すぐに体をひねる。ヴィクトルの居た場所を、獣の鋭い牙ががちんと音を立てて襲う。

 獣は瞬時にヴィクトルへ鼻先を向け、ヴィクトルは短剣を振るう。前足を弾かれた獣が牙を光らせて噛みつこうとし、それを身を翻して避ける。

 ヴィクトルも獣も、一歩も譲らない。互いの攻撃は掠めるばかりで直撃はしていない。動きは激しいが膠着状態と言ってよいだろう。どうにかして獣の気を逸らさなければ、攻撃を加えることは出来なさそうだ。

 辺りをきょろきょろと見渡し、地面に落ちた石を発見する。これだ。これしかない。エレノアは振りかぶり、小石を獣に向かって投げた。小石は思いの外高く上がり、大きな弧を描いて偶然にも獣の脳天に落ちた。

 黒い毛並みが倍に膨らんだように見えた。振り向いた獣は、ぎらついた金の目でエレノアを睨みつけている。地面を蹴る音がして、次の瞬間には獣との距離は半分に縮まっていた。大きく開いた真っ赤な口、鋭い牙の切先。


「え、あ」


 気を引いたその先を考えていなかった。咄嗟の判断ができず、その場に立ち尽くしてしまう。


「何してんだ、馬鹿っ!」


 怒鳴り声と同時に、大きな背中が視界に割り込んできた。ヴィクトルだ、と思った時には、彼の左腕に獣が噛み付いていた。


「あっ……!」

「ちっ。この野郎!」


 右手に持った短刀を、ヴィクトルは下から獣の喉に突き刺す。ぶしゃ、と勢い良く血が吹き出る。

 間も無くして、獣の金の目が色を失う。絶命したらしく緩んだ口から、ヴィクトルが腕を抜く。服の袖はびりびりに破け、だらだら赤い血が流れ出している。彼は血濡れの手で、エレノアの胸元をぐっと掴んだ。


「どうして余計なことをした? 君が恐怖で足がすくむ人間だとわかっていたから、何もするなと言ったのに」

「あ、あ、あ、ごめんなさい」

「謝ったって命は戻らないんだぞ。俺が死んでいたかもしれないし、死ぬのはエレノアかもしれない。これに懲りたら、俺の命令を必ず聞け。わかったな」


 乱暴に突き放され、エレノアは後方によろめき尻もちをつく。


「エレノアさん、大丈夫?」

「……大丈夫。私がいけないんだわ。言うことを聞かなかったから」

「ごめんね、僕もすぐ動けなかったから。立てる?」


 アーサーの手を借り、エレノアはゆっくり起き上がる。

 視線の先で、ヴィクトルは死体を切り付けている。それは苛立ちの発露のように見え、エレノアは肩を強張らせた。アーサーと目が合う。彼も不安気な表情をしていた。

 ヴィクトルは獣の腹を切り裂き、溢れ出る血の中へ腕を突っ込んだ。ぐちゃぐちゃと嫌な音がして、引き抜いた彼の手には金色の丸いものが掴まれている。


「ヴィ、ヴィクトルさん、それは……」

「ん? 何だ、ひどい顔だぞ」

「まさか、ヴィクトルさんが死体を冒涜するとは思わなったから……すみません」

「死体を冒涜? いや、これは死体を弄んだわけじゃない。魔物は魔石を抜いておかないと、アンデッド化してまた襲ってくるんだ。必要な処理なんだよ」


 ヴィクトルは手に持った金の石をくるくる回す。血で汚れてはいるが、その輝きは小さな月のようにも見えた。


「魔石っていうのね。そしてその動物が、魔物」

「ああ。俺の時代には魔物なんてどこにでも居るんだが、100年前には居なかったんだな。不思議なもんだ」


 ヴィクトルの口調はあっさりしたものだ。あんな魔物が蔓延る世界なんて恐ろしいが、彼にとっては日常なのである。それこそ不思議な感じだ。


「ヴィクトルさん、魔石を貸してくれる?」

「ん? いいぞ」


 アーサーは、ヴィクトルが差し出した血濡れの魔石をハンカチで受け取り、まじまじと観察する。


「やっぱり。この魔石、マナが含まれてるよ。上手くマナの流れを導けば、治癒の魔法でヴィクトルさんの怪我を治せるかも。やってみてもいい?」

「勿論だ。魔石の買取所もないだろうから、使い道もないしな」

「それじゃ、使わせてもらうね。傷口を見せて。うわ……」


 血こそ止まったものの、ヴィクトルの傷は深い。少し青ざめたアーサーは、それでも真剣な表情になる。

 魔法使いは息をするように魔法を使うことを、エレノアは知っている。時に笑顔で、時にはご飯を食べながら。エレノアには使えない数々の魔法を使い、「お前には一生かかっても出来ないことだな」と嘲笑うのだ。

 魔法使いであるアーサーが真剣に取り組まなければならないのだから、魔石に込められたマナで魔法を使うというのは難しいことのようだ。


「……難しいなあ、これ。中でぐるぐる回すことはできるんだけど、ここから引き出せない」

「魔石の中に封じられてるってこと?」

「うーん……僕より強い力で、中心から引っ張られてるって感じ。マナの流れは、こう、ふわふわっと整えて作るんだ。でも、ふわふわ触ってるだけじゃ、マナがここから出てきてくれない。治癒の魔法1回分くらいのマナはありそうなんだけどなあ……もう少しやってみるよ」


 そう答えるアーサーの額には、うっすらと汗が滲んでいる。

 アーサーの横顔と魔石を見比べるうちに、エレノアに閃きが降りてきた。

 地面に座り込み、胸元に刺していた専用のペンを手に取る。それからスカートの裾に、ペン先を押し当てた。ゆっくりとインクを染み込ませながら線を引く。

 治癒の魔法陣自体は、エレノアが普段描いているものと比べれば非常にシンプルだ。そこに、エレノアは何本も線を描き加えてゆく。


「さっきから何をしてるんだ、エレノアは」

「魔法陣を描いていたの。アーサーくん、魔石を貸して。ヴィクトル、短刀を借りられるかしら」

「いいぞ……って、おい。何してるんだ」

「魔法陣を切り取ったのよ。今回は、触れた場所を治癒するっていう一番単純な治癒魔法にしたから。これを怪我の上に当てて、押さえておいて」


 エレノアはスカートの裾の一部を切り取り、魔法陣の描かれた切れ端をヴィクトルに渡す。ヴィクトルは、訝しげにしながらも腕に切れ端を押し当てた。

 エレノアは、アーサーから受け取った魔石を魔法陣の中央に触れさせる。


「あっ! マナが出て行った……すごい、ちゃんと線に沿って移動してるよ」


 エレノア自身にはマナの動きは知覚できないが、アーサーの驚きの声が成功を表していた。

 やがて魔法陣は消滅する。一度使った魔法陣は消えてしまうのだ。その向こうに覗くヴィクトルの皮膚がどうなったのかは、血に汚れていてよく見えない。しかしエレノアには確信があった。治癒の魔法陣を描き、それが消えたのなら、間違いなく魔法陣が発動したのだ。


「怪我の具合はどう、ヴィクトル」

「傷が、塞がってる……」


 ヴィクトルは呆然とした調子で呟き、その視線がエレノアを捉えた。


「すごいな。これが魔法か」

「すごいよ、エレノアさん! どうして魔法が使えたの? さっきの絵みたいなやつ、何?」


 横から割り込んできたアーサーが、拍手をして賞賛する。魔法陣を描いて、こんな風に褒められたのは初めてだ。心の底がふつふつ沸いて、エレノアは少しはにかむ。


「あれは魔法陣。マナをぶつけると、線に沿って自然に流れて魔法を発動する仕組みなの。魔石からマナを取り出せるように工夫してみたんだけど、上手く行って良かったわ」

「すごいね! 100年前の人って、みんなそんなものを作れるの?」

「いえ……当時描いているのは私だけだったわ。魔法使いの人たちには、魔法陣なんて要らないから」

「でもそのおかげで、魔石があれば魔法を使えるんだね。すごいよ! 魔女みたいだ!」

「魔女……」

「知らないの? 始まりの魔女のことだよ」

「ええ、ええ。知ってるわ。始まりの魔女セシリィ……全ての魔法の祖と言われる、偉大な人よね」


 始まりの魔女セシリィ。魔法に携わる者なら知らない者はいない。マナを操り魔法を使う方法を考えた女性であり、彼女が書いたとされる文献はエレノアの時代にも魔法の教科書とされていた。

 エレノアが魔法陣を学んだのも、セシリィの残した文献からだ。無才ながら魔法を使いたかったエレノアにとって、金の月光に照らすだけで発動する魔法陣は夢みたいな存在だった。そんな方法を生み出したセシリィは、憧れと尊敬の対象である。


「こんな状況で魔法を使うなんて、エレノアさんはセシリィみたいだよ。本当にすごいね」

「そうかしら。それほどでもないけれど……」


 憧れの対象と重ねられて、嬉しくないはずがない。エレノアは、口角が上がるのを抑えきれなかった。


「魔石があれば魔法を使えるんだな?」


 こちらは、涼しい顔をしたヴィクトルである。もう少し褒めてくれてもいいのに、と思わないでもないが、仕方がない。ヴィクトルは魔法のない未来から来たのだから、魔法使いであるアーサーができなかったことを、無才のエレノアが達成する凄さはきっと伝わっていない。

 だからエレノアは文句を言わず、首を縦に振った。


「使えるわ」

「時を超える魔法を使うにはどのくらいの数が必要なんだ」

「わからないわ……とにかく、すごくたくさん。月が落ちた衝撃で発動するくらいの魔法陣なのよ。同等のマナをぶつけないといけないけれど、さっきの魔石でいくつ分あれば良いのかはわからない。とにかく、たくさんいるの」

「それ、本当か? 魔法陣の完成を先延ばしにしてるんじゃないだろうな」

「そんなことしないわよ」

「どうだか」


 ハッ、とアーサーは乾いた笑いを吐き出す。


「エレノアは、元いた時代より今の方が居心地が良いんじゃねえの。その魔法陣、ろくに評価されてなかったんだろ。アーサーに『魔女』とか持て囃されて、随分嬉しそうにしてたもんな」


 吐き捨てるような台詞が、ぐさぐさと胸に刺さる。痛みと、そして胸の奥から込み上げる苛立ち。


「君が帰らないのは自由だが、俺を巻き込まないでくれよ。俺は早く未来へ帰りたいんだ」

「……わかってるわよ。言っとくけど、嘘はひとつもついてないからね。時を超える魔法は、治癒の魔法とは比較にならないくらい大変なのよ。本当に、魔石がたくさんいるんだから」

「たくさんってどのくらいだよ。はっきりしたことを言えよ。そうすりゃ言い逃れできないだろ」

「わからないのよ。1万、10万……もしかしたらそれ以上かも。途方もない量だから、わからないの」

「そうやって誤魔化して、帰るのを先延ばしにしてんじゃないだろうな」

「そんなことするわけないじゃない!」

「ちょ、ちょっと……ふたりとも、喧嘩はそこまでに」

「喧嘩はしてない!」


 否定の声がふたりぶん重なり、エレノアは気まずくて口を閉じた。ヴィクトルも同じなのだろう。互いに睨み合い、わざとらしく顔を背ける。


「あなたなんて嫌いだわ」

「嫌いで結構だが、魔法陣は描けよ。俺がこんな時代に来たのは君のせいなんだからな」

「わかってるわよ。あなたを帰さないなんて、私はひと言も言ってないじゃない」

「そりゃ良かった。さっさと魔法陣を描いてくれ」

「魔石が要るのよ。あなた、魔物を倒すの慣れてるんでしょ? さっさと取って来なさいよ」

「言われなくてもそのつもりだ。ここで待ってんだよ、魔物は血の臭いに寄ってくるから。魔物が来ても君は何もするなよ、エレノア」

「魔法陣を描いてればいいんでしょ」

「わかってるじゃないか」


 ヴィクトルのひと言ひと言がやけに気に障る。そんな風に言うのなら、手を貸す気なんてもうない。エレノアは地面に座り、スカートの裾に新たな魔法陣を描き込み始めるのだった。

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