【インタールード】ウェステッド村のアイラ 幸せの思い出

 私にとって幼い頃の記憶は、つらくて悲しい感情を伴ったものが多いです。

 いや、その幼子だった当時は、辛いという思いすら持てていませんでした。

 今になってから、当時の辛さを理解できます。

 私が生まれる少し以前から、故郷であるウェステッド村を含む近隣の村は、当時の領主によって厳しい税を課せられていました。

 国が定めていた税の割合よりもずっと高いそれは、当時の領主の私腹を肥やすためのものでしかありませんでした。

 税という名目で、収穫物のほとんどを強奪され、私たちはわずかな作物とこっそり野山から採取した草木で飢えをしのぎ、命をつないでいたのです。

 それは、六年前、今の領主である旦那様たちが王国軍の小隊を率いてやってくるまで続いていました。

 当時の領主は、やりすぎたのです。

 その領地の運営は、王国法から逸脱した違法行為とみなされ、処罰が下りました。

 そして、旦那様が新しく領主に任命されました。

 旦那様の元で領地の人々は徐々に笑顔を取り戻していきました。

 最初の頃こそ、私たちと旦那様たちの関係はぎくしゃくとしたものでした。

 しかし、誠実な旦那様の人柄に触れ、段々と両者の間にあった垣根は低くなっていきました。

 前の領主の捕縛による騒動が一段落したあと、なんと旦那様はそれぞれの村を訪れ、助けに来ることが遅れたことを村の一軒ずつに謝って回ったそうです。

 ある日の夜、家の裏でお母さんが涙を流していました。

 私が見ていることに気づいたお母さんが、「ごめん」と言って、私を抱きしめて、涙のわけをポツポツと語ってくれました。

 もし旦那様たちが、もっと早くに来てくれれば、お父さんは死ななくてもよかったかもしれない……今の村の様子をお父さんにも見せてあげたい、とそんなようなことを聞きました。

 幼かった私には、気丈なお母さんが流している涙の理由も、その話の内容もろくに理解できませんでした。

 いつも元気なお母さんが泣いている。

 ただそれだけで悲しくなり、私はもらい泣きをしてしまいました。

 その夜に一緒に泣いたのは、親子二人だけの秘密です。

 そして、私のお父さんは前の領主に税を減らすことを願い出たために、前の領主の手下であったならず者たちから暴行を受けて亡くなったと母から聞きました。

 それは、旦那様たちが来るほんの数日前の話だったそうです。

 親不孝な話かもしれませんが、私はお父さんが亡くなったことを悲しいとは思っていません。

 いえ、正しく言うならば、私はお父さんのことをよく覚えていないのです。

 ただ、なたを振るって力強くまき割りをするお父さんの背中……。

 その近くに座って、薪割りの音を聞く。

 そのときの安らぐような落ち着くようなフワフワとした感覚だけは覚えています。


 旦那様と領民の両者が、本当の意味で打ち解けることができた最大のきっかけは、奥様がお嬢様をご懐妊されたことです。

 奥様のご懐妊を知った領地の人々は、普段からの感謝の気持ちを込めて、自主的に旦那様に祝いの品を届けました。

 それらの祝いの品を旦那様は遠慮して断ることはしませんでした。

 一人一人に丁寧なお礼を言って受け取りました。

 そのお祝い攻めが落ち着き、しばらくして領民の全員をウェステッド村に集め、祝いのお返しとしてごそうを振る舞ってくれました。

 会場となったウェステッド村は、まるでお祭りのようなにぎわいを見せていたことを、私もしっかり覚えています。

 そのときです。私たちは初めて平和が訪れたことを実感しました。

 奥様の出産にあたり、お屋敷のお手伝いに行くという名誉ある役目は、ウェステッド村に住んでいた私が選ばれました。

 私が村長の家の子であり、村で二人だけしかいない未成人の女性の片方だったからです。

 ちなみにもう一人は歯の生え始めたばかりの赤ん坊でした。

 勤め始めてすぐの頃、失敗ばかりの私に、奥様は怒るわけでもあきれるわけでもなく、むしろ、家族を心配するような態度で接してくれました。

 一巡りもつか経たないかのうちに、私はそんな奥様にすっかり心酔していました。

 もちろん、旦那様やロイズ様も優しくて素敵な方です。

 けど、私がバーレンシア家の仕事にすぐめたのは、奥様のおかげであったかと思います。

 私にとって、奥様は第二の母のような存在です。

 私がお屋敷の勤めに慣れて、時間にゆとりができるようになると、奥様から「行儀作法を覚えてみない?」と尋ねられました。

 最初は、恐れ多いことでお断りしていたのです。

 何度も勧めてくれる奥様と「生まれてくる子の手本になってほしい」という旦那様の言葉に、それ以上断り続けるほうが失礼になると思い、私は行儀作法を習い始めることにしました。

 さらに行儀作法だけでなく、文字の読み方や簡単な計算なども一緒に教わることになりました。

 教わるということのすべてが新鮮でした。

 それは、今まで歩いていた夜道を、突然横からランタンの明かりで照らしてもらえたような、衝撃的な気分でした。


 お嬢様は、生まれたばかりの赤ん坊の頃から、すごい方でした。

 普通、赤ん坊というものは、ちょっとした変化に泣いたりわめいたり、かと思うと人の顔を見てはうれしそうに笑うものです。

 ところがお嬢様は、無駄に泣いたりしません。

 そして、奥様や私が何かを言うと、その言葉をわかっているかのように反応を示しました。

 例えば、「おやすみなさい」と言えば、目をつぶって静かになりました。

 「ご飯ですよ」と言えば、私たちのそばに近寄ってきました。

 お嬢様が三歳になり、ある程度の言葉をはっきりとしゃべれるようになってくると、お嬢様のすごさが本格的に発揮され始めます。

 以前から、奥様に本を読んでもらっていましたが、ある日つたない発音ながらも「文字を覚えたい」と言ったのです。

 その様子は、すでに文字の重要性を理解しているようでした。

 恥ずかしい話ですが、私は文字を教わり始めたばかりの頃は、そこまで文字を覚える必要があるとは思っていなかったのです。

 ただ、私が文字を覚えることで、奥様が喜んでくれる。それが嬉しくて、ひたすら文字を覚えようとしていただけです。

 普段、村で暮らしている分には、言葉さえ喋れれば十分です。

 文字を書くよりも話したほうがずっと早く、わざわざ文字を使って会話をする必要はありません。

 誰かに何かを伝えたければ、直接その人を捜して話をするか、誰かに伝言を頼むだけで用は足りてしまいます。

 文字の勉強がある程度進むと、奥様は貴重な紙を何枚かと黒炭筆をくださりました。

 そして、その紙に新しく知った料理のレシピを書いておくように言われました。

 そのことで、私は初めて文字の便利さと重要さに気づけました。

 私自身が覚えていなくても、文字に残すことで重要なこと──私にとっては料理のレシピ──を、思い出すことがすごく楽になるのです。

 いくつかのレシピを書きめたことで、レシピ同士を見比べることができ、新しい発見をしたり、挑戦してみたいことを思いついたりするようになりました。

 そんな文字の重要さを三歳になったばかりのお嬢様が理解されていることに、少しの悔しさと多くの驚きを感じました。

 文字の勉強が始まると、お嬢様はすぐに簡単な単語を書けるようになっていました。

 村の子供たちとは比べものにならないくらいのそうめいさです。

 お嬢様のことを思い切って、ロイズ様に尋ねてみました。

「あの、ロイズ様、ちょっとよろしいでしょうか?」

「ん? 何か手伝ってほしい力仕事でもあるのか?」

「あ、いえ、そうではなくて少しおきしたいことがありまして」

 ロイズ様は、私が働き始めた頃から色々とお世話になっている方です。

 とても気さくな方で、私とも対等に話してくれるのですが、どうしてか最近ロイズ様を前にすると今までなかった緊張を感じてしまいます。

 それでも、お嬢様のことが気になったので、思い切って声をかけたのです。

「ふむ、アイラ嬢が屋敷で働くようになって、そろそろ三年半か? 旦那様やマリナ様と違って、俺は同じ使用人なんだから、そんなかしこまらなくてもいいんだぞ?」

「そ、そうですけど……ロイズ様は、やっぱりロイズ様で……あぅ」

 そもそもロイズ様は、旦那様と一緒に村を助けてくれた王国軍の一員でした。

 今でこそ、同じお屋敷で働く使用人仲間と言えますが、ロイズ様もいわば村の恩人です。

 以前から、自分のことを様付けで呼ばなくてもよいと言ってくれていましたが、それはやっぱり恐れ多いことです。

「ああ、すまん。困らせるつもりはなかったんだ」

 慌てたロイズ様が、その大きな手で私の頭をでてくれました。

 私がまだまだ若いからでしょう。

 奥様もたまに私の頭を撫でてくれます。

 頭を撫でられるのはちょっと恥ずかしいのです。

 が、ロイズ様に触られた部分が温かい感じがして、なんだか安心しました。

「それで俺に訊きたいことって?」

「お嬢様のことなのですが……お貴族様だと生まれたときから、あのように賢いのは普通なのでしょうか?」

 私が知っているお貴族様は旦那様と奥様だけです。

 お二人とも、とても頭の良い方ですが、初めてお会いしたときから大人でした。

 なので、私にとって、お嬢様が初めて会ったお貴族様の子供になります。

「いやいや、農民の子だろうが、貴族の子だろうが似たようなもんだ。お嬢様はあれだ、地精霊の申し子に違いないな」

 それで納得しました。

 賢さをつかさどる地精霊様の加護を得ているならば、お嬢様の賢さも驚くことではありません。

「なるほど、ありがとうございます」

 勇気を振り絞って、ロイズ様に相談したのは正解だったようです。

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