Chapter2 バーレンシア家の人々(3)

 朝の父親への見送りが終わると、昼食までの間、リビングで母親を先生とした勉強会が始まる。

 生徒はオレとアイラさんだ。

 もともと、アイラさんの奉公は行儀見習いのような意味を兼ねているらしい。

 屋敷の家事をこなしながら料理や裁縫を学び、時間を作って、簡単な勉学や礼儀作法なども教わっている。

 最近は、母親がオレに本の読み聞かせをしている横で、アイラさんも一緒に勉強をする形になっていた。今日は、アイラさんは刺繍ししゅうを教わるようだ。

「さて、昨日はどこまで読んだかしら?」

「水の精霊王さまが、西の島で風の精霊王さまと出会ったところです」

「ということは、ここからかしら」

 オレは母親の右隣にくっつくように座り、母親の膝の上に広げられた本を横からのぞき込む。

 前世では、書籍といえば、ほぼ電子媒体になっており、実物の紙に印刷し製本された本は、趣味的なものになっていた。

 けれど、この世界では、まだ印刷技術がつたないため、本は貴重で高価なものだ。とくに絵本や図鑑などの絵が主体の本は珍しく、一部の裕福な家庭しか購入できない品になっている。

 活版印刷の技術は確立されているようで、ハンコのような規則正しい文字が並び、版画で刷られただろう絵が添えられている。

 そんな本の字を、母親は俺の横に座って、ゆっくりと一文字ずつ指でなぞりながら、声に出してオレが理解できるように意識して読み上げてくれる。

「一人でご本が読めるようになりたいです」

 と、オレがおねだりして先日から始まった勉強だ。

 おかげで、だいぶオレもこの世界の文字が読めるようになってきた。

 文字を早期習得する目的は、父親の書斎にある本から、この世界の情報を集めることにある。

 前世では、それほど勉強が好きでもなかったが、今は大好きなゲームを攻略しているような感じで、この世界のことならなんでも楽しく学べている。

 母親が読んでくれるのは、この世界の神話だ。

 子供向けに簡単でかつ、基本的な言葉で書かれているので読み聞かせにちょうどよいらしい。

 冒頭は世界が始まる創世記が書かれており、続いて、精霊王と呼ばれる超常者の、どこか人間くさい交流や失敗談を収録した逸話集となっている。

 まず、母親が一文ずつ読んでは、それぞれ新しく出てきた単語やことわざのような言い回しの意味を教えてくれる。

 そうして物語のキリが良いところまで、母親が読み進める。

 そのあとで絵本を受け取って、オレは読み返しながら文字を覚える。

 その間、母親はアイラさんの様子を見て、質問を受けたり、気づいたところを指導したりする。

 アイラさんは、だいぶ針の扱いに慣れてきたようで、質問をすることもなく時間いっぱい刺繍をしていることもある。

 そして、オレが読み終わったところで、文字を覚えられたかどうかの簡単なテストをする。

「じゃあ、ユリィちゃん、最初の言葉は『月』ね」

「はい!」

 母親が、今回、オレが読み進めた範囲から、いくつかの単語を選んで読み上げる。オレはそれをつちばんに書いて、きちんと覚えているかを確認するのだ。

 ちなみに、土板というのは、高さのない枠をつけた薄い木箱に細かくしっとりとした土を敷き詰めたものだ。

 細い棒を使って、土の上に文字を書くことができる。

 書いた文字は、なぞって土をならせばすぐに消せるので、繰り返し使える。

 紙はそれなりに生産されているらしいが、高価な本の材料になるか公的な文書に使われている。

 子供の勉強やちょっとしたメモに使えるようなものではないのだ。

 土板なら自作することも簡単で、お金もほとんどかからない。

 オレが文字の勉強を始めた日に父親が用意してくれた。

 ユリアの能力が高いのか、覚えようと思ったことがすぐに覚えられる。勉強は、できるとすごく楽しいものだと思った。

 この世界の文字は、六個の親文字と五個の子文字と呼ばれる部位を組み合わせた三十字からできている。

 その文字の読み方は、前後の並びによって、同じ文字でも複数の発音を持っている。感覚としては音読みと訓読みがある日本語の感じに近い。

 母親が出す問題に、いくつかは正解し、いくつかの単語はわざとわからない振りをした。

 大人の理解力を持っているオレならば、普通の子供よりもはるかに効率よく言葉を覚えていくことができる。が、それはあまりに異質で不自然なことではないだろうか?

 なので、オレはちょっとした天才程度で済むくらいの点数だけを取ることにしている。

 人のいい母親たちをだましているようで、ほんの少しだけ良心がとがめるが……。

 これはもう、しょうがないことだと、自分に言い聞かせて割り切ることにした。

 もし、オレが転生をしていて精神的には大人と同等であると知られたら、どうなるだろう?

 三歳児が大人顔負けどころか、下手をすれば、この世界の文明以上の知識を持っているのだ。

 それは「すごさ」を通り越して、「おそれ」を招かないだろうか?

 オレは「そんなことはない」と断定できない。

 拒絶されることが怖い。だから、オレは全力で子供のふりを続けている。

 ……この両親なら、案外、あっさりとオレの存在ごと認めてくれるかもしれない。というのは、今のところオレの願望でしかない。

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