第16話 ロビーにて
夜。時刻は深夜2時。
夕食を終えた俺は自室に戻り、学校で渡された英語の補修プリントをやっていた。
予定では10時頃に終えるつもりだったのだが、想定以上の内容の濃さとその多さによって、結局この時間まで掛かってしまっていた。
「何なんだよマジでこの多さ……人の心とか無いだろあの教師」
ペンを置き、勉強机の前で愚痴を吐く。
曲がっていた腰を伸ばし、一度天を仰ぐ。
白い天井は、無関心に俺を見下ろしている。
「……疲れた」
テスト期間が終わったというのに、夕食後から今までぶっ通しだ。
メンタルもそうだが、長時間座っていたことによる膝のなまり、そしてペンを持っていた指と紙を眺めて文字を読み続けていた瞳の疲労。……これ以上の勉強は不可能であった。
しかし、まだやるべき範囲は残っている。徹夜でやるつもりではあるが、このままやっても捗る気がしない。どうしたものか……
そして、ふと思いついた。
「……ちょっと歩くか」
俺は今、この広い屋敷に居候させられている。
広い屋敷故に、通路は一種の散歩コース並みの長さがあるのだ。中庭も含めればさらに長いだろう。……今こそ、その長さの活かし時ではなかろうか?
椅子を引き、立ち上がる。
夜の廊下は寒いので、薄い毛布を体に羽織る。
ガチャ、ギィー、と。
扉を開く音が廊下に響く。
廊下に身を晒すと、冷たい空気がツンと神経を刺激する。
「寒っ……! これだけでも目が覚めるな」
口にする言葉はどれも夜の闇へと溶けていく。
とりあえず、俺はロビーの向かって歩き出した。
廊下窓から差し込む月明かりが眩しい。
太陽ほどではないが、勉強に疲れた目を刺激するには十分な光量であった。それとあと1つ。太陽とは違って……とても冷たい。
……廊下に人の気配は無い。
真矢さんも流石に眠ってしまったのだろうか。彼女の活動時間は未だによく分かっていないものである。
廊下を辿り、階段を下り、そのままロビーの階段のふもとに到着する。
時間も時間なのでロビーにも当然灯りなど付いておらず、天井のシャンデリアは沈黙している。
しかし、月明かりのお陰で辺りはとても明るく見えた。
「あ……」
そんな空間の中で。
俺はロビーの中心に置かれた広い階段に腰を下ろす赤髪の女性を目撃した。
「……」
赤髪の彼女は階段に座りながら動かない。
よく見てみると、彼女は階段と手すりの柱に身を預けながら目を瞑っている。……どうやら眠っているようだった。
「–––––––」
その姿を見て、俺は言葉を失った。
俺は……目の前で眠る彼女の姿に見惚れていたのだ。
それが月に照らさらているから神秘的に見えるからなのか、それとも疲れているから余計にそう思ってしまえているのかは分からない。
だが、ボサついているのに艶やかな赤い髪に、擦り傷が目立つ頬。そして、クタクタになった体でスースーと息をし眠る冴島 美恵子という存在そのものを、思ってはいけないと思いながらも、美しいと思ってしまった。
つまり、今俺は傷ついて疲れ切っている彼女に欲情しているのだ。
「いや、いやいや。何考えてんだ、俺」
間違いに気がついた俺は首を振って雑念を祓う。そんなこと思ってる場合ではない、と。
俺は眠る彼女に近づき、肩を揺らす。
「起きて、冴島さん。こんな所で眠ったら、風邪引くだろ?」
グラグラと体が揺れる冴島さん。
流石にここで眠るのは健康的にも見栄え的にも良くない。疲れている冴島さんには申し訳ないが、ここは無理にでも起きてもらわないと。
「……ん? んん〜もう、少し、だけ……」
すると、一瞬だけ薄目を開けて彼女は目覚めてくれたが、寝ぼけているのか我儘を言っているのか、再び座りながら眠ってしまった。
「ダメに決まってるでしょ? さあ、頑張って起きてって」
再び肩を揺らし声を掛ける。しかし、彼女が動くことはない。
酒の匂いもしないので本当に疲れているだけなのだろうが、だとしてもこれはいかがなものか。
……とはいえ、彼女がとても疲れていることは確かだ。
むしろ、守ってもらってる分際で彼女にとやかく言うのは傲慢であり烏滸がましい。
故に–––––––
「……仕方ない」
俺は羽織っていた薄い毛布を肩から下ろし、眠り座る赤髪の彼女の肩に掛けてあげた。
側から見れば恋人でもない男が行うキショい行動。だが、今はこれが最善策だ。冴島さんの部屋知らないし。
「はぁ……」
溜め息を1つ。
そして少しでも寒さを凌げるように、毛布からはみ出た片腕を下に潜らせようと思い、彼女の腕を掴んだ。
–––––––だがその瞬間、俺はある違和感に気がついた。
「何だ……この腕……?」
思わず口にしてしまう。
片腕をぎゅっと掴んだ手の平に伝わる感覚。人間を掴んだ、という確信。
–––––––けれどそれは、想定していたものと全然違っていた。
「おかしい。人の腕って、こんなに硬いものじゃないよな?」
そう、硬いのだ。彼女の肩から伸びる腕が、あまりにも硬すぎるのだ。
この感覚はもはや人間の腕ではなかった。まるで氷……いや、金属? そんな感じだ。
「……」
困惑のあまり固まる体。
そして同時に思い出す、彼女と初めて会った時のことを。
……あの時、冴島さんは赤い化け物を斬っては殺し、蹴っては殺し、魔術を使っては殺していた。
そして、人の肉を容易に噛みちぎれる化け物の牙を、あの腕で受けても平気そうな顔だった。その後に動いてるのを見ても、無傷のような感じだったし、少なくとも、痩せ我慢なんかじゃなかった。
引っ張り出された記憶の一部。
それを思い出し、俺は呟く。
「確かに、これならあの時の説明がつく……でも、じゃあ、だとしたら、この腕は一体……」
疑問と納得が交差する。だがしかし、残ったのは新たな疑問だけ。
硬直は解けない。冴島さんの片腕を俺は未だに掴んだままでいる。疑問について考えると、体が動くのを忘れてしまうのだ。
そんな中ふと、視線を上げてみる。
–––––––その先には、腕を掴んでいる俺を冷たく凝視する冴島さんの目があった。
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