勧誘

 神崎美奈子は駅近くのアパートに住んでいる。

 十三段ある階段を上ってすぐ、二〇一号室である。いわくつきで激安の部屋だったが、美奈子には関係なかった。住み始めて最初のほうは怪奇現象も起こったが、今はぴたりと収まっている。


 心霊相談事務所に行かない日は遊びまくっている。ゲームやら読書やら酒やら……娯楽をむさぼる生活だ。最近は暑いため、クーラーをガンガンかけている。


 その日は酒を片手に、読書をしていた。読んでいる本は、いわゆる文豪の、短編集であった。並べ立てられた美麗な文の数々は、小気味よく頭に入っていく。

 小難しい本を読むときは、必ず酒を飲みながら読んでいた。少し酔っているほうが純粋に文章を受け入れられるからだ。緩やかな思考状態で、読書に集中する。

 不意に、インターホンが鳴った。一度は雑音として聞き流してしまったが、二度、三度鳴るとさすがに気づく。


 本にしおりを挟んで、テーブルに置く。寄りかかっていた座椅子から腰を浮かして、時計を見た。


 昼食から一時間とニ十分ほど経っていた。三時手前である。美奈子の頭の中で、この時間に部屋を訪ねてくるであろう人物を想像して、いないことに気付く。


 来客がありえないわけではない。高校のころの友人であるカナは、休日に来るときはある。だが、今日は平日である。また近所に住んでいる優也という小学生も部屋に来るが、今は明らかに学校の時間だ。


「はいはーい」


 通販で何か頼んだ覚えもないので、首を傾げながらも出ることにした。急に立ち上がったせいか、頭がふらつく。

 ゆっくり玄関まで歩き、扉を開ける。

 知らない人物がそこにいた。美奈子の頭の中で「おばちゃん」とラベルを張る。

 白髪交じりの中年女性だった。手にはエコバッグを持っていて、何やらいろいろと入っているらしかった。


「どうもこんにちは」


 ニコニコ笑顔を張り付けて、女性があいさつをしてくる。美奈子はぼんやりした声で「どうも」と返した。


「今日お仕事はお休みですか?」

「えぇ、まぁ」


 休みのほうが多いとは口が裂けても言えない。

「おつかれさまです。お仕事、お辛いでしょう」

「え、えぇ、まぁ」


 目を反らした。声はきっと、震えていただろう。


「お仕事が楽になったり、疲れなかったら良いと思ったことはありませんか?」

「楽に越したことはないですね」


 正直に言うと、女性は口の端をさらに吊り上げて声を張った。


「そんなあなたにぴったりなものがあるんです」


 エコバッグから一冊本らしきものを取り出すと、美奈子に見せる。

 目を細めて、本を確認する。宗教の聖書のようなナニカだった。


「これを読むだけで、みるみるうちにあなたの人生が楽になるんです」


 美奈子の胸中に浮かんだのは、やばいやつが来たとか出なければ良かったとか、そんなものではなく、「あ、マジもんの宗教勧誘だ」なんてのんきなものだった。

 それから女性による二時間ほどの宗教のプレゼンテーションが始まった。

 最初は女性の身に起こった数々の幸運から始まった。事故にあったが奇跡的に怪我なくて済んだ、娘が高校に合格した、夫が出世して給料が増えた等々。

 事故の話はともかく、娘や夫の努力が宗教で片づけられるのは、少し哀れに思われた。


「最近、異常気象が多いですよね」

「暑くて暑くてウンザリっすね」


 そこから話は大きくなり始めた。

 異常気象が続いているのは、日本が滅びの道を歩んでいるからだ。しかし、宗教にさえ入れば滅びから身を守ることができる……なんてありきたりな話だ。

 酒が入っていたのもあってか、美奈子はぼんやりとしか女性の話を聞かず、内容が頭に入ってこなかった。女性の話に対して「はぁ」「フゥン」「ほうほう」など適当に相槌を打つだけして、相手に気持ちよくしゃべってもらっていた。


 最終的に、週末に行われているという集会のチラシと教典を渡された。教典そのものは有料だが、無料で貸し出してくれるらしい。また来週に回収しに来るそうだ。

 帰っていく女性を見送って、扉を閉める。

 美奈子は部屋に戻ってチラシをゴミ箱に入れた。そして座椅子に座り、テーブルに借りた本を置くと、読みかけだったほうを読み始めた。


 酒を口にふくむ。


「ぬる……」


 まずかった。




 次の週、美奈子が本を読んでいるとインターホンが鳴った。


「はいはい」


 美奈子は本にしおりを挟んで、テーブルに置くと玄関まで歩いていった。

 扉を開ける。

 いつかの宗教勧誘の女性が、立っていた。しかし、前回とは様子が違う。後ろにもう一人、スーツ姿の男性が立っているのだ。

 美奈子は別段気にするわけでもなく、男性を一瞥したのみで、女性に話しかけた。


「どうもどうも」

「こんにちは! いやぁ今日は暑いですね」

「そうっすね」

「ところで教典は読んでもらえましたか?」

「えぇ、読みましたよ。あ、返すので待っててください」


 美奈子は一度部屋に戻って、教典を取ってきた。女性に本を差し出して返す。


「ご購入なされますか?」

「いくらです」

「二千五百円ですね」

「あ、結構っす」


 値段を聞いて、即座に断った。ぴくりと、女性の眉が動く。


「入信していただければお安くしますよ」

「いえ、入るつもりはないので」

「教典ちゃんと読みましたか?」


 笑顔を張り付けながら、女性は強めに言ってきた。後ろの男性は何もしてこない。


「読みましたよ」

「ではどうしてですか。この間も教えの素晴らしさは十分伝えたはずです」


 どうやら教典とやらに相当の自信があったらしい。信じられないといった様子で女性が迫ってきた。


「素晴らしいと思いますよ。宗教」


 それを、美奈子は完全肯定した。

 女性はますますわからないといった顔をする。


「死ぬときとか生きるのに疲れたときとか縋り付くのに宗教ほど楽なものはないですし、心の支えとしてとても素晴らしいものだと思っています」


 ぽりぽり頭をかく。


「入信すると集会とか戒律とかいろいろ面倒でしょ? 生活、縛られるの嫌いなんですよ。ありがたい教えだけもらえればいいんです」

「でもそれは幸せになるために必要な儀式なのよ」

「儀式がなくとも、私を幸せにしてくれる神様ならいるんで大丈夫です」

「ならよかったわ。あなたが信じている神と教典に書かれている神は実は一緒なんです!」


 美奈子が別の宗教を信じていると勘違いしたのか、女性はまくしたてるように教典を開いて、とあるページを指し示す。内容を覚えているのか、勧誘のマニュアルでもあるのか、待っていたかのように説明しだした。

 美奈子はありとあらゆる話を否定しなかった。むしろ肯定し、称賛した。相手の意見に反抗せず、ぬらりくらりと自分には入信する気がない意志を伝えるだけである。

 それからあれこれと女性は熱心に入信してもらおうと説得をしていたが、ある一言で完全に折れることとなった。


「このままだとあなたに不幸がふりかかって、身を滅ぼすことになりますよ」

「それが神様のご意思なんだってことで受け入れます、ハイ」


 もう、何言ってもダメだ。

 女性はそう思ったらしく、帰ると告げてきた。美奈子は部屋に戻ってあるものを持ってくると、女性に手渡した。


「こんなに長時間話してお疲れでしょう。どうぞ、持って帰ってください。私の神様です」


 酒だった。

 女性は受け取らず、男性は何もせず、アパートから出ていった。

 二人を見送る。

 宗教勧誘というのはもっと論理が通らなくて厄介なものだと思っていたが、案外それは極端な例なのかもしれない。

 美奈子は渡すはずだった酒をあける。

 そして飲む。喉を鳴らして、心を潤した。


「くぅーうまい!」


 酒はキンキンに冷えていた。

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