第3話「金色のリボン」思い出は美しいままで。
私はひとつため息をついた。
有名な洋菓子店のクッキー。奮発してしまった。自分のためにだって買ったことないやつ。だからこそ、贈り物に選ぶ意味があるんだ。分かっているつもりだったのに。普段から立ち寄らないタイプのお店だから、無駄に緊張してしまったのが少し腹立たしい。ちょっとした恨み節を頭の中で巡らせている。
そんな洒落っ気のない私を突き動かしたのが何であったかというと……。お世話になった上司への贈り物だ。部署としてのプレゼントは用意してあるから、これは、ぶっちゃけ個人的なやつ。美味しいものなら後腐れなく貰ってくれるかなと。ご家族が食べてくれても良いと思うし。クリスマスが近いことにかこつけて渡そうと思って。奇しくも彼の最終出社日は12月24日。
別に、そういうのじゃないし。社内では仲良し師弟みたいな感じで通ってる。だって私たちは、二回りも年が離れている。そういう気持ちなんか、あるわけないよ。あるわけない。あるわけ……ない。
彼は人望が厚い。人が良いのと、それからクソ真面目。礼儀正しくて物静か。それでいて頭も良いんだよな。何かにつけて教えてもらったこと、説明が上手で感心してしまうのだ。やっぱりさあ、私みたいなボーッとした人間にもわかるように、かみくだいて教えられる人って、素敵だと思う。
彼の部下は私と他にもいるが、揃いも揃って彼とはまったくタイプが違う。一人はテキトー。一人は雑。もう一人は、私みたいな人間。彼がいなくなってしまうこの部署は、先が思いやられると、社内ではもっぱら嘲笑の的だ。私だってそう思うよ。なにせ彼がいなくなることなどまったく想定していなかった。いつか彼だって定年を迎えることはもちろんわかっていたけれど。あまりにも早すぎる退職だった。しかも突然告げられて……ショックだった。
おかしいとは思ったんだ。突然資料の整理を始めたり、こないだ一緒に出張したときなんか、彼らしくもなく、夜ごはんに誘ってきたり。その時は楽しく他愛もないお喋りしかしなかったんだけど。私はそのなんでもない時間が、好きで好きで。とつとつと、淡々と。あまり口数が多くない者同士、ゆっくり、じっくり、可笑しいところを笑うんだ。とても気楽に話せる貴重な相手。少しだけ執着したくなる気持ち、分かってもらえるかな。
私は彼に一度、こんなことを言ったことがある。
「いつまでも、私の上司でいてくださいね」
思い出すだけでも恥ずかしい。何かの拍子でポロッと言ってしまったのだ。でも、忘れられないのは、それを言ったときの相手の表情だった。いつも捉えどころのない柔和な顔つきをしているのに。ぴくりと動いた眉が、そのまま真剣なまなざしを囲んでいた。一瞬、捕まるのではないかと思った。まるで、肉食獣に狙い澄まされた野うさぎみたいに。
それきり彼は、私の話をヘラヘラとはぐらかしたし、私も最初から冗談のつもりで、それ以上踏み込むつもりはなかった。またいつもどおり、ゆるやかな職場の空気に戻ったのだけれど。その時のことを思い出すたびに、私のなかで熱い炎が揺れてしまう。どうしようもなく。
ないったらないの関係に、もしかしたら、ほんの少しだけ憧れがあるのかもしれないと。こんなこと誰にも言えやしない。墓の下まで持っていくつもりだ。
あんなことやこんなことやを思い出すのに疲れきってしまいそう。それくらい濃い思い出ばかりなんだよ。突然の顧客依頼で遅くまで残業して、一緒にラーメン食べて帰ったり。風通しの悪い関係の他部署からの殴り込みに対応して、二人揃って理不尽に怒られたり。だって一日のうちのほとんどは、職場で過ごすんだ。私は一人暮らしだし、血のつながった家族よりも長い時間を、同じ部署の人間と過ごすのだから。
いったん終業の挨拶をして、帰り支度を整えてから、作業場に戻った。業績の悪化で定時退社が推奨されているから、みんなさっさと帰った後だ。
薄暗い通路、まばらに取り付けられた電球型のLED照明の下で、形良く結ばれたリボンの金色のラメが、小ぶりな紙袋の中でキラキラと輝いている。その紙袋だっていったいいくらかけてるのってくらい、しっかりとした作りをしている。お洒落だ。そのお菓子まわりの華やかさは、ろくにメイクもしていない作業着姿の私にまるで見あっていない。こんなの買うんじゃなかった。私は何度目かの後悔で、またひとつ、ため息を漏らす。
重い引き戸を開けると、最終出勤日なのに残って資料の片付けに精を出している彼が、振り向いた。彼の目は、赤かった。私は驚いて、一瞬止まってしまう。
でも、あまり間を空けるのも不自然だから、気付かないフリをして口を開いた。
「……これ。もう、今日でお別れなので。良かったら、食べてください」
ごくナチュラルに、のつもりで、私は紙袋を差し出した。
「ああ。ありがとう」
彼は目を赤くしたまま、情け無い笑顔を浮かべて、照れ臭そうに受け取った。
「……お先に失礼します」
「お疲れ様」
お互いに普通を装った。
長年勤めた職場を後にするにあたって彼は、並々ならない罪悪感と闘っていたらしい。それは彼と仲が良かった他部署の人から聞いた話だ。
急に辞めて申し訳ない、と。
優しい人だ。そう感心する一方で、
謝るくらいなら辞めなきゃいいじゃん。
そういう恨みがましい気持ちにもなった。
でも。あの涙を見た途端、ああ、本当にお別れなんだなと、実感した。20年以上勤めた会社を離れること。その別れが意味する彼にとっての重さを想った。
その日に行われた送別会は3次会まで続いたけれど、誰も泣かなかった。本人でさえも。だから、私だけなのかもしれない、彼の涙を見てしまったのは。お菓子を渡したいがために居残って、見てはいけないものを見てしまった気分だ。私は誰にもそのことを話さなかった。皆で彼を明るく送り出した。
「彼がいたらこう言ったに違いない」
「彼がいたらきっとこうしただろう」
それは彼が亡くなってからも、職場でいろいろな人から聞かれる話だった。彼が辞めて、死んでしまってもなお、彼の話をする人は多かった。人として好かれていたのはもちろんのこと、彼の背中を見てその仕事ぶりに感銘を受けた人が多かった証拠だ。
彼が辞めてから十年。彼が死んでから五年が経った。
私は少しも成長していない。ずっと彼の背中を追いかけて、「追いつけない。敵わない」そう思っているのが心地良いだけの、平凡な日々を過ごしている。
***
「あのクッキー。美味しかったよ」
低く、甘い響きのある声だった。男は、優しい瞳で彼女をじっと見つめている。どこにでもいそうな、印象に残らない平凡な顔立ちのその女性は、なにやら穏やかな顔つきで、ラップトップに向かっている。
「気になりますか?」
私はつい、声を掛けた。クッキーの感想は、なかなかに心の込められた言葉だったように思うが、しかし彼は消えずにまだそこにいる。叫びたいほどに伝えたい、思いの丈ではなかったらしい。確かに相手の女性は彼の配偶者にしては年が離れすぎている。家族では、ないのだろう。
ひょっこり私の前に現れたこの男。他の者が面倒を見ていたようなのだが、五年経ってもいっこうに成仏する気がないのだと言う。かといって私のように、あえてこういう道をはっきりと選ぶこともしないのだとか。私の元にこうして預けられるのも、迷惑な話だ。取り急ぎ、本人に事情を聞こうと思い、彼の隣に佇んでいるところだ。
「いや。ねえ……。自分の部下だった子が、元気そうでなによりだなと」
ふふっという控えめな笑い。とても魅力的な顔立ちだった。額から眉にかけて骨ばった骨格。少しだけ窪んだ眼窩とあいまって実に男性的だが、笑顔でくしゃりと崩れている。目尻に何本も入る皺でさえも、彼にとってはチャームポイントといえるだろう。私がそう言うくらいだからこの男は間違いなく雰囲気ハンサム。きっと生前、相手をする女性には困らなかったことだろう。
「まるで子供を見守る親のような」
私は微笑ましく思い彼の空気について感想を述べた。
「はは。彼女のことは、好きでしたよ」
「おお?」
思いもよらない返答に私は驚きの相槌をひとつ。
「しかし彼女は愛人というタイプではなかったのでね。多少押したら、響いたかもしれないが」
「ふーん」
私は男の言葉に目をすがめる。それから暇つぶしにでもなればと質問を返した。
「彼女もあなたのことを好きだった?」
「きっとね。まあでも、芯のある子だから、絶対にそれを認めようとはしなかったろうね」
私はこの男が少し鼻につく。
「どうしてお亡くなりに?」
そして質問を重ねた。
「乗っていた飛行機が落ちたんです。恋人と旅行中でした」そこで男は手を掲げて、小指を立てて見せた。「取引先の女性と……アレな関係で。そのせいで家庭崩壊寸前だったのが、会社の倫理委員会で問題になってね。私は内々に辞めることに。その後、当時の妻とは別れて、晴れて愛人だった女とハネムーン代わりの海外旅行に、ね」
「はあ。」
死後に自分がサレ夫だったと分かった私にとって、不愉快極まりない話だった。たとえ飛行機墜落という不運に同情の余地があるとしてもだ。彼は間違いなく、稀にみるクズだった。容姿と雰囲気で周囲をたぶらかしながら、冷めた目で嘲笑う……。
「その、同じ飛行機だった彼女さんとは再会しなくていいんですか?」
「そういえば、彼女の姿は見ていないな。未練もなく旅立ったのだろう」
あまり興味のない様子だ。
さて。こんな最低な男にはどんな役目が務まるだろうか。私はため息ばかりつきながら、この男の身の振り方について考え始めた。
「もしかして……。あなたの未練は」
答えは聞かなくとも分かってはいたが、私は仕方なく問うた。
「そうだね。好みの女の子と付き合うこと」
ためらいなく滑らかに彼の口から出た返答に、私は奥歯をきしませた。
出来れば優秀な部下が欲しかったのだが、ハズレを掴まされてしまった。
「しかし。君はすでに『声』になってしまった。それを叶えることは難しいと思う」
苛立ちを押し殺して会話を続ける。
「仕方がないだろう。それが私の望みなんだ」
開き直って胸を張る、ニヤついた男を前に私は肩が重くなるのを感じた。まるで彼を相手にした、幾多の女性たちの怨念が、集まったかのような。
「まあいいでしょう。君が好みの女性を見つけることを、せいぜい祈っていますよ」
彼は放っておくしかないだろう。そういう霊魂は別に珍しくはない。なんだったら半分以上がお空の上を、無気力に漂っていたりする。「女性を追いかける」という何にも成らない意志だけで、現世に興味を持っているというのは……クセが強い。
そう思った矢先であった。彼の瞳に一瞬生気がよぎった。ふと、ポケットの中を気にする素振りを見せてから、また元の脱力した表情に戻る。
「満足したら、黙って消えるさ」
ヘラヘラと言った。
「黙っていたら消えられないのだ。その意味を、知る気はあるか?」
「ない」
一瞬見せた意志はいったい何を見据えたものであったか。ハァ。この男、わからない。
デスクの彼女は、そんなことも知らずに幸せでいるべきだ。綺麗な思い出を胸に、これからも前向きに生きて欲しいと、願わずにはいられない。むしろこんな男と関わって傷付かずに済んだのは、奇跡ではないだろうか。
いつかこの男の醜態が耳に入ることがあるとしても、笑い飛ばせますように。彼女にとって彼はもうすでに過去の人なのだから。彼は死んだ。
……そうか。これが、この男の、ある意味愛の形なのだろうか? 彼女が知らなくて良いことは、墓の下まで持って行ったということ。……なんてな。そんなセンチメンタルな匙加減、こんな男に限ってあるわけがない。
ところで。私だって、妻に愛人がいたことなど、知らないままならば、良かったのになあ。死んだ後でそれを知ることになるなんて、散々な目に遭ったものだ。ふとそんなことを思い出して、この女の子が羨ましいとも思う。
私の痛々しい思い出もいつか、美しいものに変わる日が来るだろうか?
私は一人、首を傾げるのだった。
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