3.
波の立たない湖面のように生きたいと、夏帆はずっと思っていて、実際そう生きてきた。
しかし、勇が生まれたら事態は一変してしまい、毎日が嵐だった。
勇がどうして泣くのか、夏帆にはまるで分らなかった。
少しもかわいいと思えず、勇の泣き声を聞くと、頭痛がした。そこで、家にいる間は別室のベビーサークルに入れて、泣いていてもそのまま放っておくようになった。夏帆はその間、リビングでヘッドホンをつけて映画を観たり音楽を聴いたりすることにした。そうして、泣き声を遮断した。
そうしないと、おかしくなりそうだったのだ。
すると次第に、勇はあまり泣かなくなった。育てやすくなったと思った。聞き分けがよくなった。いい子だね、とみんなに言われるようになった。
そうして夏帆は育てやすいいい子を手に入れた。
「そろそろ二人目欲しいよね」
武雄がそう言ったとき、恐怖が夏帆の身体中を駆け巡った。こわい、と思った。
でも、嫌だ、と言えなかった。
神さま、妊娠しませんように妊娠しませんように妊娠しませんようにと祈りながら、武雄の動きが止まるのを待った。生理が止まると、すぐに妊娠検査薬を使って、妊娠したかどうか確認した。陰性のたびに、ほっとした。
股の間からどろどろと出てくるあれが、気持ち悪くて堪らなかった。
シャワーを浴びるとき、念入りに洗った。そんなことをしても妊娠すると知っていても、止められなかった。
「お母さん、大丈夫ですか?」
二歳児検診のとき、そう言われて、夏帆は勇を抱きながら何を聞かれているのか、分からなくてすぐに答えられずにいた。
「顔色が悪いですよ?」
この日の前の週末、武雄がしつこいセックスをしたのを思い出した。おかげで夏帆は寝不足だったのだ。
「あの」
ふいに涙がこぼれてきた。
こんな、全然知らない人の前で泣いてしまうなんて、と思ったけれど、涙は止まらなかった。「あちらでゆっくりお話を聞きましょう」と言われ、夏帆は別室に通された。そこで夏帆は、妊娠するのが怖いこと、赤ちゃんを育てられる自信がないこと、もう一人なんてとても無理だと思うこと、でも、夫が全く避妊をしてくれなくて、二人目を望んでいることなどを、支離滅裂に泣きながら話したのだった。
それはDVですよ、と言われたけど、夏帆はDVかどうかなんて、どうもよかった。ただただ妊娠したくなかっただけだ。子どもを愛せないことは言えなかった、どうしても。
そして夏帆は、ピルを処方してもらうことにしたのである。
勇が二歳のときから、ずっと飲み続けている。
武雄とセックスをするとき、恐怖しなくてよくなったのは、夏帆に心の平穏を与えた。
武雄が手を伸ばす。今日もか、と思う。娼婦の気持ちになりながら、彼を迎える。
夏帆は不思議だった。
こんな単なる肉体の接触に、大きな意味を持たせようとする人がいることが。
濡れるのは感じているわけではないことを、夏帆は知っている。単なる生理現象だと思っている。そうでないと痛いから。ある意味防御作用だ。
武雄のあれを口に入れるのは嫌だった。でも唾液がついている方が入りやすいことを発見して以来、夏帆はちゃんと口に含むことにしていた。なるべく痛くない方がいい。
夏帆の上で、或いは後ろから、武雄は息を荒くする。
これをいったいいくつまで続けなくてはいけないのだろうと、夏帆は考えたりする。亜由美は、三十代後半はセックスがすごくいいと言った。「すごくいい」ってどんな感じなんだろう? 「イク」よりすごいこと? 夏帆には皆目見当がつかなかった。
夏帆は、自分は不感症なのだ、と思う。
身体も心も不感症。
でも、静かな湖面のように生きていきたいのだから、仕方がない。
武雄が夏帆の背中に覆いかぶさってきて、終わったのが分かった。
後ろからすると、高確率でシーツが汚れるからそれが一番嫌だと夏帆は思い。慎重に武雄を抜いた。
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