第3話 月夜に
「はぁ……疲れたぁ」
時刻は午後6時過ぎ。
明るかった空は一気に暗くなり、空には月が昇っている。
授業を終え、放課後の補習を終えた俺は、目と頭を疲労させながら帰路を歩いていた。
「英語の点数が悪いからって、補習まですることはないだろあの教師。海外に行く気はないんだし。全く」
1人文句を呟く。
テストが終わって早々、最悪の冬休み前である。
正直精神的にキツイ。
来年からは受験生。やらなきゃいけないことが山積みだ。でもこのままだと普通に病んでしまいそうだ。クソ雑魚メンタルは恐ろしや。
「……コーヒーでも買う、かな?」
飴と鞭。
鞭は何度も他人から振るわれるが、飴は違う。甘い飴は、自分で手に入れなければならない。
俺はこういった時に寄り道する自動販売機へと向かった。
歩いている住宅街の道を数回曲がり、電柱の横でポツリと佇む自動販売機の前で出る。
ラインラップは相変わらず。定番のコーラに、コーンスープとか。あとは中々に見ない謎なジュースとか。
俺はその中で1本130円する缶コーヒーに目をつけた。
「110……ね」
懐に入れていた財布を取り出し、残金を確認する。買うと決めたとはいえ、一度は財布の中身と相談しなくてはいけない。
財布の中に入っているのは三千と小銭が少々。今の俺の全財産である。
月が変われば補助金やらなんやらで最低限のお金が入るが、それまではこの残りでやっていかなくてはいけない。
やっていけなくはないが余裕もない。そんな中での缶コーヒー。予算を取るか癒しを取るか……難しいものである。
「でも……今日くらいなら……」
結果、欲望の勝利である。
俺はなけなしの金を入れ、ホットの缶コーヒーを購入した。
そして、その場で口を開けて飲む。
凍えていた食道に温かいコーヒーが流れ込み、疲れた体に染み渡る。一時の幸せな瞬間である。
そして数分程が経つ。
俺はコーヒーを飲み干し、少しするとコンビニへと歩きだした。
この自動販売機にはゴミ箱が無い。故に缶を捨てるなら、コンビニに向かう必要がある。
幸いにも場所は近い。徒歩1分程で着く。
コンビニは思ったよりもがらんとしていた。
店内にはせっせこ働くバイト2人のみで、駐車場には車が1つ。
近所で起こっている事件が原因なのだろう。皆、夜の外出は控えているようだった。
これは最近見る光景。1ヶ月前からこれである。
けど、今回は少し違った。
「ん? あれは……」
コンビニの向かい側。それは住宅の塀の前。
車が通ってないのをいいことに、そこで俺と同じ制服を着た陽キャ男子2人が女性1人に対してナンパをしていた。
「お姉さん、綺麗っすねぇ。ちょっと俺らと遊んだりしないっすか?」
「大丈夫大丈夫、何もしたりしないからさ。ちょっとご飯食べたりとかさ、それくらいだからさ」
安い口説きセリフを吐き、学生2人で大人1人に言い寄っている。当然、俺はドン引きしていた。
「にしても、ちょっと方法古くないか?」
小声で呟く。なんか、前に見た漫画で言っていた気がしないでもないナンパセリフであったので、つい言ってしまった。
俺はナンパされてる人を助けてあげたいと思ったが、面倒事は避けるべき、と心が言っているので踏み止まる。
幸いにも学生2人の背で俺の姿は女性からは見えていない。じゃあここは無視しよう、そう俺は決めた。
–––––––だが、無視しようと歩き出した瞬間。生徒2人の奥で、見覚えのある赤い髪が揺れた。
「–––––––」
その髪を目にした途端、俺は息を呑んだ。
同時に朝の記憶が蘇り、無意識に照合が始まる。
青いジーンズに黒い革ジャンにグローブ。170はあるであろう身長。そして真っ赤に染まり腰にまで伸びる長い髪。
そう、朝にすれ違った女性であった。
「ほんと邪魔なんだけど。道開けてくれない?」
彼女は胸の下で腕を組み、不機嫌な顔を浮かべて目の前の2人に言う。初めて聞く声に俺は一瞬ドキリとする。
「釣れないこと言うなよお姉さぁん。でも、気の強い女も俺は好きっすよ」
「なぁだからさ、俺らと一緒にさ」
男の1人が彼女の片腕を掴む。彼女の顔がさらに険しいものになる。
「……しつこい。君達に興味が無いって、何回言えば分かるの? この手離して。怪我したくなかったら」
「怪我? 何? 俺とやるっての?」
男子生徒は笑いながら言う。
片やは不機嫌、片や嘲笑。どちらの手が先に出るか分からない。一触即発の雰囲気。
こんなことには関わりたくない。
見ていたくもない。
聞いていたくもない。
……そう思っていたが–––––––不思議と、俺の体は勝手に動き出した。
「なあ2人とも。その手、離しなよ」
俺は手を伸ばす。
そして、彼女を拘束する男子生徒の片腕をガシリと掴む。
「はあ?」
向けられる敵意。
声色は荒く、大きい。パンチが飛んでくるのでは、といった心配、恐怖もある。
だが、謎に湧き出てくる正義感からなのか、願わくばといった無意識的な下心からなのか、よく俺には分からなかったが、一歩もここを引こうとは思わなかった。
俺は自身の顔を目の前の学生に真っ直ぐと向ける。
「だからさ、この人嫌がってるじゃん。流石に力ずくってのは–––––––」
俺が言っている時だった。
突如目の前の学生が、掴んでいる俺の手を思い切り振り解いた。
そして後退りし、握られた手首を大事そうに摩りだす。
「は?」
腑抜けた声が漏れ、視線が振り解かれた自身の手へと向かう。
俺はすぐに視線を戻し、突拍子もない行動を取った学生の顔を再度確認する。
そこには、先程まで男子学生にあった陽気かつ不機嫌な表情など存在しなかった。
その代わりに存在したのは、恐怖に染まった顔だった。
冷や汗をかき、瞳は小刻みに揺れ、口元は痙攣している。それは側にいたもう1人の学生も同じであった。
「あぁ……ああ……」
言葉にならない声を喉から発する。
その恐怖の対象は明らかに目の前にいる俺だ。
そして学生は口にする。
「ば、"化け物"だぁぁぁぁぁぁ!」
彼はそう叫ぶと、側にいたもう1人と共に逃げ出した。
辺りに木霊する叫び。遠のく疾走音。男子生徒2名は、夜の闇へと消えていった。
逃げ出す彼らの背中を見送る。
俺は彼が最後に言った「化け物」という言葉を心の中で何度も繰り返す。
化け物、化け物、化け物……やっぱり、小学生の頃に付けられたあの言葉は、未だにこの町の学生達に根付いているようだ。
けど、まあいい。今回に限ってはその名前に救われた。というか、俺の顔知られすぎだろ。
「ねぇ、君」
「え?」
そんなことを考えていたら、背中から声を掛けられる。さっき絡まれていた女性の声だ。
俺は振り返り、彼女を見る。
「あ……」
俺は何かを話そうとした。掛けられた声に答えようとした。
けど無理だった。俺は今、初めて真正面で彼女と対面したからだ。謎の緊張で息ができなかった。
「ねぇ、どうしたの? 大丈夫?」
固まる俺を不審に思ったのか、彼女に再度声を掛けられる。
その瞬間、俺は呼吸というものを取り戻し、思考を再び動かせるようになった。
「あ、はい。全然大丈夫です」
「そう。ならいいけど。なんかあの男子共、急に叫んで逃げ出したし」
「あー、そうですね」
愛想が無いような返事をする。どうにかならないものかな、こりゃ。
彼女の表情は、明らかに柔らかくなっていた。笑み、とはいかないが、不機嫌による険しさは顔から消え去っている。
「何が起こったのかよく分かってないけど、まあ、なんか君に助けられた気がするね。ありがと」
感謝の言葉と共に、彼女は優しく微笑みを浮かべる。
初めて見る彼女の笑顔。満面の笑み、太陽の笑みとはまるで違う、優しさ。
俺は言葉を失った。
「い……いえ。お気になさらず」
探し出せた言葉で短く返す。だがこれ以上の会話は心の毒だ。
「それじゃあ、俺はこれで」
少し頭を下げ、視線を外してコンビニへと体を向ける。とにかく今は、心が生きてるうちにここから離れたかった。
俺が動くのと同時に、彼女もすれ違うように歩き出す。進行方向は俺の後ろの道のようだった。
カラン、とコンビニの外に備え付けられたゴミ箱に空の缶を捨てる。
コンビニの中はやはり誰もいない。何か買っていこうかという誘惑が一瞬襲ってきたが、どうにか払い除けた。
「……雑魚だなぁ、俺って」
店内の光に晒されながら、ポツリと呟く。
眩しい人を前にして、言葉が詰まるどころか、会話するだけで心が痛いなんて。
ほんと、弱すぎる。
もうあの女の人のことは忘れよう。どうせ俺とは交わることのない人だ。今朝のあれは、ほんの一瞬の
心を整理して、俺は今いるコンビニから家に帰ろうと歩きだす。
–––––––だがその時、俺の視界で一瞬、何かが煌めいた。
「ん? 何だ、あれ」
場所は先程まであの女性が立っていた所。
そこには、ここに来た時には無かった紅いペンダントが落ちていた。
俺は小走りで近づき、そのペンダントを拾う。
紅く輝くペンダント。
プラスチックで出来ている様子もなければ、ただのガラスを加工したものとも思えないズッシリさ。
ただの装飾品ではなさそうだ。
「見るからな高そうなものだけど、こんなのさっきまで落ちてたか? ……あ」
瞬間、ある可能性に辿り着く。
これが落ちてた場所とそのタイミング。考えられる可能性は1つだけだった。
「だとしたら、ヤバくないか。こんな高級品落とすなんて」
警察に届けるべきか?
普通はそれが一番だ。確実であるし、安全でもある。
日本の警察はこの手に関しては優秀だ。だから、近くの交番へと向かうべきだ。
けれどその時、俺の中で振り払った筈の邪な想いが邪魔をしてくる。
–––––––彼女はまだ遠くに行っていない。
–––––––今ならまだ間に合う。
–––––––もう一度、会えるかもしれない。
脳裏に浮き出てくる文字。
囁きながら誘ってくる悪魔の名案。
「–––––––」
結果、その想いに負けた。
俺は重荷になるバッグをその場に落とし、帰路の反対方面へと走り出した。
向かうは繁華街。彼女に再び会いに行くんだ。
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