異世界で何がしたい? 辻そばしかねえだろ(1)

 ゆきが目を覚ますと、そこは空だった。

 眼下にはじゅうたんのように敷き詰められた雲が切れ間なくまでも続いている。

 それ以外は全て空の青。宇宙のしんえんを思わせるほどただただ青く澄み切っている。

 飛行機が雲の上に行った時の景色に似ているが、しかして天に太陽はなし。そんな状況だ。

 覚醒した直後ではあるが、案外意識ははっきりとしている。

 雪人はどうも雲の上であおけに寝ていたらしい。

 随分とメルヘンな状況ではあるが、不思議と慌てる気持ちは湧いてこない。落ち着いている。

 手で少し雲を押してみると、高級なマットレスのような柔らかな抵抗を見せた。

「…………俺、助からなかったのか。どう見ても天国だもんな、ここ」

 のそりと立ち上がり、怖くなるほどの晴れ晴れとした青い空を見つめたまま、雪人はつぶやく。

 この場所で目を覚ます前、自分が何処で何をしていたのか。

 雪人はちゃんとその時のことを覚えていた。

 春先には珍しい雪の日。

 自分が店長を任されただいつじそばすいどうばし店に出勤している最中、幹線道路の交差点で信号待ちをしていると、凍った路面でスリップした大型トラックが横転したまま眼前に迫って来たのだ。

 その直後からの記憶がないということは、きっとそのまま即死したのだろう。

 他に信号待ちしていた人はいなかったから、恐らくは事故に巻き込まれたのも雪人だけ。

「俺の人生、もう終わりなのか? 人生これからだって思ってたのに。これから……せっかくこれから、俺は辻そばで…………」

 その先の言葉を飲み込み、雪人はぎゅっと拳を握った。

 自分自身を哀れむようなことはしたくない。そんなことはあまりに惨めだ。

 が、いくら何でも、こんな救いのない終わり方はあんまりではなかろうか。

 週刊連載で己自身を擦り減らしながら漫画を描いていた中でいだした、名代辻そばという光。

 その光の下に行く、その直前だったというのに。

 頭が回ってくると、先ほどまではあれだけいでいた心が激しく波打ち始める。

 雪人の心が途端に暗い海の底に沈んでいく。

 それだけ雪人は辻そばに入れ込んでいたのだ。

 口にはせずとも、これ以上のことを考えると思わず涙が出てしまうかもしれない。

「そう悲観することもない」

 ふと、背後から何者かが声をかけてきた。青年らしき声だ。

「えッ?」

 雪人が驚いて振り向くと、はたして、そこには一人の青年が立っていた。

 古代ギリシャ人を思わせる純白の貫頭衣のようなものを着て、額にはげっけいじゅの冠、金色に発光する長髪を後ろに流した、何とも涼やかな雰囲気をまとう美青年だ。

 ここが本当に天国であるならば、恐らくは彼が神様と見て違いない。

 それが証拠に、思わず手を合わせて拝みたくなるほどの後光が彼の背後から差している。

「やあ、ハツシロユキトくん。はじめまして」

 口元に爽やかな微笑を浮かべたまま、青年がおうように片手を上げた。

貴方あなたは、もしかして…………」

 雪人が皆まで言うまでもなく、青年は肯定するようにうなずく。

「そう。君が思っている通り、私は神だよ」

「そ、そうか……」

 やはり、彼が神だったのだ。

 日本人の雪人としては神道風の神を想像していたが、どうやらギリシャ神話風が正解らしい。

「ただ、私は君がいた地球の神ではないけどね」

「え? 地球の神様じゃないってどういうことだ? 別の星……月とかの神様なのか?」

 雪人がそのような疑問を口にすると、神はそうではないと苦笑を浮かべた。

「ああ、いや、そうではない、そうではない。別の世界の神なんだよ、私は。別の宇宙の神と言ってもいいかもしれないね」

「べ、別の宇宙って……異世界ってことか? いや、でも、そんな…………」

 創作上の概念として、パラレルワールドというのは知っている。地球とよく似ているが、しかし少しだけ異なる別世界のことだ。

 しかしながら、それはあくまで創作上の、空想の話という認識。

 そんなものが実在していて、目の前の青年がそのパラレルワールドの神だと言うのだから、常人の雪人に混乱するなと言う方が無理だろう。

「なあに、そんなに難しく考えることはないさ。あれだよ、所謂いわゆる、異世界転生さ。きみ、ネット小説とか読まないかい?」

 ネット小説文化が存在するのは雪人も知っている。

 だが、残念ながらその文化に触れたことはない。

 元は漫画家だっただけに、学生時代は小説より漫画を多く読んだし、漫画家時代はそもそもプライベートな時間すらなかったので資料以外の本を読んでいる暇がなかった。

 それに本を読む時間があれば一分一秒でも長く眠っていたかったのだ。

 単純に寝ないと心身が持たないから。

 筆を折った後は辻そばに入れ込み、麺料理をはじめとした料理関連の本を貪るように読んでいたので、やはり小説は読まなかった。

「…………読まないな。そもそも小説自体あまり読んでこなかった人生だ」

 雪人がにべもなく答えると、神は困ったように「ううむ……」とうなる。

「……じゃあ、ゲームはどうかな? ロールプレイングゲームとかやらなかったかい?」

「ああ、それはやったかな。まあ、気楽だった学生時代の話だけど」

 そう雪人が言うと、神はあんしたように頷く。

「良かった。ならば話は早いね。私が担当している世界はね、ゲームに出て来るような、ちょっとファンタジーな世界なんだよ」

「モンスターだとか魔物だとか呼ばれる怪物がいて、剣と魔法で戦う感じのアレか? ふわっとした中世ヨーロッパ風の?」

 雪人はそこまで詳しい訳ではないが、それでも有名どころの名作ロールプレイングゲームはプレイしているので抽象的な雰囲気は分かる。

 ちなみにではあるが、雪人は高校が舞台のギャグ漫画を描いていたのでファンタジーにもあまり明るくはない。持っている知識もゲームのそれだけだ。

 雪人の言葉に、神はその認識で十分だと頷いた。

「そう、そんな感じだね。ちなみに、私の世界の人々には、魔物と戦うための『ギフト』と呼ばれる異能もあるよ。君がさっき言った魔法も、ギフトの一種だね」

 言ってから、神は「まあ、全部が全部、戦闘向きのギフトでもないんだけどね」と付け加える。

「そのファンタジー世界の神様が、俺みたいな勇者でも英雄でもない一般人に何の用だ?」

 神ともあろう者がまさか何の用事もなく雪人の前に現れたとは思えない。何か目的があるはず

 が、しかし本当に雪人を勇者として異世界に連れて行こうとしているとも思えない。

 仮に自分の世界に勇者を連れて行くにしても、雪人のような一般人ではない、もっと戦うことに特化した、格闘家や軍人のような人たちを連れて行くのではないだろうか。

 一体、この神様はそば店で働くただの男にどんな用があるというのか。

 雪人がげんな顔をしてくと、彼は意味深にニコリと微笑ほほえんだ。

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