「風の又三郎」の朗読
これは「春と修羅」以前に書いたエッセイです。
ある日、Youtubeに小説の朗読があるということを見つけました。
最に聴いたの小説は、サリンジャーの「 Catcher in the rye〈ライ麦畑でつかまえて〉」でした。この小説を探していたわけではなく、偶然です。
昔はもちろん翻訳で読みましたが、今は英語で聴いてわかったので、自分で驚きました。まあ、こちらに長いこと住んでいるから当然なのですが、文学作品がすんなりとわかるなんて思っていなかったです。
Youtubeで最初に見つけたのはおじさんの朗読で、あれはやはり少年でなくっちゃだめでしょと次を捜したところ、いくつもありました。出来がよいのも、悪いのも。共通しているのは、みんな、早口で話すということです。
そうか、そうなんだ。今でも、十代の話し方って、そんな具合だものね。
あのホールデン・コーフィールドは悪ガキの、ほら吹きの、ひとりよがりの傷つきやすい男の子なんだね。精神病院にいるのではなくて、ニューヨークで二日間彷徨ったから病気になり、入院して、精神科のお医者さんに話しているんですね。誤解していたところが多々あり、若い頃、一時期、サリンジャーに夢中だったのに、私はいったい何を読んでいたのだろうと思ったりしました。
その話はさておきまして、今日は「風の又三郎」です。
英語の小説が出ているなら、日本のだってあるだろうと思って調べたら、たくさんありました。漱石、鴎外、芥川、太宰、賢治、向田邦子、・・・
おもしろくなって、夜ごとに聴くのが習慣になりました。
今夜は何を聴こうかなと捜している時に、「風の又三郎」を目にしたのです。
それは市原悦子さん朗読の「風の又三郎」でした。
私はこの小説は、子供の頃に読んで、その本をまだ持っているくらい好きです。
市原悦子さんの「風の又三郎」は、出だしの「音楽がうるさいな」という感じがします。でも、そのうちに音楽が消え、音楽はまた戻るのですが、その時にはもう気にならなくなっていました。
私は市原さんの朗読の世界に、スキップをするみたいにして、わくわくとしてはいっていきました。
方言、いいな。子供たち、生き生きしている、そんなことを思いながら、聴いていました。こちらも、読んでいた世界とは随分違いました。
ーーーーー
九月の二学期のはじめの日、
ふたりの子供が学校にやってきます。一番乗りで、
「ほぉら、いっとんだぞ、いっとんだぞ」
と言います。
ところが教室の机に赤毛の子供〈又三郎〉が座っているので、泣いてしまいます。
後から来た五年生の嘉助が、
「なしてないてら、うなかもたのか」
と言います。
方言ですが、大体、意味はわかります。「どうして泣いているんだい。捕まったのか」でしょう。
そこに六年生の一郎がやってきて、
「だれだ、時間にならないうちに、教室にはいっているのは」
「お天気のいい時、教室さはいっているずど、先生にうんと叱られるぞ」と言います。
「叱られても、おら知らないよ」
と嘉助です。
「早ぐではってこ、ではってこ」と一郎です。
そうなんだ、東北のこの小学校では、天気のよい日は外に出ていくなっちゃならないんだね、と私は思い、その絵が浮かびました。
そとて、この方言のパワー、楽しさに私は引っ張られて、ソファから起き上がりました。
「あいつは外国人だな」
「学校さ、はいるのだな」
と子供達。
市原悦子さんの「風の又三郎」を聴いて、やはり賢治が大好きだと思いました。なんて心のきれいな人なのでしょう。それに、聴いてて、何度も笑ってしまい、外の雨風のことさえ、忘れていました。
この小説は賢治の死後、発表された未完成の作で、題名も賢治がつけたものではありません。「風の又三郎」は魅力的な題名ですが、賢治なら、どんな名前をつけたのでしょうね。「嘉助と又三郎」かしら。
朗読を聴いていて思ったのですが、この物語の主人公は「嘉助〈かすけ〉」と「一郎」、ふたりはいとこです。
それでは、最後の部分を、引用もいれながら、書いてみます。
昨晩は嵐、今朝も雨が降っています。
一郎は又三郎がいなくなったような気がして、早く起きます。そして、井戸からバケツいっぱいに水を汲んで、水でぬらしてしまった台所をぐんぐん拭きました。
そして金だらいを出して顔をぶるぶると洗うと、戸だなから冷たいごはんとみそを出して、まるで夢中でざくざくと食べました。
「一郎、いまお汁ができるから。少し待ってだらよ。なんして今朝、そったらに早く学校へ行がなぃやなぃがべ」
と母親か訊くと、
「うん、又三郎は飛んでったかも知れないもや」
「又三郎さて、なんだてや。鳥っこだてが」
「うん。又三郎っていうやづよ」
一郎は急いでごはんを食べてしまうと椀をこちこち洗って、それから台所のくぎにかけてある油がっばを着て、下駄はもって、はだしで嘉助をさそいに行きました。嘉助は起きたばかりで、
「いまごはん食べて行ぐがら」
と言いましたので、一郎はしばらくうまやの前で待ってしました。
ふたりは学校に着くと、教室のところどころの窓の隙間からはいり、床はざぶざぶしていたのです。それで一郎は「嘉助、ふたりして、水掃ぐべな」と、シュロ箒をもって、水を窓の下の穴へはき寄せました。
そこへ先生がやってきます。
「先生、おはようございます」とあいさつしてから、「先生、又三郎はきょうくるのすか」
と嘉助が聞きます。
「又三郎って、高田さんですか」
先生は高田三郎くんはお父さんと一緒に他に行きましたと教えてくれます。日曜だったので、みんなに挨拶する暇がなかったと。
「先生飛んで行ったのですか」
と嘉助が聞きます。
先生は三郎の父親が会社から電報で呼ばれたことを教えます。
「何して会社で呼ばったべす」
と一郎が聞きました。
「ここのモリブデンの鉱脈は当分手をつけないことになったためです」
「そうだないな。やっぱりあいづは風の又三郎だったな」と嘉助が高く叫びます。
先生が去ると、二人はだまったまま、相手がほんとうにどう思っているかをさぐるように、顔を見合わせたまま立ちました。
風はまたやまず、窓ガラスは雨つぶのために曇りながら、まだがたがたと鳴りました。
一郎と喜助の性格が、善良で、純粋で、力強くて、人間ってあっかい、美しい、いいね、いいねと思ってしまいます。それから、小説のいたるところに、生活の様子が出ていて、おもしろいです。
市原悦子さんの朗読は、この物語の魅力を何倍にもしています。すぱらしい。嘉祐の最後の、「やっぱりあいづは風の又三郎だったな」という台詞、これ以上の読み方を思いつきません。賢治が聞いたら、どんなに喜んだことでしょう。
冬の寒い夜に聴くと、きっとあたたかくなり、知らず知らずのうちに、ほほ笑んでいることでしょう。
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