大公ハイゼン・マーキス・アルベイルと始まりのかけそば(5)

「ああ……。これのことです。こう……」

 と、青年は卓上に置いてあった、何に使うのか分からなかった木の棒の束からおもむろに一本を手に取った。そして、ハイゼンとアダマントの前で実演するよう、手にした木の棒を割れ目に沿ってパキッと二つに割って見せる。

「こういうふうに割って、この二本の箸で料理をつかんで食べるんです」

 言いながら、シャツのポケットにオハシなる木の棒を差し込む青年。

「それは何ともまあ……」

「面妖だな……」

 明らかなる異文化。カテドラル王国の文化ではないのはもちろんのこと、そもそもからしてこの大陸の文化体系にはないものだ。

 ハイゼンの認識では、この大陸においてはどんな国でも普通はナイフやフォーク、スプーンといったものを使って食事をする。南方にはいまだ食器を使わず、大きな葉に料理を盛り、づかみで食事をする文化が残っていることも知っているが、どの国にもただの棒を使って食事をする文化はないし、歴史書にも棒で食事をする民族の記述はない。

 故に異文化。カテドラル王国とは国交さえない、恐らくは別大陸の文化だろう。ということは、この青年はその別大陸からはるばるここまで旅をして来たということだろうか。そこらへんの事情は後々聞けばはっきりするだろう。

 いずれにしろ興味、そして驚きの尽きない店である。

「お箸を使うにはある程度練習が必要だと思いますので、フォークをお出ししましょうか?」

 オハシを前に呆然とする二人に苦笑し、気遣いから青年がそう申し出てくれた。

「いや、せっかくの機会だ、私はこのオハシとやらを使ってみるぞ」

「私はフォークを頼む」

 オハシに興味が湧いたハイゼンはあえて提案を断り、慣れないことをするより慣れ親しんだスタイルで食べた方が良かろうと判断したアダマントはフォークを頼む。

 これについては好みやこだわりの問題なのでお互いに干渉したりはしない。

「かしこまりました」

 そう言って青年は厨房に引き返し、すぐに戻って来てアダマントにフォークを手渡す。

「それでは、ごゆっくりどうぞ」

 青年は丁寧にお辞儀をすると、また厨房に戻って行った。

「どれ……」

「早速食べてみますか……」

 ハイゼンは青年の実演を思い出しながらワリバシを手に取り、ようでパキリと割る。れいに割った青年とは違い、後ろの方が少しいびつに割れてしまったがこれもごあいきょう

「まずはスープからであろうな」

 スプーンがないのでどんぶりに直接口をつけてスープをすするハイゼン。貴族として少々下品ではあるが、郷に入れば郷に従え、という言葉もある。ここはこのスタイルが正解なのだ。

 ずず、ずずず……。

 音を立てて口の中に入った温かいスープが舌の上に広がる。

 瞬間、ハイゼンの口内で味覚の華が開いた。

「う、美味い……ッ!」

 感動のあまり、ハイゼンは意識すらせず唸っていた。

 喉から鼻に抜けるほうじゅんな香り、まろみを帯びた柔らかなえん、喉を通り胃のに落ちる温かさ。王宮で一流の美食を食べて育ったハイゼンをして、このスープはそれらをりょうがするものと言わざるを得ない至極の逸品である。何という美味さなのか。

 この独特な旨味、これは恐らく海産物由来のものだろう。料理人に腕がなければ海産物は余計な臭みが出てしまうものだが、このスープにはその余計な部分が全くない。南国の青い海を想起させるような、一点の曇りもなく澄み渡ったスープだ。

 スープを啜った時に輪切り野菜が一片ほど口に入ったのだが、これも歯ざわりがシャキシャキとしていて、かつ程よい辛味が良いアクセントになっていた。

「これは、何と美味な……」

 隣を見れば、アダマントもスープの美味さに声を失っている様子。まあ、この美味さを思えばさもありなんといったところか。

 くはない、きっと美味いだろうとはハイゼンも思っていた。

 だが、これは正直、想像以上だ。国の頂点とも言える、王宮の料理人たちとてここまでの味を出すことは難しいだろう。こんな場所で思いがけずここまでの美味に出会えるとは。何たるぎょうこうだろうか。実にうれしい誤算である。

「よし、次は麺だな……」

 ゴクリと喉を鳴らし、どんぶりを覗き込む。慣れぬオハシを歪に握りながら、どうにかこうにか先端に麺を引っかけ、それをツルツルと口に運ぶ。

 よくスープが絡んだ麺の味とコシのあるみ応え。スパゲッティともまた違う細切りの麺の強い歯応えは実に心地よく、噛めば甘みと共に独特な芳香が鼻に抜ける。それは何処か牧歌的で郷愁を思い起こさせる、心を落ち着かせてくれるような香りで、麺をえんした時、ハイゼンは思わず、

「ほ……っ」

 と、息を洩らしていた。

 一息ついた、とでも言えばいいのか、ともかく心に平穏をもたらす味だ。これは王都の心ない噂に気をんでいたハイゼンに久しく訪れることのなかった感覚である。

 王弟としての重責、大公としての使命、気鬱や心労といったものに押し潰されそうになっていたハイゼンが、最も求めていた心の平穏。それがまさか、これまで食べたこともなかった異国の料理によってもたらされることになるとは。何と不思議な巡り合わせなのだろうか。

 スープと麺に少々の具。実にシンプル、しかして実に奥が深い。

 このソバという料理には、人生と同じ妙味が詰まっている。

 声に出して何度でも言いたい、何たる美味であろうか、と。

 ずず、ずずず、ずずずず。

 ツルツルツルツル。

 ずずず……。

 気が付けば、ハイゼンは夢中になってオハシを進め、あっと言う間にカケソバ一杯をたいらげてしまった。スープの一滴すらも残さずにだ。

「………………ああ、美味かった。実に、美味かった」

 ふう、と熱い息を吐き、満足そうに呟くハイゼン。

 ハイゼンの隣では、同じくカケソバを食べ終わったアダマントが美味そうに水を飲んでいる。

「どうでしたか、うちのそばは? ご満足いただけましたか?」

 ハイゼンたちが食べ終わるタイミングを見計らっていたのだろう、大きな水差しを持って、青年が厨房から出て来た。

 普段の険しい表情が嘘のように穏やかな笑みを浮かべ、ハイゼンは青年に水をそそいでもらう。

「いや、満足も満足、大満足よ。店主、そうになった。実に美味であったぞ」

 言いながら、美味そうにグビリと水を飲むハイゼン。カケソバの熱と未知の美味に巡り合った興奮でった身体からだに、キンキンに冷えた水が染み渡るようだ。

「私も満足だ。こんなに美味いものは正直、王都にもなかった」

 そう言うアダマントも口元に笑みを浮かべている。彼とは長年の付き合いであるハイゼンだが、アダマントがものを食べて嬉しそうに笑うところなど初めて見た。きっと、本当にカケソバが、それこそ笑ってしまうくらいに美味かったのだろう。

 満足そうな二人の様子に、青年も嬉しそうに頭を下げる。

「ありがとうございます。しかしお客様方……」

 何だか含みのある様子で言葉を切った青年に、ハイゼンも何だろうかと顔を上げた。

「ん?」

「七味唐辛子をお使いになりませんでしたね?」

 言われて、ハイゼンは一体何のことだろうかと首を傾げた。

「んん? シチミトウガラシ、とな?」

 シチミトウガラシ。ハイゼンの知らない言葉だ。語感すら馴染みがない。アダマントの方に顔を向けてみると、彼も分からないと首を横に振った。

「これのことです」

 青年は卓上に手を伸ばし、ワリバシが収めてある筒の隣に置かれていた、何に使うのか分からなかった、赤い粉が詰まった謎の瓶を手に取って見せる。

「それがシミチトウガラシとかいうものか?」

「ええ、その通りです」

「して、これが何か?」

「これもまあ薬味なんですがね、そばの上に一振り、二振りするとまた一味違った味わいになるんですよ。ピリリと辛くて、味が引き締まるんです」

 にこやかに笑いながら、シチミトウガラシの瓶を卓上に戻す青年。

 ソバとは何とも奥が深い料理だと思っていたが、どうやら懐すらも深いもののようだ。ハイゼンはまだまだその深奥を目にしてはいないらしい。

「何と! それはまことか!?」

 先ほどの興奮がよみがえったかのように、ハイゼンは大きな声を出した。

「ええ、勿論です」

 そう言って頷く青年を見て、ハイゼンの中で決心が固まってゆく。

「シチミトウガラシ……味わってみたい…………ッ!」

 ソバというものの奥深さ、これはただ一杯のカケソバのみを食したところで、まだまだ底など見えないだろう。それが知りたいのであれば、もっと杯を重ねるしかない。

 ハイゼンももう若くはない、随分前に人生の折り返し地点を過ぎたような歳だが、それでも胃にはまだ若干の余裕がある。ここで更にソバの深奥に一歩踏み込まず引くことは出来ない。

 老いたとてハイゼンは爪も牙も未だ折れてはおらず、闘争心も衰えてはいない。愚直に前進あるのみ。

「おい、アダマント! もう一杯だ! もう一杯カケソバを頼むぞ! 良いな!?」

 ハイゼンの意気が伝わったのだろう、アダマントも苦笑しながら頷く。

「仕方がありませんな。不肖アダマント、老骨にむちってお付き合いいたしましょう」

 ハイゼンは満足そうに頷き、青年に向き直った。

「その意気や良し! 店主、カケソバのおかわりを頼む! 私にも、このアダマントにもだ!」

「かしこまりました」

 青年はペコリと頭を下げ、空になった食器を下げて厨房に戻る。

 その背を見送りながら、ハイゼンは次のカケソバはまだか、まだかと少年のように心をはやらせていた。

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