波の立たない湖面のように

西しまこ

1.

 まるで娼婦みたいだ、と夏帆は思う。


 夫の武雄の手が伸びてきて、夏帆の胸をまさぐる。パジャマの上から少し触ったかと思うと、すぐに下にいく。キスはしない。

 武夫は夏帆の手を取り、自分の中心へと導く。夏帆に拒否権はない。夏帆はいつもよく分からないままに、熱いそれを握って上下する。頭をぐいとやられて、夏帆はそのままそれを口に含む。

 そして武雄は夏帆のパジャマのズボンと下着を脱がせ、入れる。

 ――痛い。

 夏帆はそう思ったけれど、そのまま夫を受け入れる。気持ちいいと思ったことはなかった。しばらくすると痛くなくなるから、過ぎ去るのを待つだけ。感じているように見せればいい、と夏帆は思っている。その方が早く終わる。痛みで顔を歪めるのと、快楽で歪めるのと、どういう違いがあるのだろう? 

 その間、夏帆はいつも別のことを考えるようにしていた。過去のことだったり、明日の食事のメニューについてだったり、息子の学校のことだったり。出来るだけ、日常のことがいいと思っている。

 何度も突かれて中に出され、イクふりをしながら、夏帆はまた思う。

 娼婦と主婦と、何がどう違うのだろう? 娼婦の方がまだいい気がした。これをお金に換算出来る。主婦はいつも無料でこれを引き受ける。しかも、掃除洗濯食事の準備と片づけという役割までくっついてくる。主婦は娼婦より地位が低い。

 終わったのが分かり、夏帆はティッシュに手を伸ばした。まだ週の半ばだから、シーツを汚して洗うのは嫌だと思った。夫の物を拭き、自分もティッシュで拭き、脱がされた下着とパジャマを身に着け、急いでシャワーを浴びに行く。股の間からどろどろしたものが溢れてきて、夏帆は嫌悪感でいっぱいになりながら念入りに洗い流す。顔にもシャワーをかける。口の中が気持ち悪い、と思って、歯ブラシをとり、念入りに歯磨きをする。

 明日はパートなのに寝不足だ、と夏帆は暗い気持ちになった。

 武雄はいつも自分の都合だけでセックスをする。夏帆の気持ちは関係なかった。スケジュールも。武雄にとって夏帆は、自分の欲望を満たしたいときに満たせる道具なのだ。

 そんなふうに、夏帆は思っている。


 夏帆が驚いたのは、セックスを楽しむ女性がいることだった。

 ドラッグストアでいっしょに働いている亜由美は、夏帆と年齢が近く子どもの年も同じでなんとなく仲良くなり、仕事終わりにときどき一緒にお茶をした。

「最近、ダンナとえっちしていないの。浮気しているのかな?」

「……そんなこと、ないんじゃないかな?」

 夏帆は無難な答えを返す。

「まあ、たっくんはあたしのことが好きだしね」

 亜由美はふふふと笑う。

 仲良くなってしばらくして、亜由美に「最近ね、えっちがすごくいいのよ。三十代後半って、そういう年代なのかな?」と言われ、夏帆は衝撃を受けた。セックスがいいと思ったことは、ただの一度もなかったからだ。それは夏帆にとって、痛みを伴いながら訪れ、睡眠時間を奪っていくものでしかなかった。「イク」はもちろん、「気持ちがいい」も分からなかった。

 亜由美の話を聞くことは面白かった。そこには様々な発見があった。女性がセックスを楽しむことがあるというのが、一番の発見だった。「してもらいたい」とか「したい」とか、それは漫画や小説の中だけの、ファンタジーだと思っていたのだ。


 夏帆にとって、夫の武雄は初めての相手だった。

 中学から女子校に通い大学も女子大で、女性の多い職場に就職して、夏帆はなんとなく恋愛しないままで、気づいたら三十歳手前になっていた。夏帆と同じように、恋愛しないままでいる友だちも多かったので、恋愛していないことをそんなに気にしたことはなかった。結局、恋愛をしないまま、二十九歳のとき、母親のつてでお見合いをして、そのまま結婚したのだ。お見合いで結婚する話はよく聞いていたので、お見合い結婚に抵抗はなかった。こんなものだと思っていた。

 武雄は結婚相手として申し分ない。亜由美はよく、「夏帆ちゃんのダンナさん、いいなあ。銀行勤めで。安定しているよね。うちはヤバイよー」と言う。確かにそうかもしれない。「夏帆ちゃんのダンナさんって、怒ったりしなさそう。いいなあ。うちなんて、しょっちゅう怒ってケンカするんだよ」とも言う。武雄が声を荒げたところを見たことがなかった。……それは、いいことなのだろうか? 夏帆には分からなかった。

 亜由美の話に出てくる、亜由美の家は、とても楽しげで、夏帆には眩しかった。「夏帆ちゃんちは息子くんもちゃんとしているよね。勇くん、とても海斗と同い年とは思えないよ」

 亜由美には、夏帆の小二の息子、勇と同い年の息子海斗を筆頭に、小一の次男陽斗、年長の三男悠斗がいた。みんなやんちゃな子たちで、話を聞いていると、勇がやらないようなことばかりで、大変そうだなあと思うのだった。

「でさー、海斗さ、色鉛筆の中身がすかすかなの。信じられる⁉」

「えっと、すかすかって?」

「すかすか。数本しか入っていないの」

「どこにあるの?」

「どこにもないの」

「お道具箱は?」

「お道具箱はカオスだよ! ほとんど、ゴミばっかり! 大事なものはみんなないの!」

 勇のお道具箱は実にきれいに整頓されていた。

「勇くんさ、お便り出す?」

「出す……けど?」

「海斗、お便り出さないんだよ。ほんと、困るよ。何かあったら教えてくれる?」

 以来、夏帆は集金のお知らせとか参観日の案内とか、写真を撮って送っていた。「ありがとー! たすかる‼ いいなあ、勇くん、いいこで」というような返事が来る。


 夏帆は、本当は亜由美が羨ましかった。

 子どもに対して腹を立てたり笑ったり。とても楽しそうなのだ。夫に対する態度も。

 亜由美のうちは、愛情で溢れているように見えたのだ。

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