2.

 夜、夏帆は布団に入り、今日は手が伸びてきませんように、と毎晩祈る。武雄の手が、夏帆に触れると、夏帆はびくっとしてしまう。それは武雄にとって「感じている」とよい意味で捉えられているらしかったので、それはそれでいいかと思っていた。

 その週末のその間、夏帆は亜由美との会話を思い出していた。

「夏帆ちゃん、夏帆ちゃん。裕司くん、夏帆ちゃんのこと、好きだと思うのよ」

「え?」

 裕司くん、というのはドラッグストアで一緒に働く大学生のバイトの子だった。

「今日も、じっと夏帆ちゃんのこと、見てたよ」

「まさか。私なんて、ただのおばさんだよ」

「いやいや、夏帆ちゃん、細いしさ、あたしと違うよー」

「そんなこと、ないよ」

「夏帆ちゃん、肌もきれいだしさ、羨ましい」

 亜由美はにかっと笑った。

 私の方が羨ましいのに、と思いながら、夏帆は裕司の顔を思い出していた。もう四十歳になった武雄と比べると、つるんとしていて、当たり前だけど、とても若々しかった。

 あの裕司が? まさか。

 裕司の顔を思い出そうとしたとき、武雄の動きが激しくなったので、意識を戻す。ちゃんとイカないと、機嫌が悪くなる、娼婦も、私みたいに毎回演技をしているのだろうか? とふと思う。武雄が果てて、夏帆はほっとした。そして、急いでシャワーを浴びに行く。


 週明けの月曜日、武雄が出社したあと、勇が小学校に行く準備を見守りながら、夏帆は洗い物をしていた。

 勇は武雄そっくりだった。顔も、性格も。亜由美の話を聞いていると、勇は男の子にしてはかなりきちんとしている子で、勉強も出来たし、とても育てやすい子だった。

「いってきます」

「いってらっしゃい」

 だけど、と夏帆は思う。

 どうしても、亜由美が子どもに向けるような愛情を、夏帆は勇に持てないでいた。

 責務は果たしている。優しい母親でいる。

 好きなごはんを並べ、清潔な衣服を用意し、学校や習い事のこともきちんとしている。夏帆は、武雄の希望で結婚と同時に仕事を辞めて専業主婦になっていた。ドラッグストアのパートは、勇が小学校に入ってから始めたのだ。少しでも家計の足しにするように、武雄に言われて。

 聞き分けのいい勇のランドセルを背負った後ろ姿を見ながら、夏帆は自分はもしかして誰も愛することは出来ないのかもしれない、と思うと苦しくなり、胸を押さえた。


 夏帆は毎日をただ穏やかに過ごしたいと思っていた。

 荒々しい声は聞きたくない。

 感情をいつもフラットにして、いつも平らかでいたいと思っていた。

 その意味で、武雄は最適の結婚相手であると言えた。

 武雄は、声を荒げたことがない。

 そのせいか、息子も勇も静かな子だった。育てやすい、いい子。

 だけど、ときどき、夏帆は暗い井戸の中にいて、その黒い静寂に押しつぶされるような気持ちになるのだった。


 先月、武雄の実家に行った。

「二人目はまだ出来ないの?」

 食事がひと段落したところで、義母に言われた。

「あ、うん」武雄が短く答える。

「勇も、兄弟がいた方がいいよなあ」と義父が言う。勇は黙ってパズルをしていた。

「夏帆さん、よろしくね」

 と義母に言われ、夏帆は曖昧に微笑んだ。

「俺も一人っ子だったから、勇がいるならいいじゃないか」と武雄が言い、

「だから、兄弟が欲しいのよ!」と義母が言う。

「年が離れた兄弟もいいぞ」と義父が言い。夏帆はまた曖昧に微笑んだ。


 その夜から、武雄が手を伸ばしてくる回数が、明らかに増えた、と夏帆は思っている。やはり両親の希望を叶えたいと思っているのだろうか? 

 そうでなくても、武雄は結婚をした当初から、夏帆にとっては「多い」と思うくらいの頻度で、夏帆に手を伸ばしてきた。亜由美の話によれば回数は少なくなっていくものらしいのに、判で押したようにペースは変わらない。

 どうしてセックスしなくてはいけないのだろう? と夏帆は思っていた。亜由美によれば、気持ちがよくて愛情を感じられる行為のようだが、気持ちがよかったことなんて一度もないし、セックスを通じて愛情を感じたことはなかった。

 子どもを作るためだけの行為?

 夏帆は武雄に秘密にしていることがあった。

 子宮まで突こうとしているかのような武雄の動きを感じて、夏帆は、子どもは絶対に出来ないのに、と思う。

 だって、避妊しているから。

 私、ピルを飲んでいるから。

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