第2話:人喰いの木
彼は宙に浮き、戸惑った顔で私を見上げた。その顔をしたいのはこちらの方だ。赤毛の少年で、白いTシャツにハーフパンツ。頭には太鼓奏者の証である、ねじり鉢巻きが巻かれている。意思が強く、誠実そうな瞳をしていた。足が速そうで、サッカーチームでは活躍できるかもしれない。しかし女神を連れ戻すには、役不足に思えて仕方なかった。彼は私と同じ高さまで来ると、なんと笑ってみせた。バカなのだろう。私は叫んだ。
「チェンジで! 僧侶が良い!」
「人生は、配られたカードでしか勝負できませんぞ。それに彼は……」
ジイさんが杖をもう一度振ると、ものすごい力で、後ろに引っ張られた。突き落とされようとしていた崖が、みるみる小さくなっていく。島の上を飛んでいるのだと気が付き、私は態勢を整えることにした。スーパーマンがやるみたいに、腕と足を延ばす。遠くには星空が広がり、下には海と森が広がっている。気分が高揚し、スピードも上がってきた。
「すげえ、飛んでるぞ!」
横ではしゃぐ赤毛の少年に、私はふと我に返った。空が遠くなり、森が近づいている。
「飛んでない! ゆっくり落ちてるだけ!」
ジイさんの体力あるいは魔力では、私たちを癒しの泉まで飛ばせなかったようだ。次第に森が近づいてくる。進行方向、このまま行くと落下する地点には、大きな木があった。枝に串刺しにされるか、地面に叩きつけられるかのどちらかだろう。ふと、声が聴こえて来た。
「レア、大丈夫……こっちに来て……」
隣の少年を見たが、彼は真っ青になっているだけだ。彼のものではないし、何も聞こえていないようだ。声はまたしても語り掛けてくる。
「必ず受け止めるから……怖いと思うけど、飛び込んで……」
次の瞬間、大きな木が光り始めた。葉はみずみずしい緑色で、赤い花が次々と咲いていく。私は決意した。リスクを取らなくては、リターンを得ることはできない。そしてリスクは正しく理解すれば、コストに代わる。目下のところ、あの神々しい大木は悪役ではないだろう。
「赤毛! あそこに飛び込もう!」
「は、マジかよ!? あれ『選別の木』だぜ! 最近、ヤバいって噂の!」
「ヤバい?」
直感は間違っていたらしい。それもそのはずで、第六感は経験と知識によって作られる。パワハラ上司やモラハラ男と付き合ってきた女性が、目に光が宿らない男を見た時に気付くように。
「長老が言ってたんだ。『花開く時、汝は選ばれる』……」
「そういうの良いから、三行で説明して!」
「気に入らねえ人間、つまり勇者以外は、食い殺される! 昔はそんなことなかった!」
人喰いの木まで、残り数メートルのところまで来た。赤い花は、血の色に見えなくもない。今なら別の場所に着地することもできる。でも私は行くことにした。ファンシーな見た目から、「気に入らねえ」という理由で人を殺すような木に見えない。何か理由があるはずだ。それを確認しないまま地面に叩きつけられて死ぬのは、勿体ない気もした。
「赤毛。行くよ、あそこに!」
「は!?」
「大丈夫、私が守るから!」
私は赤毛の手を掴んだ。その手にはタコができていた。太鼓の練習でできたものだろう。私は彼の人生を思った。あんな上達しないものに時間を費やすよりも、もっと楽しいことだってできたはずだ。彼もまた、犠牲者なのだ。アホくさい伝統や慣習の。
枝が伸びてきて、私たちを縛り上げた。一日で二回も縛られることになるとはね、と思っていると、目の前に大きな赤い花が見えた。花は淡い光を発していて、森の暗さも相まって幻想的だった。見とれているのも束の間、花弁の中に放り込まれた。
「おかえり、レア……その男の子は誰?」
花の中はあたたかく、湿っていた。甘い香りが漂い、聞こえる声は大きくなっていた。
「知らない。たまたま太鼓を叩いてただけだから。でも、彼は食べないで欲しい」
「それは無理……だって、勇者以外の血は、全て養分にするから……」
どこからか伸びて来た触手が、赤毛に向かっていく。彼は気を失っていて、ぐったりと横たわっていた。私は触手向かって言った。
「雨が降らないから、飢えてるでしょう」
うごめき続けていた触手は、ぴたりと動きを止めた。沈黙は肯定の意を示しているようだった。
「前は人を食べたり、血を吸ったりしなかった。養分が足りないからだよね。人も同じ。追いつめられると、何をするか分からない生き物だから。私が水の女神を連れてきて、雨を降らせる。それまで我慢して」
クスクスという笑い声が、辺りに響いた。薔薇の花弁のように、美しい声だった。
「いいの? 元の世界に戻らせてあげるよ……あたし、知ってる。貴女がレアじゃないって。でも、あたしたち精霊は、勇者を傷つけちゃいけない。だから、殺さないだけ」
声は蜜のように甘い、ねっとりとしたものに代わった。それは私に失うものがない条件に思えた。水の女神を連れて戻る必要もない。失敗したから殺される心配もない。赤毛も気を失っているので、安らかに逝けるだろう。
日常に戻るべきなのだ。私は勇者なんて器じゃない。ブラック企業の平社員に戻り、良さが分からないサービスを顧客に売りつけ、営業成績以外は生きがいが無い上司に詰められ、たまに連絡をくれる両親には「大丈夫」とLINEを送る。何ひとつ「大丈夫」ではないし、生きていくだけで、とてつもない労力を必要としてしまう。それが私なのだ。しかし口から出た言葉は、自分でも予想していなかったものだった。
「お断りだね。ここで赤毛を見捨てたら、私はもっと自分のことを嫌いになる。同僚も、上司も、運気も、誰も私のことを好きじゃない。でも私だけは、私を好きでいたい」
花から甘い匂いが消え、また声が聞こえて来た。次はあの粘着質な声色は消え失せていた。
「分かった……でも、約束だよ……島にある木が、彼を捕まえるから……」
次の瞬間、私たちは地面に叩きつけられた。辺りは再び闇に包まれ、光を放っていたのが嘘のように、木々は黒々とし、夜の森に戻っていた。花もひとつも咲いていない。
「いたた……どっちにしろ、地面に落ちるのか」
私は立ち上がり、身震いした。先程の儀式では松明があったから蒸し暑かったのだ。今は涼しいくらいで、ビキニ姿は寒さをしのぐにはあまりに無防備だった。
「ほら、これ着ろよ」
「う!?」
何の前触れもなく、Tシャツを頭から被せられた。男臭さや汗臭さを覚悟して息を止めたが、意外にもミントのような、爽やかな匂いがした。
「よかった、くさくなくて」
「失礼な。お前の格好、目に毒だからな。まったくあのジイさんは、そういうとこ疎いから」
「え?」
「いや、何でもない。それより、ありがとな」
彼は何もかも唐突にしなくては済まないのだろうか。選別の木のふもとには、役目を終えた花びらが集まっている。花びらのベッドに、私は倒れこんだ。赤毛も隣に寝転んできた。
「……カイ」
「え?」
「俺の名前、カイって言うんだ。いつまでも赤毛じゃな、と思って」
「いつから気付いてた? 私がレアじゃないって」
「儀式の時。あの花と話してるの聞いて、確信した。お前が元の世界に戻れるように、俺も手伝うよ。命の恩人だしな」
私は彼を選んでくれた長老に、心の中で礼を言った。良い奴じゃないか。太鼓が下手だから、何だというのだ。
私はあくびをした。ひどく疲れて、だるかった。一日で色んなことがあり、あまりに疲れていた。星空がかすみ、視界の幕が完全に下りる前、カイの言葉が耳に入って来た。
「本当に強いよな、レアは。俺もレアみたいになれたら良かったんだけど……」
どこか悲しい声で、届かない祈りのように、呟いていた。
翌朝、カイからこの世界の事情を教えてもらった時、昨晩の自信はどこへやら、「水の女神、三日は無理でしょ」と、ビキニを選んだ恨みもぶり返し、長老への怒りを爆発させることになる。
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