第17話 近づく誘惑

 彼女の赤い瞳が俺を射抜く。それは美しくも冷たく、そして恐ろしいものだった。


「……」


「……」


 止まる時間。

 永遠に続くとも思えてしまう錯覚。

 空気は冷たく、月は傍観している。


「あ–––––––」


 声が漏れるが後には続かず、夜の闇へと消える。


「その、俺……なんか……」


 絞り出る言葉は何故か断片的。ビビっているからなのか、連続して言葉を発することができない。


 対して、俺を見る冴島さんの表情は真顔から動かない。波のない顔、表現と言えばいいだろうか。

 感情を読み取ることはできないが……良い気分ではない、とは察せた。


 –––––––どうやら、触れてはいけないものに触れてしまったようだ。


「……寒いだろうから、毛布をってさ……ここで、寝ちゃうつもり、だろうから……」


 とりあえず、意図だけはどうにか伝えきる。

 そして彼女の片腕を離し、何事もなかったかのようにその場から立ち上がろうとする。

 だが、その瞬間だった。


「え?」


 スッと–––––––俺の手首を、冴島さんの硬い手が掴む。そして、その状態で止まる。

 ……再び時間が流れる。

 何故冴島さんが俺の手を掴んだのか。

 何故掴んだ状態で動かないのか。

 彼女の謎な行動を、俺は理解ができなかった。


「冴島さん、一体……」


 動かない彼女に意図を問う。

 だが、その答えはまず口ではなく行動で行われた。


 –––––––瞬間、掴まれた腕が物凄い力でグイッと引っ張られ、彼女の顔前に俺の顔が急接近する。


「ちょっ–––––––」


 立ち上がりかけていた体勢は一気にバランスを失い、目の前の冴島さんに向かって倒れだす。

 俺は驚くあまり思い切り目を閉じ、これから襲われるであろう痛みと衝撃に備える。

 そして–––––––バタン、と。見事に仰向けで倒れた。


「いっつぅ……!」


 鈍い痛みが背中の筋肉、それと骨、そして神経に響き渡る。

 目を閉じているので状況はよく分からないが、背中にある感覚は異様に硬いので、恐らく階段に向かって倒れたのだろう。

 なんてことを彼女はしてくれたんだ。そう思いながら俺は瞼を上げた。


「–––––––」


 その時、息が止まった。

 頭の中が真っ白になり、思考も途絶えた。


 本来、俺の目の前に広がるのはロビーの天井である筈であった。

 青白い月明かりでうっすらとした天井板に、動きを止めたシャンデリア。それこそが俺の視界を出迎える筈のもの。そう思ってたし、そうでなきゃおかしかった。

 でも実際は違った。目の前に広がっていた光景はそんな暗いものではなく、むしろ……赤かった。

 赤い長髪が、冴島さんが、俺の上に覆い被さっていたのだ。


「え……冴島、さん……?」


 不安定な声で彼女の名を呼ぶ。

 「はぁ、はぁ」と息を荒くしながら、四つん這いで俺に覆い被さる冴島さん。

 彼女から発せられる体温は非常に熱く、密着していなくてもその熱波は伝わってくる。超高熱、と言っても過言じゃない。

 そんな彼女の表情は険しいものであり、なんというか……いいや、とても辛そうに見えた。


「はぁ、はぁ、はぁ……ねぇ、南くん」


 顔前で発せられる囁きのような声。

 それはまさに美しく、優しく、温かく、妖しく……誘っているのではないかと思ってしまう。言い方は悪いが、猫が発情しているよう……そんな感じだ。

 彼女は続ける。


「南君はさ……女の子、抱いたことある?」


「……い、いや」


 聞かれる質問に戸惑いながら答える。

 彼女の荒い息使いに対し、俺はさっきから止まりっぱなしだ。故に、酸素が回らず思考もままならない。故に、答えもハッキリとしない。


 彼女は俺の答えを聞くとクスクスと笑いだす。


「ああ、やっぱりそうなんだ。そっか、経験は無しかぁ。いや、むしろ、それはそれで……」


 イタズラをする子供のような顔。

 だが、その表情は色気そのもの。

 間違いない……これは……


「何、するつもり……?」


 確信を確認する。

 すると彼女は自身の唇を俺の耳元に近づけ–––––––


「……何すると思う?」


 小声で、コショコショと。彼女は言葉を使った。

 耳が溶ける。

 背中が震える。

 脳が壊れる。

 そして、下半身が熱くなる。


「それは……」


 瞳を逸らし、否定しようとするが……決まってしまっている。彼女の言っていることはそういうことだ。


「……それは……」


 口を開く。禁断の言葉を言ってしまおうと喉を震わせる。邪魔な念はあるものの、抑えていた欲を……ここで–––––––


 –––––––だが、俺が言う前に、冴島さんが先に声を上げた。


「あれ? ……私、今、何して……」


 耳に聞こえる彼女の声。

 だがそれには先程のような色気などの存在は無く、いつもの軽くて明るい彼女の音色だけがあった。


 おかしいと感じた俺は逸らしていた視線を戻して彼女を見る。

 するとそこには、熱くて辛そうだったさっきまでの彼女はいなかった。普通でいつも通りの冴島さんだけが目の前にいた。


「冴島、さん?」


「南くん……? ここ、ロビーで、私、今、君の上に……」


 周りを見渡し、再度俺の顔を眺める冴島さん。

 俺の顔を確認すると、見開かれていた彼女の瞳が揺れ、方が震えだす。

 そして–––––––


「あ。ご、ごめっ……私……!」


 状況を理解し、すぐに彼女は立ち上がって俺から離れる。

 そのままカッカッカッと階段を横へと後ずさり、反対側の手すりに掴まって顔を逸らす。


「ど、どうした? 冴島さん?」


 彼女が離れきると同時に立ち上がる。

 状況と急展開に困惑するのはこちらも同じ。何があったのか、一体どうしたのかを彼女に問う。


「いいや……その……ごめん、ちょっと疲れてるっぽい。やっぱり部屋に行って休むね。ごめんお休み」


 だが彼女は答えるどころか顔を合わせることもせず。謝罪だけを述べ階段を上りだした。


「ちょ、ちょっと、待って! 何が何だか–––––––」


 離れる彼女の手を掴もうと階段を駆け上がる。

 だが彼女はもの凄い跳躍力で階段と柵を一気に飛び越え、2階廊下の先へと消えていった。


「……」


 沈黙するロビー。そして、再び1人となった。

 俺は階段下に落ちている毛布を掴み上げ、生暖かい彼女の熱を感じながら、


「……どういうことなんだよ、冴島さん」


 そう呟いた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る