1章 異端聖女の目覚め

 ――ガタッ!

 大きな揺れで目覚めたブリアナは、荒っぽい音を立てて走る馬車の中にいた。


(……ここはどこだ?)


 齢十九にして火あぶりの刑に処され、死んだはずだった。……が、息をしている。胸を押さえれば、鼓動も規則正しく動いている。


「姉様、どうなさったのですか?」


 声につられて向かいの席に目をやれば、十歳くらいの金髪碧眼の少年がこちらを心配そうに見ていた。


(誰だ?)


 訝しみながら少年を観察していたときだった、どこからか声が響く。


『彼は次期国王になる私の弟、テオフィル・ファイナ・ドロッセル王子よ』


「……!」


 急に腰を浮かせたブリアナに、少年は肩をびくりと震わせた。

 後ろ手に槍を探す。いつもなら立てかけてそばに置いておくのだが、いっこうに慣れ親しんだ柄の感触には出会えず、手のひらには冷たい馬車の座面が触れるだけだった。


『あまり時間がないから、よく聞きなさい』


(またか! 一体どこから……)


 素早く視線を巡らすと、少年の膝の上にいる白いペルシャ猫と目が合った。吸い込まれそうな青の瞳、首に巻かれた大きな赤いリボン、金持ちに飼われていそうな猫だ。


『あなたの見立て通り、私はテオの飼い猫、ジンジャーの中にいるの。そしてあなたは、グラーシア大陸西部を領土とするドロッセル王国の王女の中にいる』


「な……んだと?」


 敵国の王女の中にいるなど、悪い夢でも見ているのだろうか。

 半ばへたり込むように椅子に座り直すと、ふいに車窓に自分が映った……はずだった。

 ブリアナの髪は銀色で男のように短く、瞳は赤い。だが、目の前にいるのは長い金髪に碧眼の女だった。


『ふふ、美人でしょう? それがかつての私の身体であり、今のあなた。アナスタシア・ファイナ・ドロッセル、十九歳よ』


「かつての私……だと?」


 直接お目にかかったことはないが、声の主――アナスタシア王女の悪評は帝国にも轟くほど有名だ。民を顧みず、私腹を肥やし、国を傾けたと。

 死んだはずなのに敵国の王女になっているうえ、猫が喋っている。ありえないことの連続で、ブリアナは眉間を押さえた。


「つまり私は死に、その魂が敵国の王女であるお前の身体に入り込んでしまった……ということか?」


『……なんですって?』


 アナスタシアが固まる。


『敵国? あ、あなた、ギルベキアの人間なの!?』


 自分が追い詰めた国の王女に素性を明かすのはいささか気が引けるが、今は異常事態だ。現状把握が最優先、背に腹は代えられない。


「私は大陸東部を領地とするギルべキア帝国で軍事司令官をしていた騎士、ブリアナ・クリエルシーだ」


『ぶっ――』


 毛を逆立てて、ぶるぶると震えながら背筋を伸ばしていく王女にブリアナは首を傾げる。


(……ぶ?)


『ぶぶぶぶぶぶぶっ、ブリアナ・クリエルシーですって⁉』


 少年は飼い猫が急に鳴きだしたからだろう。「ジンジャー⁉」と驚いている。王女の言葉がわかるのは、どうやらブリアナだけらしい。


(……騒がしい王女だな)


 ブリアナは、キンキンとする耳を押さえた。


『よりにもよって、非道の魔女が私の身体に転生するなんて……っ。あなたたち帝国軍に、ドロッセルの騎士や民はたくさん殺されたのよ!』


 いかにも戦場を知らない王女らしい感想だと呆れる。戦争を始めるのは権力者だというのに、平然と綺麗事を述べる甘さ。その下で戦う騎士や兵に同情すら覚える。


 ブリアナは目を閉じて、ため息をついた。そして腕を組むと、砂や血に塗れたことなどないだろう王女様に現実を教えてやる。


「それはギルべキア帝国とて同じだ。ギルべキアの騎士や民もドロッセル軍によって命を奪われた」


『でもっ……』


 なおも食い下がる王女を、ブリアナはまっすぐに見据える。


「ならば王女、あなたは戦場で自分の騎士たちが一滴の血も流さなかったと本気でお思いか?」


『それ、は……』


「どんなに正義を振りかざし、道徳を論じようと、戦争は殺し合いに変わりはない。勝った者が正義になってしまう。理不尽なことにな」


 そして、自分はあの狂った皇帝を正義にしてしまった。己の愚かさに腹が立ち、爪が食い込むほど拳を握り締める。


『っ……』


 反論を飲み込むように黙った王女は深く息をついた。


『……そうね、あなたの言う通りよ。ううん、戦場で戦ったあなたより、なにもせずに城でのうのうと暮らしていた私のほうが罪深いわ。あなたを責める権利なんてない』


 猫になった王女は耳と尻尾を垂らし、唇を噛んで俯いている。


『私が無能で愚鈍な王女だったばっかりに、ドロッセル王国は帝国の手に落ちた。自国の民からは怠惰の魔女と責め立てられ、私は斬首刑――』


「……!」


(アナスタシア王女も処刑されたのか)


 これはなんの因果だと、自分の前髪をくしゃりと握り、自嘲気味に笑む。


「……皮肉なものだな。敵同士で同じ魔女として処刑され、死んだ私たちがこんな形で出会うことになるとは」


『本当よね。でも、私はともかく、あなたのは冤罪でしょ? だって、こうして話していても、あなたが女子供を戦に駆り出すような人でなしには見えないもの』


 意外だった。自国の民すらブリアナの根も葉もない噂を信じたというのに、敵であった王女が無実を信じてくれるとは。


「……戦場での私を見たことがないのに、なぜ言い切れる」


 ちらりと彼女に目をやれば、猫の身体で「ふんっ」と得意げに笑う。


『自分が私利私欲に塗れた人間だったからかしら、同族は見分けられるのよ』


 同族嫌悪というやつなのだろうか。

 この異常事態を共に経験している、いわば仲間のようなものだ。彼女になら話してもいいだろうと口を開く。


「私に罪を着せたのは陛下だ。私は名声を得すぎた。加えて陛下のやり方に反対し、密かにドロッセルの民を逃がしていたのが露見したのがまずかった」


 王女の耳がぴんと立つ。


『え……ドロッセルの民を助けてくれていたの?』


「農民出身の私が騎士となったのは、戦えない者を守るためだ。争いのない未来を切り開くためだ。守る対象に国の違いは関係ない。まあ……その私の考えが主君の不信を買ったわけだが」


 王女は黙ってブリアナの話を聞いている。


「もはや話し合いでの収束は不可能。この戦争を終わらせるには、どちらかが勝つしかない。それが平和への近道と信じて戦ってきた。だが……」


 肩を窄め、自分の手のひらを見つめる。


「今はその切り開いてきた道が正しかったと、胸を張って言えない。あの男は大陸全土ひいては海の向こうの国にまで戦火を広めるだろう。私は……その手伝いをしたようなものだ」


 おぞましい。狂った皇帝を助けていた自分も、狂った皇帝がこれから起こす惨劇を想像することも。


『……なら、ガイア・ギルベキアに一泡吹かせてやりましょうよ』


「なに?」


 顔を上げれば、王女が凛とこちらを見据えている。


『びっくりすると思うけど、落ち着いて聞いて』


「……すでにありえないことの連続だが、心して聞こう」


 そうしてちょうだい、と相槌を打った王女は一瞬だけ間を置いてから続ける。


『私もあなたが処刑されたひと月後に処刑されて死んだあと、今から数時間前にジンジャーとしてこの馬車の中で目覚めたの。それで驚いたわ。私が処刑される前の時間に戻ってるのよ』


 はっとする。考えてみればおかしな話だ。王女が処刑されたのなら、アナスタシアの身体は死んでいるはず。だが、こうしてブリアナの魂が入った王女の身体は傷ひとつないうえに鼓動も問題なく動いているのだ。


(今はいつだ? ここはどこだ? 時系列の整理が必要か)


 頭が混乱しそうだが、ひとまず王女の話を最後まで聞いてみたほうがよさそうだ。


『それで目の前にいる私もテオのことをわかっていないみたいだったし、この状況に動揺しているようだったから、閃いたの!』


 尻尾をピンと立て、王女は得意げに言う。


『目の前の私にも誰かの魂が入って、転生してきたんだって! それがまさか、敵国の軍事司令官なんてね。しかも救国の聖女とも謳われた戦の天才! 好都合だわ!』


「好都合……?」


『今、ドロッセルの王都を守る最後の砦、オルアンでギルべキア帝国とドロッセル王国が交戦しているわ』


 オルアン砦への進軍は、ブリアナの処刑日の一週間後に予定されていたはず。王女は過去に戻ったのだろうが、ブリアナからすれば死後の未来にいるようなものだ。


 ギルべキア帝国は、ドロッセルの西部以外の領土をすでに手中に収めている。

 オルアンはドロッセル西部の入り口を守っている砦だ。ここを突破されれば、ドロッセルのすべての領土がギルベキアのものになってしまう。


『このままじゃ、ドロッセルは落ちてしまうわ。それで私は……国も、この子も守れずに……首を落とされる』


 弟を見上げた王女の目には、薄っすら涙が滲んでいた。彼女の愛する者を守れなかった悔しさが伝染して、慟哭するマティアスを思い出し、胸がじくじくと痛む。


「……つまり、ドロッセルを救い、皇帝に一泡吹かせろと?」


『理解が早くて助かるわ。あんなキチガイ皇帝にドロッセルを奪われるわけにはいかないの。報酬として、私の身体を使ってあなたの処刑を止めに行ってもいいわよって言ってあげたいところだけど……』


「砦への進軍は、私が処刑される一週間後に行われる予定だった。すでに砦で戦が始まっているのなら、私の処刑は終わっているだろう」


『ええ、あなたを助けられなくてごめんなさい』


 その発言に少し驚いた。


「……噂に聞く王女とは随分、印象が違うな」


『一度死んで、本当の意味で生まれ変わったんだと思うわ』


 王女の言葉には重い響きがあった。


『家族を亡くして初めて、戦で大切な人を失う辛さを知った。それを私は民や騎士たちにさんざん味わわせてきたんだって知って、自分を殺したくなったわ』


 犯したあとで知る罪ほど、重いものはない。

 ブリアナも同じだ。自分のしてきたことのせいで、これからどれだけの人間の命が散るのだろうと思うと、罪悪感に押し潰されそうになる。


『そのことを悔いていた私は、神様に祈ったの。贖罪の機会をくださいって。もう一度やり直せるのなら、今度こそ守ってみせる。愛する人を、この国をって』


「……! 愛する人を……国を……守る……」


 同じだと思った。死に際に贖罪の機会が欲しいと、そして今度こそ――。

 脳裏に蘇る赤毛の男の泣き顔に、胸が抉れそうなほど痛む。

 今度こそ、あの男を泣かせない。国ごと守り切ってやると神に祈った。


『これは神様がくれたチャンスよ。代わりに身体を失ってしまったけれど、あの悲劇を回避できるなら、なにを犠牲にしても構わないと思っていたから、後悔はないわ』


 王女の覚悟に心が激しく揺さぶられる。

 この罪を贖えるとしたら、そのとき払う犠牲はきっと――。

 王女と同じで、前世の自分を捨てることなのだろう。


「そうだな、これはチャンスだ」


 再び己の手のひらを見つめ、ぐっと握りしめる。

 もし、あの皇帝を引きずり下ろすことができれば、ギルベキア帝国もドロッセル王国も戦火に飲み込まれることはないはずだ。


「私も前世の生を終えるとき、神に祈った。今度こそ、国も愛する人も守ってみせると」


 ブリアナたちの望みは合致している。


「お前は王女、私は聖女から転落し、魔女になった。私たちは今までの人生も、名声も、居場所も失った。だが、それらを犠牲にしながら、ひとつだけ勝ち取ったものがある。やり直す機会だ」


 王女が息を吞むのが、気配でわかった。


「こうして生まれ変われた以上、私の成したことで不幸になった者たちを救いたい」


 己の信念が間違っていたかもしれない。そんな悔いを残したまま死ねない。


『ねえ、ブリアナ。いえ、生まれ変わったアナスタシア。私たちがこうして巡り合えたのは、きっと運命よ』


 ジンジャーが、ぴょんっとブリアナの膝に飛び乗る。


「ジンジャー!?」


 先ほどからべらべらとひとりで喋る姉を困惑気味に見ていた少年が手を伸ばすが、王女は弟を振り返ることなく、ブリアナを強い眼差しで見上げていた。


『あなたは今、軍事司令官だった経験と王女の権力を同時に手にしているの。あなたこそ、異端にして救国の聖女』


「過去の過ちは、これから未来を切り開くための前哨戦ぜんしょうせん


『ええ。だから力を貸して、新しいアナスタシア』


 真剣な物言いに、全身の肌が粟立つのを感じた。恐怖ではなく、初めて騎士に任命されたときの興奮に近いかもしれない。


 信念を持たずに生きることは、死ぬことよりも苦しい。そんなブリアナを生かす新しい使命は、誰に与えられたものではなく、己が望んだもの――。


「……望むところだ」


 自然と口角が上がる、瞳に闘志が宿る。


「共に悲願を叶えよう。愛する者も国も守って、最後に笑っているのは私たちだ」


『っ、ええ! ありがとう、アナスタシア!』


 王女の声には涙の気配が滲んでいる。


「それでアナスタシア王女……」


『私のことはジンジャーと呼んでちょうだい。私もまた、ジンジャーとしてこの世界に転生したんだから。わかったかニャン?』


 小首を傾げて見せる王女――ジンジャーにぎょっとする。


(ニャン……この王女、適応能力が凄まじいな。もう新しい自分を受け入れてものにしているとは……)


 王女は柔軟で明るい性格なのだろう。強気なところ以外、自分とは本当に真逆の人間だと思う。


「……わかった。ではジンジャー、戦況は芳しくないようだが、今この馬車はどこへ向かっている?」


 ジンジャーはゆらりと尻尾を揺らしながら、憂いのこもった目を窓へ向ける。


『まだ帝国の侵略を受けていない港よ。別大陸にある国へ亡命している途中なの。テオ……この国唯一の王位後継者を逃がすために』


 状況把握を優先していたので少年――テオフィルの存在をすっかり忘れていたが、ひとりで喋り通す姉を憐れむように見守っている。


(普通の王女なら、この状況で正常じゃなくなってもおかしくはない。今はそう誤解させておこう)


 ひとまずテオフィルへのフォローはあとにして、今後の動きについてジンジャーと打ち合わせることにする。


「ジンジャー、お前は未来をすでに経験しているのだろう? 斬首されたということは、亡命は失敗したのではないか?」


『その通りよ、オルアン砦が陥落するのと同時に港で敵兵に捕まるわ』


「……そうか。馬車を止めてくれ!」


 御者に声をかければ、外から「えっ」と戸惑うような声がしたが、馬車が止まった。


「ね、姉様? 先ほどから混乱しているようですが、僕たちは騎士たちが敵を引きつけている間に一刻も早くここを離れなくてはならないのですよね。馬車を止めては……」


「テオ、だったな。お前は民や己のために戦う者たちを置いて逃げることに、少しも迷いはないのか?」


 びくびくしながら窓の外を窺っているテオフィルの言葉を遮り、ブリアナ――アナスタシアは静かに問う。


「きゅ、急にどうされたのですか? 姉様も言っていたではありませんか! 王族の命は下民とは比べ物にならないくらい特別なのだと!」


「テオ、命に優劣などない。王族たる者、尊敬される君主であれ。尊敬される君主というのは、その背を以て、この者についていけば間違いはないと指し示せる者のことを言う。王になるなら、それを肝に銘じておけ」


「は、はい……」


 テオフィルは呆けたように、今までとはまるっきり変わってしまった姉を見つめている。


「それと悪いが、私はもうお前の知る姉ではない。お前の姉として転生させられた敵国の軍事司令官だ。お前の本当の姉は、そこのジンジャーの中にいる」


 絶句しているテオフィルに、ジンジャーが『ちょっと!』と慌てた。


『十歳の子供に、いきなりカミングアウトする!? 第一、本当のことを話したって信じてもらえるわけないわ。今のあなたは、完全に私と同じ容姿なのよ!?』


「だが、お前は弟を愛しているだろう」


『……!』


「テオはまだ幼い、お前の存在が必要だ。そばにいて、その心も守ってやれ」


 人間の身体に入った自分と違って、猫になってしまった王女は愛する者と直接言葉を交わすことはできない。だが、お互いが大切な存在だと知ったうえでそばにいるのなら、話せなくても満たせるものはあるはずだ。


『あなた、本当に優しいのね』


「なに、情だけで動いているわけではない。接触する機会も多くなるだろうからな、身内には事情を話しておいたほうがいい」


『ふふ、それでもありがとう。でも、この秘密を話すのは、テオだけにしたほうがいいわ。イカれ王女だと思われたら、やりにくいでしょう?』


「ああ、心得ている」


 ふたりで話していると、テオフィルがおずおずと口を挟んでくる。


「本当に……姉様はジンジャーになってしまったのですか?」


 半信半疑の様子でジンジャーを見下ろすテオフィル。その視線を受け止めたジンジャーは、肯定するように頷いた。人間の言葉を理解しているような動きに、テオフィルは目を見張る。


「テオ、信じがたいのはわかる。正直、私もまだ混乱しているが、これが現実だ。私は成すべきことを果たすため、これからアナスタシア・ファイナ・ドロッセルとして生きる。今はそれで納得してくれないだろうか」


「わ、わかりました……姉さ……いえ、あなたは姉様ではないんですよね? なんて、お呼びすれば……」


「そのままでいい。私も弟だと思って、お前のことも守り抜く。ではジンジャー、テオ。これからオルアン砦に向かうぞ」


 停まった馬車の中で腕を組んでそう言えば、テオフィルはぎょっとした。


「なっ、あそこでは激戦が繰り広げられています。危険です!」


『一度、国を離れて立て直したら? ドロッセル軍は大敗続きで、多くの騎士や兵を失っているの。戦力差がありすぎるわ』


 戦ったことのないふたりには酷だろう。それに、この鍛えられていない軟な身体でどこまでやれるか、不安がないと言えば嘘になる。だが――。


「愛する者を失うことに比べたら、戦場など恐ろしくもなんともない。ジンジャー、お前は違うのか?」


『あ……』


「それに、国のために戦っている者たちがいるのだ。その者らの主である王族が真っ先に逃げては士気が下がる。砦が陥落すれば、国の再起も叶わなくなるのだぞ。なんとしても守り切らねばならない」


『でも、本当に今から行って挽回できるような戦況ではないのよ……』


「戦の勝敗は数だけでは決まらん。まず、心の内で決まる。絶対に勝つという闘志がなければ、踏ん張りどころで挫けてしまうぞ」


『あなたは……強いのね』


「いいや、私は弱いからこそ、強く在ろうと心に鎧を纏うのだ。さあ、ここで悠長に話している時間はない」


 窓から敵の気配がないかを確認し、静かに馬車の扉を開けて出る。先に降りたアナスタシアは、「掴まれ」とテオフィルに手を差し出した。


「姉様、こういうエスコートは普通、男がするものでは……?」


「私は元騎士だ。ドレスよりも動きやすいズボンを好むし、花を愛でるより武器を愛でているほうが有意義に思える女でな。覚えておいてくれ、弟よ」


 目をまん丸にするテオフィルに構わず、アナスタシアはハーフアップにされた髪のリボンを外し、頭の高い位置で改めて結い直す。

 長い髪は視界を狭めるので好かないのだが、今散髪している暇はない。これでいくらか、マシだろう。


「すまないが御者、いや……お前は軍の者か」


 御者は銀髪にピンクアーモンドの瞳の若い青年だった。彼が着ているのは、ドロッセルの騎士が身に着ける白軍服だ。背には弓と長銃を背負っている。

 彼は〝なぜ、そんなことを今さら聞くのか〟という顔をしつつも敬礼した。


「は、はい! 騎士のノア・レアンドルです!」


 ノアは護衛役なのだろうが、一国の王子と王女を守るにしては、人数的にあまりにも心もとない。それだけ、こちらに割ける人員がいないということだ。


「この馬で戦場に戻る。護衛役、お前はテオを連れてあとをついてこい」


 馬車と馬を繋ぐハーネスを外しながらノアに言えば、正気を疑うような眼差しを向けられた。


「ですが、戦場に殿下方を連れていくわけには……」


「どこへ逃げても、もう帝国の手からは逃れられない。死刑台で死ぬくらいなら、足掻いて散るほうがずっといい。お前も騎士ならば、そう思わないか?」


「それは……そう、ですが……」


「時間が惜しい、急ぎ立つ。ジンジャー」


 足元に近づいてきたジンジャーを見下ろす。


「どちらの馬に乗る」


 アナスタシアを選べば、戦いに巻き込まれるのはジンジャーにも想像がつくだろう。けれど、ジンジャーは迷わなかった。


「あなたと行くわ」


 運命共同体だと、強い瞳が訴えている。

 ふっと笑ったアナスタシアがジンジャーを抱えて馬に乗ろうとすると、ノアが慌てて近づいてきた。


「あっ、お手を!」


 差し出された手を横目に「必要ない」と答え、ひとりで馬に飛び乗れば、ノアとテオフィルは驚愕していた。


「行くぞ!」


 手綱を握り締めると、馬が高らかに前足を上げる。アナスタシアは先陣を切るように、来た道を戻った。




 オルアン領は、ドロッセル王位に忠誠を誓っている領地の中で西部に位置している。

 ドロッセルの王族は、戦争が始まってすぐに自分たちがいるドロッセル西部をすべて隔壁で囲んだ。

 よってギルベキア帝国がドロッセルの王都がある中心部を侵略するには、このオルアンの砦を突破し、四百メートル長の橋を渡って川を越えるほかない。

 つまり、中心部に繋がる唯一の橋を守護するのがオルアン砦なのだ。


「もうじき砦に着きます! 王女殿下、どうなされますか!」


 戦場が見下ろせる丘の上を走っていると、ノアの声が背中にかかる。

 砦前の平野では兵たちが交戦しているのが確認できた。ギルベキア側もこの戦いに備えてか、オルアン砦を取り囲むように平野に砦を三つ建設している。

 オルアン砦の門は突き破られていないようだが、ギルベキア軍の数が多すぎる。


(砦内に入られるのは時間の問題だな。神も時間を戻すなら、砦進軍前にしてくれればいいものを……。いや、それは欲張りな願いか)


 アナスタシアは馬を止め、鋭く目を細めて戦場を見渡す。

 自分の死後、この砦攻略作戦の指揮官を担えるとすればマティアスだが、上官であるブリアナを処刑されて軍に残り続けるような男ではない。今頃、離反している可能性もある。だとすると……。


(残るはフォーク伯か)


 ギルベキアにあるフォーク領の伯爵だ。侵略後、オルアンはフォーク領の領地の一部になることが約束されている。

 勝利目前で、よく軍事司令官の任を変わるようガイア皇帝に命じられた。オルアンを任せるに足る領主だと周りに認めさせるために、花を持たせたのだ。同時にこれ以上、ブリアナの名声が高まらないようにするためでもあった。


「アナスタシア、どうする?」


 厳しい面持ちで戦場を見つめていたジンジャーが尋ねてくる。


「オルアンを包囲する砦が見えるか」


「え、ええ。三つあるわね」


「あれは持久戦のための砦だ。ドロッセルの王族は機能していない。当然、救援物資は届かない。敵が飢えで弱っていくのを待つ気だ」


『城には父様と母様がいるわ。今頃になって不利な状況だと理解して、私たちを逃がしたけれど、ふたりはもう諦めていると思う。最後の最後まで豪遊して楽しんで死んでやると言っていたもの』


 ジンジャーは不甲斐なさそうに項垂れた。


「全く希望がないわけではないぞ」


『え?』


 ジンジャーが縋るように、こちらを見上げる。


「フォーク伯が軍事司令官だった場合、ギルベキア側はこの戦いの勝利をよほど過信していると判断できる。ノア、どうだ?」


 振り返れば、ノアが慌てたように答える。


「は、はい。向こうの軍事司令官はロベルト・フォークです。それで王女殿下は先ほどから、誰と話して……」


「猫だ。こうすると頭が整理できる性質でな」


 困惑しているノアに構わず、再び戦場を見下ろす。


『ねえ、アナスタシア。フォーク伯って?』


「ギルベキアに領地を持つ若い伯爵だ。確かまだ、二十一だったはずだ。よくいえば慎重、悪く言えば臆病。皇帝が勝ち戦だと高を括っていなければ、あのフォーク伯を軍事司令官には据えない」


『よっぽど無能なのね……』


 ジンジャーは苦笑交じりの頬を引きつらせた。


「フォローのしようもないほどにな。こちらの救援体制が整っていない事情も鑑みて、皇帝は兵を通常より少なく派遣したはずだ。野戦では味方の兵も多くが戦死してしまう。王都攻略に向けて兵を温存したいだろう」


『敵の目から見ても、オルアン砦は無能な指揮官と数少ない兵だけで突破できてしまうくらい、追い込まれているってことね……』


 状況の深刻さを理解したらしいジンジャーは項垂れる。


「ああ。だが、フォーク伯は数がすべてだと思っている男だ。援軍や物資が心もとないうちは積極的に攻めてこない。兵がこれ以上減らないよう、三つあるうちひとつの砦の騎士や兵だけを使う」


『ええと、つまり?』


「今、手薄になっている砦がある」


 それを聞いて、いち早くアナスタシアの考えを読んだのはノアだった。


「まさか……今のうちにその砦を?」


「破壊する。オルアンのものと違い、急ぎ作られた簡易的な砦ならば大砲で破壊できる」


「なっ、なりません! そのような蛮族のような真似をするわけには……!」


 従来の戦は両軍が陣形を整え、相手に挑戦の宣言をした上で始めるのが常識だ。

 単騎であっても、騎士道精神に則り名乗りを上げて戦う。奇襲など非道で卑怯な手段だと思われているのだ。だが――。


「敵は無抵抗の女子供を戦場に送り込み、無抵抗のドロッセルの民を暴行するような輩だぞ。あちらも十分蛮族だ、ならばこちらも同じだけ非道になるまで」


 アナスタシアの剣幕に、ノアは圧倒されるように後ずさった。


「あんたは……誰だ……?」


 声にはならなかったが、彼の口は確かにそう動いた。


「お、俺にはっ、騎士としての誇りがあります。相手にされたからといって、同じように卑怯な手を使ってしまえば、ギルベキア帝国の人間と同類になってしまいます!」


「同類で結構だ」


「なっ……」


 ノアは表情に軽蔑を浮かべ、絶句する。


「ノア、家族はいるか」


「え……い、妹がひとりいますが……」


「そうか。その妹がギルベキアの兵に傷つけられても同じことが言えるか」


「……っ、妹はギルベキアの兵に襲われて歩けなくなりました。ですが、復讐心で人を傷つけることを妹は望みません」


「では、お前が死んだら?」


「どういう……意味ですか」


「妹が足を失ってもなお正しく在れるのは、お前がいるからではないのか。だが、その希望が潰えれば、残された者は絶望する。深く……深くな」


 血痕のように脳裏にこびりついたマティアスの後悔の声が何度も繰り返し聞こえてくる。誰よりも強く、背を預けられた男が膝をつき慟哭する姿が消えてくれない。


「お前の死で、愛する者が狂ってしまったら? 自死を選んだら? お前が信じる正義の先にある犠牲まで、想像できているか」


 戦争を終わらせることが平和への近道だと、馬鹿正直に信じて間違えたブリアナのようにはならないでほしい。

 もう、ノアはなにも言わなかった。想像したのだろう、自分の信じるものを貫いたばかりに妹が嘆き悲しむ姿を。


「ノア、お前は腕に自信があると言ったな」


「……! は、はい!」


「その長銃の腕、どれほど使い物になる」


 ノアはふと精悍な面持ちになり、答える。


「三百メートル以内であれば、確実に敵兵の頭を狙撃できます」


 肉眼ではほぼ豆粒、人間離れした腕前だ。

 ドロッセルには【死の風】と呼ばれ、恐れられた銃騎士がいると噂では聞いていた。戦場でまみえたことはないが、恐らくノアのことだろう。まさかこのような青年だったとは驚きだが。


「記録更新おめでとう、ノア」


「……?」


 訝しんでいるノアに、アナスタシアは口角を上げる。


「今回はざっと見積もって四百五十メートルだ」




 ドレスの裾を巻き上げる風に、硝煙の匂いが混ざる。怒号と金属がぶつかり合う音が大きくなる中、アナスタシアは戦場で拾った槍を手にひとり戦場を駆けていた。


「なんだあれは……う、馬が一騎で駆けてくるぞ!」


 砦の見張り台から、敵兵が困惑した様子で身を乗り出している。

 前線にほとんどの兵を駆り出され、手薄になっている敵の砦を特定するのは容易かった。あの丘からは、すべての砦や兵の動きがチェス盤のように見下ろせたからだ。


「女だぞ! 無謀にもほどがある……」


「て、敵襲、敵襲!」


 僅かながら残っていた敵兵が迎え撃つように武器を構えて迫ってくると、ジンジャーが悲鳴交じりの声で鳴く。


『どどど、どうするの⁉』


「決まっている! 迎え撃つ!」


 馬の腹を蹴り、加速させる。前方から向かってくる三人の兵を「はあっ」と馬で大きく飛び越え、背後に回り込んだ。すぐに手綱を素早く引いて馬を切り返すと、彼らの背めがけて槍を見舞う。


「はあっ!」


「ぐあああっ」


 血飛沫と悲鳴があがった。薙ぎ払われた兵たちが落馬し、見張り台にいた者たちが唖然とする。


「なんなんだ、あの女!」


「た、大砲だ! 大砲を撃て!」


 かかったと、ジンジャーと視線を交わしたアナスタシアは馬で先ほどいた丘まで引き返す。


「馬鹿め! 背中ががら空きだぞ!」


 大砲がゆっくりとこちらを向く。避けるのであれば蛇行するところだが、今回は銃口がぶれては困る。

 そのとき、ジンジャーがぴんと耳を立てた。


『来る!』


 アナスタシアの視線の先にあるもうひとつの銃口が、太陽の光に反射して鈍く光った。


「撃てえええええっ」


 背後から聞こえる掛け声に合わせ、左に避ける。「なに⁉」と困惑する敵兵の様子が目に浮かぶが、大砲は素早い方向転換はできない。


(もう遅い……)


 ノアが向こうで「すでに射程圏内だ」と呟く声が聞こえた気がした。

 ビュンッとアナスタシアのすぐ横をすり抜けていく銃弾。それは敵の大砲の銃口に吸い込まれるように飛んでいく。

 ――ドゴォォォォォォォン!

 天まで登りそうな炎を上げ、砦が爆破した。


『ほ、本当にひとりで砦を落とすなんて……』


 ジンジャーは後ろで崩れていく砦を振り返りながら言う。


「ノアのような優秀な銃騎士が味方にいたことに感謝することだ」


『ええ、そうね……優秀な人材はたくさんいたはずなのに負けてしまったのは、指揮する人間が無能だったからなんだわ。でも、あなたなら……』


 ジンジャーは希望を見つけたかのように、泣きそうな顔でアナスタシアを見上げた。


「これは私たちふたりで手繰り寄せた運命だ。ジンジャー、お前の力が必要になるときが必ず来る。そのときは頼んだぞ」


『……! ええ、わかってるわ!』


 しょぼくれていた耳が元気に起き上がり、アナスタシアは前を見据える。行き先はドロッセル軍がいるオルレアン砦だ。


   ***


 一時間前、マティアス・グレゴワールはドロッセル軍として祖国の軍と相対していた。


「よし、十分引き寄せたな。今だ!」


 マティアスは砦の高台から矢石や熱した油、石炭をなど降らせるよう号令を出す。それに敵兵が怯んでいる隙に今度はロープ網を投げるよう指示し、身動きがとれなくなったところを討たせた。


「前衛が崩れたな。一気に押し返すぞ!」


 誰よりも先に先陣を切るマティアスに、「おおっ!」と勇敢な騎士たちがついてくる。

 マティアスはもともと、ギルベキアの五分の一の領地を持つ、ある伯爵に仕える騎士の家柄だった。そんなマティアスがドロッセルへ寝返り、槍の矛先を祖国へと向けている理由はただひとつ。


(狂王、ガイア・ギルベキア。唯一無二の戦友にして、生涯ただひとりの女をこの俺から奪った報いを受けてもらう)


 彼女の手柄を最後の最後に搔っ攫う主君も、腐りきった国の権力者に媚びる家族も、生まれてから二十五年間生きてきた故郷もすべて捨てきた。誇り高いあの女に恥じない道を選んで、自分は今ここにいる。

 ふと、星のように短く煌めく銀髪と、見た者を捕らえて離さない情熱の色をした赤い瞳が脳裏に蘇った。


(――愛していた。心の底から)


 戦場で感傷的になるなど、あの女が隣にいた頃は考えもしなかった。

 ただただ、あの女と戦える喜び、同じ志を持って勝利を重ねていく満足感だけがあったというのに、いつから間違えたのだろうか。


(いや、もう間違えない。あいつのところへ逝くまでは、この命が許す限り償おう)


 守れなかった者たちの姿を瞼の裏に焼き付け、一心不乱に槍を回転させる。

 今、マティアスには背負うものがある。

 ひと月前、突然オルアン砦に現れた敵の騎士であるマティアスをドロッセル王国は殺さずに受け入れた。ブリアナと共にドロッセルの民を密かに救っていたことを、オルアンの領主が知っており、口添えしたからだ。

 ドロッセル王国は戦傷者も多く、戦える騎士や兵は少ない。今はひとりでも多く戦力が欲しいようだった。とはいえ、信頼されているわけではない。マティアスのそばには監視の騎士がついている。


「おい、あまり離れるな」


 さらさらの黒髪を揺らし、長剣で敵を斬り捨てた男が背を合わせるように立った。

 カミーユ・オーブリー、歳はマティアスと同じ二十五だ。

 切れ長で神秘的なアメジストの瞳は左側だけ隠れており、右目の下にはほくろがある。肌は白く細身で戦場に似合わない儚げな男ではあるが、ひとたび長剣を握ればその見た目に反し、重い斬撃で広範囲の敵を斬り払う。


「お前は一応、うちの捕虜なんだぞ」


 カミーユは冷ややかな視線を浴びせてくる。


「これは失礼した。カミーユ殿」


 マティアスは苦笑交じりに返事をする。正直、今は身内で争っている場合ではないのだが、元は敵側の騎士だ。警戒されるのは仕方ない。


「はいはい、退いてねー」


 そのとき、目の前を誰かが横切った。


「ぐああああっ」


 レイピアで一突きし、敵兵の心臓を貫いた騎士は返り血を浴びながら、オレンジ色の癖のある髪を掻き上げる。サファイアの目を細め、口元に酷薄な笑みを浮かべると、騎士はこちらを振り返った。


「速攻死んだお飾り団長の代わりをマティアスがやってくれてるんだし、もうそんなぴったりくっついてなくてもいいんじゃない? てか――」


 レイピアを持ち替えて切っ先を背後に向けると、騎士はこちらを向いたまま迫っていた敵の首に突き刺した。敵は「がはっ」と血を吐きながら事切れる。


「そんな暇あるなら、敵をりなよって感じかな。今、猫の手も借りたいくらいやばい状況なの、カミーユもわかってるっしょ?」


 ユーグ・ランメルト、二十三歳。ひと月、同じ戦場にいたからわかる。

 ユーグのレイピアによる連続攻撃は早い上に容赦がない。戦闘をわざと長引かせていたぶるのを楽しんだかと思えば気まぐれに一撃で急所を貫き、即死させることもある。気分屋で物騒な男だ。


「わかっている。王族が機能していない今、頼れるのはこの戦場にいる仲間くらいだからな」


 諦めたようにマティアスを見やったカミーユの目には、王族への失望が映っていた。


「そうそう。まったく、無能で態度ばかりでかい王族の中に、誰かひとりでもまともなやつがいれば、なにか変わったんかねー」


 今までカミーユやユーグと戦場で相まみえたことはないが、凄腕の長剣やレイピア、銃使いがいるというのは噂で聞いていた。

 彼らは王族を守る近衛騎士でローズナイト騎士団と呼ばれ、他の騎士団とは別に存在している超精鋭部隊だ。

 彼らをもっと早く前線に出していれば、ここまで領地を侵略されることはなかっただろう。だが、王族が自分たちの保身のため、王都から出さなかったのだ。

 こうして次々と他領地を侵略され、ついに戦場に送り込む騎士や兵もいなくなり、精鋭部隊のカミーユたちが最も過酷な前線に出されることとなったのだ。

 騎士の性根も腐りきっていない、力量も申し分ない。こちら側にブリアナがいれば、間違いなく最強の騎士団になっただろう。

 まるでボタンを掛け違えたかのような運命の悪戯。双方、無能な主を持ったがばかりに有能で善良な者ばかりがこの世から消えていく。

 惜しみ悔しむ感情には底がない。マティアスは闇に吞まれそうになる思考を切り替え、槍を握り直す。


「無駄話はここまでだ。今はただ、戦って戦って戦い抜くしかない。――はっ!」


 かつて、あの女と『赤銀せきぎん双槍そうそう』と呼ばれた時を懐かしみながら、今は片割れになってしまったその槍で、あの女の分まで敵を薙ぎ払った。

 そうしてどれくらいの敵を討ち破っただろう。さすがに手が痺れ、感覚が鈍くなってきた頃、それは起きた。

 ――ドゴォォォォォォォン!

 空気が震えるほどの爆発音に、敵味方関係なく動きを止める。「なんだ⁉」「爆発か⁉」「一体どこで……」と、怒号がどよめきに変わった。


「あれは……ダグルス砦のほうで、なにかあったのか」


 炎と煙が上がっているのは、三つある敵の砦のうちのひとつだ。

 砦がある西の方角を見上げていると、近くで戦っていたカミーユが残党を退けながら話しかけてくる。


「なんにせよ、助かったな。兵が砦に引き返していくぞ。まあ、戻ったところであの爆発だ。使い物にならないだろうが……」


「おーい!」


 誰かの声がカミーユの声を遮った。横を見れば、ノアが手を振りながら馬で駆けてくる。だが、信じられないことに前にテオフィルを乗せていた。


「うわ、なんで逃がしたはずの王子……っ、連れてきちゃってんの?」


 ノアに気づいたユーグも残党を斬り捨てながら、呆気にとられている。

 目の前で止まったノアに、カミーユはすかさず尋ねた。


「港に敵がいたのか? 王女殿下はどうした」


「それが、王女殿下が戦場に戻れって言い出しまして……」


 全員が「は?」となる。すぐにでも安全な場所に連れていけと散々喚いていたのにも関わらず、今度はなにをしでかすつもりなのか。


「まさか、お気に入りのドレスを忘れちゃったわ! とか、しょうもない理由?」


 ユーグの王女の真似は大袈裟に見えるだろうが、これがあながちずれてもいない。

 寝返ったマティアスのことを報告しに行った砦の兵によれば、『使える者は使えばいいのよ』と間者であることすら疑わずに言ってのけたらしい。


「いえ! それが王女殿下、すごいんですよ! 人が変わったみたいに、ひとりで砦を落とす作戦を立ててしまったんです!」


 興奮しているノアをカミーユは憐れむように見ながら、しんがりを務める兵らを斬り、王子の乗っている馬ごと背に庇う。


「……っ、ノア。先ほどから誰の話をしている。疲れているのか」


「王女殿下の話ですよ! 馬にもひとりで乗られて、もうそろそろ砦からこちらにお戻りになりますよ」


「戦場に出たこともない王女殿下がそのような作戦を立てられるわけが――」


 だが、退避するギルベキア兵のほうから悲鳴があがる。反射的に全員の視線がそちらに向いた。

 敵兵の隙間から、太陽のように煌めく金髪が躍る。あの髪は焦がれた銀色ではない。瞳は胸を熱くするあの赤でもなく、澄んだ碧眼だというのに――。

 風を切る槍が描く放物線の美しさに、その目が宿す闘志に心を強く持っていかれる。そのふいを突かれた。


「死ねえええっ、この裏切り者がああ!」


 しんがり隊の指揮を執っていたギルベキアの騎士が馬上で短銃を構えている。銃口はまっすぐ自分の心臓を狙っていた。


(しまっ――)


 しんがり兵の相手をしていたカミーユたちが「マティアス!」と焦ったようにこちらを振り返るのが、やけにゆっくりに見えた。


(……ああ、お前のせいだぞ、油断した。死んでもこの心を支配するとは、お前には一生敵わない)


 今際の際に女のことを考えている自分がおかしくなり、天を仰いだ。陽光に目を細めたマティアスの口端には、自嘲的な笑みが滲む。


(ブリアナ……俺はお前を愛しすぎる)


   ***


 アナスタシアがオルアン砦の前まで来ると、まだギルベキアのしんがり兵が残っており、ドロッセル軍と剣を交えていた。


「はあああああっ!」


 馬の疾走が加わった槍の威力は凄まじく、次々に敵兵の身体が吹き飛ぶ。身体ができあがっていないのなら、できあがっていないなりに戦いようはあるのだ。

 攻撃に重みがないならより早く、早く動くには敵の次の手を読んで先回りする。威力がないなら、他の力を利用すればいい。

 ジンジャーは青い顔で、敵陣に突っ込む馬から振り落とされないよう必死に鬣にしがみついていた。


「マティアス!」


 銃声や交錯する剣がぶつかり合う音、悲鳴や怒声の騒々しさの中で、はっきりとその名が聞こえた。

 考える間もなく、馬の腹を蹴っていた。ヒヒーンッと嘶き声をあげながら、馬は前足を高く上げる。その勢いで声が聞こえたほうへと進み、彼を見つけた。

 彼が爆ぜれば、底なしの力が湧く。消えることのない炎のように、そばで自分を鼓舞し続けてくれた彼の赤が目に入った瞬間――。


「……っ」


 じわりと涙が目に滲んだ。嗚咽を呑み込んだのが聞こえたのか、ジンジャーは『アナスタシア?』と心配そうにこちらを仰ぎ見る。

 だが、感傷に浸っている暇はなかった。マティアスはしんがりの兵をまとめていたのだろう騎士に、今まさに撃たれそうになっていた。


(このままでは間に合わない……!)


 瞬時に悟り、馬から振り落とされないよう内股に力を入れる。手綱から手を離すと、両手で槍を大きく振りかぶった。この王女の身体はすでに慣れない戦いで筋肉が悲鳴をあげているが、それでも外すものかと敵を狙う。

 馬の駆けるリズム、鼓動、呼吸。そのすべてが重なったとき、アナスタシアは腹の底から叫んだ。


「はあああああっ!」


 力の限り、槍を投げる。それは馬の勢いも味方につけて加速し――。

 ずしゃっと肉を裂く音と共に、背中から騎士の胸を貫いた。


「ぐあああああああっ」


 断末魔の悲鳴をあげ、騎士が落馬する。時が停まったように静まり返り、指揮官を失った敵兵らは戦意が喪失したのか、その場にへたり込んだり立ち尽くしたりしていた。

 ふと、ドロッセル王国の紋章が刺繍されている赤い旗槍はたやりが地面に落ちているのを見つけた。今まさに侵略を受けているドロッセル王国のように、踏みにじられたそれを馬を走らせたまま拾い上げる。

 やがて、マティアスやドロッセルの騎士たちの前に躍り出たアナスタシアは手綱を引いた。勢い余ったのか、馬が高らかに嘶いて前足を上げる。


「愛すべきドロッセルの騎士たちよ! 聞けえ!」


 割れんばかりの声で叫び、アナスタシアは旗槍を掲げた。そこには土に塗れながらも赤薔薇の紋章が咲き誇っている。


「敵の砦のひとつが落ち、ギルベキア軍は撤退した! しんがり部隊をまとめる騎士も討ち取られた! こたびの戦い、我らの勝利だ!」


 突然現れた王女があげる勝鬨かちどきに辺りがざわめくが、

「兵を撤退させたのなんて、初めてじゃないか」

「俺たち、本当に勝ったのか?」

 徐々に兵たちの声が歓喜の色に染まる。


「砦を落としたのは王女殿下ですよ!」


 敵兵が捕らえられていく中、馬から下りて前に出てきたのは、あの丘で二手に分かれたノアだ。


「敵の大砲が発射される直前に、俺に銃口を狙撃させて暴発させるなんて、聞いたときはとんでもない作戦だと思いましたけど、うまくいってよかったです」


「ノア、お前の狙撃の腕がなければ成しえなかったことだ。こたびの戦を勝利に導いたのは、間違いなくお前だ」


「い、いえ、王女殿下が囮になって俺の射程圏内に大砲を向けてくれたおかげです。それも、おひとりで向かっていかれた姿を見て、俺、感動しちゃいました。まだ、俺たちのために戦ってくれる王族がいたんだって!」


 ジンジャーと、ノアの馬に乗ったままのテオフィルが涙ぐんでいるノアを見つめていた。まるでこれがあるべき王族と臣下の関係だったのだと、目に焼き付けるように。


「奇襲をかけるというのは、いささか騎士道に反するのでは?」


 年配のドロッセルの騎士が砦の中から出てくると、オレンジの髪の騎士が面倒そうな顔をした。


「げっ、役立たずの副団長様じゃん」


 年配の騎士は他にも騎士をぞろぞろと連れており、戦のあとだというのにどこも汚れていないのが気になった。


『アナスタシア、彼らは貴族出身の騎士よ』


 騎士はブリアナのように元農民で貧しさゆえに兵士となり、騎士身分に取り立てられてなる者や、マティアスのように代々騎士家系であとを継いだ者と様々だ。

 貴族出身で騎士になる者はその地位に憧れた名ばかりの騎士と、本当に国のために戦いたくて名乗りを上げた者の二通りであることが多い。

 この者たちは前者だろう。ふくよかで、服も汚さず、鎧にも傷ひとつない。腰の剣は一度でも抜かれたことがあるのか怪しいほどに綺麗だ。


『騎士団長も名ばかりだったけど、いないってことは亡くなったようね。カエサル副団長も同じようなものだけど、素人のくせにいろいろ口を出すと思うわ。でも、あなたには王女の地位がある。それを思い切り振りかざしてしまえばいい』


 アナスタシアはこくりと、ジンジャーにだけわかるように頷いた。


「カエサル副団長、砦を落としたことに不満があるようだな」


 馬上から見下ろせば、カエサル副団長は王女を敬う様子もなく、膨らんだ腹をさすりながら蔑笑した。


「おやおや、少し見ない間に王女が騎士の真似事まで初めてしまって、よほど心が参っていたのですなあ」


 取り巻きの騎士を振り返り、カエサル副団長はニヤニヤと嫌な笑いを交わす。


「なんてことを! 王女殿下は誰よりも危険を冒したんですよ! 王女殿下がダグルス砦を落とさなければ、オルアン砦は今日中にも落ちていました!」


 耐えられなかったのか、ノアが怒ったように意見する。

 ノアをちらりを見やったカエサル副団長は「黙れ!」と唾を撒き散らしながら怒鳴りつけた。


「平民上がりの騎士風情が、私たち貴族に物を申せる立場だと思っているのか? ローズナイト騎士団に任命されたからと、図に乗るんじゃない!」


 ノアは「ぐっ」と奥歯を噛みしめ、悔しげに引き下がる。その光景を見て、ここまで追い詰められても、まだ身分だ騎士道だと騒いでいる連中に嫌気が差した。


「死ねばなくなる地位がそんなにも大事か」


 その場にいた者たちの視線がアナスタシアに集まる。


「盾にもほこにもならない騎士道が、それほどまでに大事か」


 カエサル副団長はアナスタシアが自分に問うているのだと気づくと、苛立った様子でふんぞり返った。


「当然でしょう。王女殿下にはわからないでしょうが、地位がなければなにも成せないのですよ。騎士道を守るのは、非道な勝ち方をした騎士だと後世に名を遺すのは不本意だからです」


 思わず嘲笑をこぼすと、カエサル副団長はむっとした表情になる。


「カエサル副団長、お前がそこまで後世に名を遺すような騎士を目指していたとは、私は感銘を受けたぞ」


 唐突に褒められたカエサル副団長は、ぽかんとしていた。


「は……ありがとう、ございます……?」


「私もその思いに応えたい。カエサル副団長、お前には次の砦攻略において最前線で戦う栄誉を与えよう」


「なっ……なんですと⁉」


「なんだ? 王女の私が気を利かせたというのに、不服なのか? では、もっと大役を任せよう」


 目を眇めれば、カエサル副団長は首を大きく横に振る。


「滅相もない!」


 カエサル副団長は前線に送られる恐怖に今さら震え上がっていた。取り巻き連中も巻き込まれたくないからか、小さくなって気配を消そうとしている。


『お見事!』


 茶化すジンジャーにため息をつきつつ、アナスタシアは再び騎士たちを見渡した。


「皆もよく聞け! この国を奪わんとしている皇帝は、魔女などよりも恐ろしい魔王だ! 民を食い物にされたくなければ、我々も悪魔にならねばならない!」


 そう、ブリアナやアナスタシアという魔女などよりも、ガイア・ギルベキアという魔王のほうがずっと残酷なのだから。


「私は異端にして聖女である!」


 再び旗槍を掲げた。

 そう、救うけれどその方法は非道、聖女であるが異端。もはや騎士道など歩かない。今は悪の道でも、勝てば聖なる道へと変わるから、その道の名など些末なことだ。


「この聖旗のもとに、かの皇帝を必ずや跪かせる! この砦が落ち、苦しみ虐げられ、辱しめられるのは民だ!」


 ちっぽけな自分の言葉でも、騎士や兵の顔つきが闘志に燃えるのが見てとれる。

 軍事司令官の頃も同じだ。こうして皆を鼓舞しながら、この者たちと自分は共に戦うのだと思えば、一騎打ちよりも力がわいた。


「戦争は結果こそすべて。勝った者に正義も栄誉も富も与えられる。愛する者を守りたくば、悪魔となれ!」


 オレンジの髪の騎士が汗を頬に伝わせながら、強張った笑みを浮かべる。


「おいおい、あれ誰だよ……」


 目の下にほくろのある黒髪の騎士も、信じられないものを目の当たりにしたような顔で答える。


「少なくとも、俺たちが知る王女ではないな……」


 そしてマティアスは、出会った頃と変わらない金の瞳で眩しそうにこちらを見つめている。その口がなにか言葉を紡いだ気がしたが、その声に耳を傾ける前に、わっと歓声がわいて掻き消えてしまった。

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