つられる

 雨に浸っていた。

 美奈子は、ため息を吐く。白息が口元から空気に溶け込んでいった。


「私、なんで生きてんだろ……」


 このまま雨と一緒に溶けてしまえばいいのに。悩める女子高生、神崎美奈子はそう思った。

 痛いのは嫌いだし、自殺したいとも思わない。ただ、このまま気持ちよく消えていけるのなら、それが一番楽なのだと思った。

 世の中、賢く生きるのが理想とされているが、美奈子は違った。賢くいられるくらいなら、愚かであるほうがいい。


 入念に準備して、先を見据えて、より良い生き方をする。きっと生き甲斐があれば楽しいのだろう。美奈子に生き甲斐と呼べるものはない。将来のために準備なんてたくないし、見据えたくもない。その場に転がった餌に食いつくような、愚か者が一番楽で気持ちが良いのだ。高校に入ってからそうであったし、これからもそうじゃないと困る。あれこれ悩むのは、やりたくない。


 生きていくのが面倒だ。死ぬのも面倒だ。


 美奈子はそんな考えの人間だった。ひたすら低いハードルを跨いで超えていくのが、理想の生活だ。端的に言えば遊んで暮らしたい。情けない人間のクズのような考えだが、根付いてしまったものを直せと言われても無理というものだ。


 中学のころは青春していたとは思うが振り返ってみると苦痛でしかなかったし、ドラマや漫画のような高いハードルを飛び越えるようなものは大嫌いだと知った。それは性質の話であって、どうにかできるものではない。

 できれば世の中を回す歯車に、いきいきとなっていける人でありたかった。しかし、考えれば考えるほど惰性を求める自分がいる。


 たどり着く結論は、生きてない方が楽なんじゃないか、というものでしかない。


 ため息を吐いた。雨にひたすら、身を沈める。

 自問自答しても答えはない。かといって相談しても答えはないだろう。なぜならありとあらゆる回答が、美奈子にとって無意味であると知っているからだ。


「ふぅ」


 もうずっと。長い間、美奈子は雨に濡れ続けている。解決の糸口のないまま、ただぼうっと雨音に自分と溶かし込むように、ただじっとそこに立っていた。

 体は完全に冷え切っていて、指先は針につつかれているように痛みが走っていた。心臓の鼓動が必死に熱を伝えようとする。

 体調を崩しても構わなかった。むしろ、それで現実逃避できるのであれば歓迎したいほどだった。

 生きていても意味がない。しかし死ぬ理由も特にない。

 なっちゃんは看護師になりたいと言っていたし、カナも希望の大学に受かるために勉強している。

 美奈子は一人だけ、ぽつんといるだけ。自分がひどく情けなかった。


 ――そんなときだった。


「もし、お嬢さん」


 声を、かけられた。

 スーツをきちっと着こなした女性だった。肩まで伸びた髪は綺麗に手入れされており、化粧も人を不快にさせない程度に軽くしている。傘を持っている指の、爪でさえも綺麗だった。身なりには気を付けていることが一目でわかる。

 それが、心霊相談事務所の所長、宮根静留との出会いだった。



 ――今でもときどき、自分は生きていていいのかと思うときがある。

 自分に生きている価値があるのかとかそういう意味ではない。生きていない方が楽なんじゃないかと、いまだに思うのだ。

 悪霊の力様様で、美奈子の生活は保障されている。そこに自身の能力は一つも加味されていない。あのとき、静留と出会わなければ、今頃はどうなっていただろう。

 こんな能無し人間だ。生きていても――


「――アンタ、余計なこと考えるのやめなさい」

「……へ?」


 声をかけられ、美奈子は我に返る。

 事務所の中で紅茶を飲んでいるところだった。静留は書類作業でもしているのか、紙を片手に、こちらを睨んでいた。


「別に考えてないっすよ」

「紅茶冷めてるけど、気づいた?」


 カップの水面を見る。さっきまで温かかったはずだが、冷え切っているのに気づく。


「……全然」


 素直に答えると、ため息が聞こえた。


「アンタ、思い悩むようなことないでしょ」

「まぁ、そうなんですがねえ」

「面倒くさいだけよ。やめるやめる」


 首を振って、静留はうんざりしたように言った。


「楽しい妄想でもしなさい。イケメンとのラブコメとか」

「うえぇ……」

「露骨にイヤそうね……アンタの好み何よ」

「ショタ!」


 即答だった。

 美奈子のこじらせぶりに、静留の顔が引きつる。


「本当に手出したらクビにするわよ」

「やだなぁ、現実くらい見れますよ。しませんって」

「どうだか」


 肩をすくめると、静留は作業に戻った。

 美奈子は冷えた紅茶をすする。


「姐さん」

「何よ」

「今度、温泉あるとこいってみたいっすね」

「そういう依頼が来るのを祈ってなさい。憑き物が連れてくるかもよ」

「ははっ、ご冗談を」


 静留はただ、笑みを浮かべるだけだった。




 その後、温泉の有名な地域へ行くことが決まることを美奈子は知らない。そしてその時にはこの会話すら覚えていなかった。

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