勇者の娘は休みたい

かのん

第1話:マジで殺られる5秒前

 太鼓の音で、目が覚めた。僧侶たちが苦しそうな顔で呪文を読み上げている。崖の下は海で、荒波の音にかき消されないように、彼らは声を張り上げていた。辺りでは松明の炎が揺らめき、風の強さがうかがえる。祭典というには重々しく、何らかの儀式が行われているようだ。かつて観たドキュメンタリー番組を思い出した。大自然、太古の部族、血を血で洗う、生贄の儀式。彼らは昔ながらの生活を送り、観光客にその姿を見せることで、収入を得ていた。この僧侶が時給いくらかは、今の自分には問題でなかった。喫緊の課題は、私が生贄として、今にも崖から突き落とされそうになっていることだった。


「勇者様、前にお進みください」


 背後から白髪の老人に声をかけられた。髭は長く、質素な身なりだが、貧しさは感じられず、むしろ風格すら漂っている。声の優しさとは裏腹に、目つきは鋭かった。ありとあらゆる困難を受けて来た者は、この手の目を授けられる。長老かもしれない。私は聞いた。


「あの、もしかして私、ここから飛び降りることになってる?」

「何を、今さら……! あぁ、正気を失ってしまったのですか!」


 正気を失っているのはお前だとう、という言葉を飲み込んだ。手を縛られている状態では、争うには不利だ。


「お忘れですか。水の女神がお戻りにならず、島は深刻な飢饉が起きています。そこで勇者の血を受け継ぐレア様を、生贄として捧げることになったのです」


 ドコドコドコドコ。太鼓の奏者は力強く、場を盛り上げている。一人だけ音が遅れる者がいて、それが全体の調和をぶち壊していた。オーケストラのレベルは一番下の者に合うというのは、真実だったのだ。


「そう、なら良かった。私はレア様じゃない。休職中の会社員だよ。パワハラ上司に激詰めされて、メンタルを病んで心療内科に行って、診断書をゲットして、明日から二ヶ月の休職に入るところだった」


 母は専業主婦、父は会社員、妹はエンジニア。彼氏はいない。休職していることをのぞけば、どこにでもいる二十七歳だろう。「明日から会社を休める」と眠りについて、起きたら縛り上げられ、マジで捧げられる五秒前だったわけだ。眠るのが楽しみになったことなんて、小学校の遠足以来だというのに。


 完全な沈黙が場を支配した後、ジイさんは口を開いた。


「レア様、言い出したのは貴女ですぞ」


 杖を使って、ぐいぐいと背中を押してくるジイさん。意外と力が強い。背中のツボが押されて気持ち良いが、ここで身体をほぐしても仕方ない。私たちが前に進んだのを見て、演奏と呪文も再開し始めた。あと一歩で落ちる、というところで、私は初めて顔を上げた。暗い海の上、空に描かれているものを見た。


「あれは?」

「水の女神です。星使いに描かせました」


 色とりどりの星が、ある女性を形作っている。まだ若い、十代後半くらいだろう。太ももを惜しげもなく見せつける短いスカート、レースのブラウス、厚底のパンプス。泣きはらしたような赤い目元に、人形のように白い肌。この服装と地雷メイクが量産される場所を、私は知っている。


「ジイさん、私はレアじゃない。でも、彼女の居場所が分か……」

「水の女神よ、彼女の命を捧げるので、どうかお戻りください!」


 ジジイは私の声をかき消すように、大きな声を出した。年の割に大きくて、良い声をしている。どこぞの腹から声が出ていない新入社員と大違いだ。私は衝撃に備えて、目を閉じた。しかし予想していたそれは、いつまで経っても訪れない。


「あれ?」


 辺りを見渡すと、白黒映画のように色を失っていた。しかも全員の動きが止まっている。


「お、ラッキー。このまま逃げよう」

「先程の話は、本当ですか」


 ジイさんの声で、企みは失敗した。


「女神の居場所? うん」


 私はホストクラブと歌舞伎町について説明をした。そこにいる女の子の服装に、水の女神が似ていることも話した。それは賭けでもあったが、ジイさんは興味深そうに聞いていた。


「女性に恋をさせるホスト、それが集まっている場所ですか。ふむ、思い当たりがあります」

「え?ここにもあるの」


「島の最北に『癒しの泉』があります。以前はプールだったのですが、水質が変わり、使用禁止になりました。それから荒廃して、けしからん店がたくさん建ったと聞きます」


 けしからん店、のところで顔を赤めるジイさんである。これが女の子だったら愛らしいが、目の前にいるのは八十歳を過ぎて良そうな老人だ。そういえば私は自分の姿を確認していないことに気が付いた。見渡すと、僧侶のうちの一人が鏡を持っている。私は彼に近付いた。


 そこには少し日には焼けているが健康的で、三つ編みの少女が映っていた。服装は白色のビキニで、大きな目にはまだ光があり、根拠はないが明日は良くなると信じている、いかにもビーチにいそうなタイプだ。これなら入店できるだろう。私はジイさんに向き直った。


「じゃあ、そこに行くよ。水の女神を連れて帰ってくれば良いんでしょ?」

「危険な場所ですぞ」

「大丈夫、営業エリアに新宿も入ってたし」


 よく分からないといった顔をしたが、彼は決断したらしい。時空が歪み始めてきたことから、時を止める魔法に限界がきたのかもしれない。私は一人の太鼓奏者を見た。彼はバチを落としており、拾おうとしていた。下手くその正体は、こいつだったのだ。


「さすがレア様です。中身は分かりませんが。では、三日間にしましょう」


 彼は言った。


「その間に、連れ戻してください。でなければ……」

「私が生贄になる、でしょ?分かったよ」

「見張りをつけます。彼と行動を共にしてください。魔法の使い方も教えてくれるでしょう」


 ジイさんは杖を大きく振った。私は宙に舞い上がり、空から下に広がる大自然を眺めた。ヤシの木、草原、海。美しい島のはずが、どこか違和感を覚えた。まるで気に入らない全てのものを集めたような、居心地の悪さを感じる。まあ良い、きっと共に行く仲間は、僧侶とか、魔法使いとか、きっと勇者の力を引き出してくれる人なんだろう。ジイさんがまたしても杖を振り上げた。


「彼と行って下さい!」

「いや、お前かよ!?」


 お供に選ばれた者は、あの下手くそな太鼓奏者だった。

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