【書籍試し読み増量版】名代辻そば異世界店1/西村西

MFブックス

名代辻そば

 はつしろゆきは大学卒業とほぼ同時に週刊連載の漫画家になったが、約三年間の連載終了と同時に筆を折って漫画家を辞めた。

 辞めた理由は、週刊連載の漫画家という仕事が想像を絶するほど忙しかったからだ。

 僅か七日で一九ページもの漫画を描く過酷な作業。

 しかも、そこに単行本の作業までもが追加される。

 極限まで神経を擦り減らしながら、昼夜の区別も土日祝日も関係なく描かなければとても作業が間に合わない。

 あれはまるで無限に続く修業のようですらあった。

 それでもどうにか三年間連載を続けたのだが、つい身体からだを壊して入院、見舞いに来た親に泣かれて漫画家を辞めたのだ。

 大学を卒業したばかりの新米が週刊漫画誌で連載を取れるなど快挙だし、その連載が三年も続くのは奇跡にも等しいことなのだが、いざ辞めるとなると、さして未練は湧かなかった。

 ようやくあの苦しみから解放されると、むしろあんしたくらいだ。

 漫画家になってからの三年間は働き詰めでプライベートな時間も全くなかった。

 だが、それでも日々の生活に楽しみが何もなかった訳ではない。

 たったひとつだけではあるが、楽しみがあった。それは、つじそばに行くことだ。

 だい辻そば。所謂いわゆる、立ちいそばの大手チェーン店だ。

 二四時間営業の辻そばは、雪人のように昼も夜もなく働き、食事時間も不規則な者たちにとって心強い味方である。

 何だかほっとする雰囲気が漂う店内に流れる、妙に耳みの良い演歌。

 深夜だろうが早朝だろうが、いつ行っても手頃な値段で温かいそばが食えるありがたさ。

 素朴なそばの香りと柔らかいつゆの味が、激務でヒビ割れた心に妙に染みるのだ。

 今にして思えば、漫画家をしていた最後の方など、激務の合間に辻そばに行きたいがために仕事場に通っていたようなものだろう。

 働く大人たちにとっての癒やしの場所、名代辻そば。

 最初は仕事が終わった深夜に飲食店を探していて、その時たまたま見つけて入った店だった。

 だが、雪人は一発で辻そばに魅了されてしまった。

 仕事場の周辺には他にもそば店があったのだが、雪人はかたくなに辻そばに通い続けた。

 単純に、そして熱狂的に辻そばを愛していたからだ。

 だから、漫画家を辞め、療養を終えると、雪人はすぐさま辻そばでアルバイトを始めた。

 日々の激務で擦り減った自分を優しく癒やしてくれた辻そばで、今度は自分が働く大人たちに心温まる一杯のそばと癒やしの時間を提供したいと、そう決意したからだ。

 それから更に三年間。漫画家時代ほど過酷ではないが、雪人は必死に働いた。

 自発的に目的を持ち、真摯な態度で日々ひたむきに。

 その甲斐かいあってか、雪人は勤務姿勢を評価され、三年でアルバイトから正社員に昇進。

 何と、新たに開店するすいどうばし店の店長を任されることになったのだ。

 そうして迎えた新店舗開店初日。

 その日は春先だったのだが、季節外れの雪が降っていた。

 雪深い北海道の地で育った雪人。

 雪人にとっては雪など慣れっこなのだが、東京の人たちはそういう訳にもいかない。

 雪に慣れていない東京の人たちは雪が降れば簡単に転んでしまうし、交通事故も多発する。

 早朝からツルツルと転ぶ人たちを横目に、しっかりとした足取りで職場へと向かう雪人。

 そんな雪人に対し、雪でスリップしたトラックが突っ込んで来たのは何の皮肉だろうか。

 タイヤにチェーンも巻いていない、恐らくはスタッドレスタイヤですらないトラック。

「へ……?」

 いきなりのことに状況を正しく理解出来ず、そんな間抜けな声がれてしまう。

 その間抜けな声が、まさかそのまま雪人の生涯最後の言葉になるなど、この時はそんなことを考える余裕すらなかった。

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