第3話 富士を見下ろして

「かぐや様。お食事の時間でございます」

富士の遥か上空。地上の人間より遥かに高貴な存在がすまう、月の世界。月の柔らかい輝きそのものを表現したかのような美しく上品な調度品の数々に囲まれ、長く黒い髪の毛を持つ女性が、広い座敷の奥に座っている。今、その座敷にその女性の従者の一人が料理を運んできた。夜空のような深い青に金をあしらった器に盛り付けられた色とりどりの料理たちは不思議な力で宙に浮かんでおり、それらはゆっくりと女性の前に降りていき、ふわりと着陸した。従者は料理が完全に着地したのを確認すると、女性を覆い隠す御簾の側でひざまずいた。

「ありがとう。今日の料理はいつもにまして素敵です」

御簾をあげあらわれたのは、かつて地上へと降り立った月世界の姫、かぐや。幾重にも重なる美しい衣服を纏い、その美しさにさらに凌駕する柔らかい声と表情をたたえる魅力的な大人の女性だ。声をかけられた従者は、淡々とした口調で答える。

「はい。月世界の名品を集めて参りました。何せ今日は深海の姫、乙姫様との交流ですからね。月光金粉をあしらった星鯛の塩焼きは、今回の私の自信作でございます。そして特にこのホウライを使った食後の一品などはとても...」

「ホウライ?」

優しい表情で話を聞いていたかぐや姫の表情がホウライという言葉を聞いた瞬間、一瞬にして固まった。従者は表情を固めたまま、まるでこの質問が返ってくるのを想定していたかのように対応した。

「地上の記憶が、戻ってきているのですね」

かぐや姫は胸の前に手をあて、外の景色へと目を向ける。

「お忘れください。あなたはこの世界の姫。穢らわしい地上の思い出など」

「ただ穢らわしいだけならば、何故私の心の中に長く留まっているのですか?答えて、イザナギ」

イザナギと呼ばれた従者は語気の強いかぐやに一切怯むことなく、そのままの姿勢で応える。

「穢らわしいからこそ、でございます。清く美しい心とはまるで清流のように、色もなく透き通る世界。あなたの胸に巣食う地上の記憶とはまさにただの汚れ。取り払わなければ濁り、渦巻き、あなたの心を暗く覆ってしまうことでしょう」

「もう...もういいわ、イザナギ。一人にさせて。それと明日のことだけど...この畳、もうだいぶ年季が入ってる頃だし、そろそろかえて欲しいです」

「わかりました。それでは明日かぐや様が外出される際に、交換しておきます。」

「ええ。」

イザナギは無駄の無い所作で立ち上がると素早く部屋の出口へと向かう。襖に一人になった部屋でかぐやは、大きくため息をついた。ホウライという言葉を口にするたびに自分の胸にのし掛かる悲しみの正体は、一体なんなのか。どうやら彼女の記憶にはない、地上の世界に降り立っていたという期間と何か関係が有るのだろうかと勘繰ってみるが、月世界の存在である自分が、この羽衣を取るわけにはいかない。

「地上界でこの羽衣を身に付けた瞬間からの記憶しか、私には存在しない。それも、はっきりとせず曖昧なものばかり」

極上の食事だったが、かぐやの箸は中々進まない。思い詰めた表情のかぐやが四方を囲む障子にむかって手を振ると、障子は全てきらきらと輝く粒子になって大気に溶けていった。続いて彼女をおおっていた天井もまた、粒子になって消えていく。かぐやが見上げるその視線の先には、いつ何時も雲ひとつ無い、真っ暗な月の空。そしてその空間に、地球が浮かんでいた。

「青く、美しい。あそこは本当に、皆が言うように穢れている世界なのでしょうか」

その目に、緑生い茂る列島が映る。

「あれが、私の記憶の中にある地上の世界。富士の山、ホウライ...私は地上で、一体何をしていたのでしょう」

俯き、羽衣をぎゅっと握るが、地球は黙して語らない。

「!!!!」

その時。

「何でしょう。この、胸のざわめきは」

かぐや姫の背に、凄まじい悪寒が走る。

「イザナギ。ここに来なさい」

二秒もしないうちに、イザナギはかぐや姫のもとへと駆けつける。

「どうされたのですか。...!!これは...」

「あなたもやはり、感じますか」

そう言うと、かぐや姫は十二単を上から11枚ほど脱ぎ捨て、深刻な面持ちを覚悟を決めた顔に変える。

「地上へと向かいます。兵を募りなさい」

「はっ」

イザナギは深々とお辞儀をすると、二秒もしないうちにその場から消えていた。

「まさか、地上に帰るときが来るとは思わなかった」

かぐや姫は残った一枚の上に新たに一枚の布を羽織り、地球を見上げる。

「思い出して見せる」

そう、かぐや姫が呟いた頃。

ズドオオオオォォォン!バキバキ...ピシッ...ドカァァァン!金棒が大木の根元に当たり、兎の方に倒れてくる。兎は攻撃する術を持たないので、赤鬼の攻撃をひたすら避け続けていた。

「大木を兎と見間違えるくらいには参ってきたか?動きが鈍すぎてゆっくり見えるぜ、鬼さんよ!」

回避をしながらも煽りを放つ兎だったが、本当は金棒二本をその重さに見合わない速度で振り回す赤鬼の攻撃を避け続けるのは、その動体視力をもってしても常にギリギリだった。動きがゆっくりに見えるのは、おそらく死が迫ったことによる緊張感からだろう。

「おいクソ道具いじりクソ狸!ボーッと見てねえで何とかしろ!」

「...」

戦いの緊迫感からかクソと二回も言った兎だったが、狸からは反応がなかった。相変わらず笠のしたから目を丸くして、赤鬼を見ている。

「おい!なんとか、言え、って。攻撃を、避け続ける、だけじゃ、どうにも、ならん、ぞ!」

回避の度に言葉がブツギレになるほど、鬼が狂暴な連続攻撃を叩き込む。舞い上がる土埃による目へのダメージと吹き飛ぶ地面の欠片につけられた切り傷でストレス満タンな兎は、

「くっそぉぉぉぉぉぉ!」

叫ぶが、誰も応えず。

「くう、神でも仏でもなんでもいい!何とかしてくれ!今を!...あれ」

赤鬼は、攻撃してこなくなった。よく見ると二本の金棒の先端を地面につかせて、肩で息をしている。

「こいつ、俺たちが来る前も相当長く闘ってたな。ガタが来たか。おい、クソ狸。今のうちに逃げ...」

「いや、気絶させよう。」

「へ?」

狸が真剣な眼差しで言うので、兎は思わず気の抜けた声を出してしまった。

「ずっと見てたんだ。金棒を。いま、止まってて見えやすい。変身するには、よく観察しないといけないからね」

「つまり、お前が金棒になるってことか」

「その通り、君が戦ってる間に思い付いた。でも少し時間かかるから待ってて」

「でもお前、変身苦手だろ?」

「苦手でもなんでもやるしかないでしょ」

そう言うと狸は折れて倒れていた木から葉っぱを一枚とると、目を瞑り、印を結んだ。

「おいおいおいおいおい。さっきまでのへなちょこはどこ行ったんだよ...」

ふしゅぅぅぅぅぅ...。赤鬼が肩で息をするのをやめ、ゆっくりと、長い呼吸をした。ゴガッ、ズゴォォ。地面にめり込んでいた金棒の先端を引き抜き、充血した目をゆっくりと兎に向ける。

「やべえって...っ!」

凄まじい勢いの横なぎ。凄まじい風圧と共に迫る巨大な金棒を見た兎は、そらを回避するために反射的に飛び上がってしまった。

(しまった、飛び上がっちまった。空中では自由が効かねえのに!)

そこへすぐさま、緑鬼から奪われたもう一本の金棒。兎は、死を悟った。

(クソ、こんなところで終わりかよ)

視界を徐々に埋め尽くす漆黒。そんな中、兎はおばあさんとの日々を思い返す。

「たくさん食べてくれて、嬉しいよ。お腹、減ってたんだねぇ」

「とって食わないかっ、て?うふふ。私、もうそんなに若くないよ。もっとも、若くったってあなたのこと、たべたりしないけど」

「兎さんが嫌なら、過去のこと、無理に話さなくていい。幸せじゃないうちは、いろんな事が理不尽に思えてくるものだからね。だから、美味しい料理食べて、いっぱいお話しして、今はそれでいいじゃない」

「あら、お風呂、嫌?せっかく気持ちいいのに。入らないなら、私先に入ろうかしら。あーー、よっこい、しょと。うんうん、いい湯♪...おや、じーっと見ちゃって。やっぱり入りたい?」

「いたた...歳をとるとあんなことで怪我をしちゃうなんて、やなもんだね...」

「なあに、この程度で死にゃしないよ。どこかのいたずらっ子のことも、どうか責めないでやっておくれね....」

(あの、クソ狸...)

幸せな記憶に抱かれ、兎はその幸福感に身を委ねる。いや、諦めとも言うべきか。

「ばあちゃん、ごめん。オレ...」

目をつぶり、体の力を抜く。直後の痛みとその後の死を受け入れようと準備をしたまさにそのとき。

ガキイイイィィィィ!

目の前で、金属の接触音。そのぶつかり合いによって生まれた空気圧が、兎を吹き飛ばした。

「!!!」

すぐさま目をあけ、着地にそなえる。そして目に映っていたのは、

「お待たせ、兎さん!反撃の時間だ!」

不格好な金棒に変身して攻撃を受け止めた、狸の姿だった。

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