⒌ホワイトボード

 喧騒から遠ざかっていくように、電車に乗って仕事帰りのサラリーマンと揺れていると、蛍雪とは一つずれた駅で章野さんが降りた。

 そのままさっきの映画の話をしながら住宅街を歩いていき、やがて章野さんが一軒の家の前で立ち止まった。

 木造二階建てで、周辺の住宅と似たような雰囲気を帯びているが、築年数が若いのか、妙に洗練されたような空気が漂っている。

「ねぇ、あのひったくり犯、本当にあれで良かったのかな?」

「色々と手間が掛かるでしょう。あとのことは快く引き受けてくれたんだから平気よ」

 快くねぇ……。

 ひったくり犯を抑え込み、俺が警察に通報した後の話はこうだ。

 しばらく章野さんが袈裟固めを続けていたのだが、パトカーのサイレンが近づいてきたことに気付き、近くでタバコを吸うために屋外に出ていた男性に、バトンタッチをしたのである。

 一方的に押し付けるように――「これを代わってくれないか」と言って。

 男性はタバコを取りこぼしながらも、異常事態を対処せねばと行動に出てくれたのだが――あれを快く引き受けてくれたと表現するのは如何なものか。

「まあでも実際、面倒事は御免だもんね」

「えぇ、そういうこと」

 章野さんは得意気になってドアを開ける。

 案内されたリビングは、外観と同じように洗練されていた。

 いや、これは洗練というよりも、最低限の物しか置かれていないと言ってもいいのかもしれない。

 オープンキッチンとリビングを繋ぐ通路の壁には、両手を広げたくらいの大きさのホワイトボードが吊られていた。

 一月から十二月まで記入欄が記されていることから、家族間の連絡用に使っているのだろうと予想できた。

 だが、表面は殆どが白のままであり、ただ一つ、十二月の欄に『帰宅』と書かれている。

 これが章野さん本人の予定か何かではないことは間違いないだろう。

「適当に座って大丈夫よ。テレビでも見て待っててもらえるかしら」

「今の時間だと、どんなものがやってるかな」

 俺はわざとらしく呟きながら、近くの戸棚に置かれていたリモコンを手に取った。

 画面に光が灯り、新進気鋭の若手芸人とベテランの頭脳派タレントがクイズで競い合っている様子が映る。

 無言でクイズ番組を眺めていると、キッチンから油の爆ぜる音が聞こえてきた。

「テレビを使うなんて久しぶり。ここ数年はテレビを見ることもなかったから」

「そうなんだ。最近の芸人とかも知らないの?」

「薫の話題に出てくる人なら何人かは。けど、その番組だと知ってる人は一人くらいね」

「ふーん、そっか」

 そこで会話は途切れ、テレビと調理の音だけが室内に響き渡る。

 まるでさっきまでの出来事が嘘だったかのようだ。

 ふと意識が途切れると自分以外のすべてを忘れそうな空間だったが、少なくとも章野さんの存在だけはたしかに感じることができた。

 そんな――上手く表現できない空間が、今はこの上なく心地良かった。


 椅子が一脚だけ置かれた、ダイニングテーブルに着く。

 章野さんは、部屋の隅で物置台のようになっていた椅子を持ってきて、対面に座った。

 手料理を一口食べると、素直な感想が零れていた。

「うん、美味しい」

「そう、良かったわ。あり合わせでごめんなさいね」

「そんなこと言わないでよ。こっちはご馳走になってるんだから」

 テレビはつけっ放しで、ラジオ感覚で流したままになっている。

 章野さんと一緒に、料理を一品ずつ味わっていく。

「料理、上手なんだね。なんでハーブティーは駄目なんだよ」

「あれは見よう見真似でやってみただけだから。薫が淹れるのが上手すぎるのよ」

 むすっとして手を動かす章野さん。

 しかし本気で怒っているわけではないようだ。

 幾ばくかの時間が過ぎたとき、章野さんはホワイトボードを一瞥した。

「両親は主に海外で働いているの。だから、半年に一回しか家に帰って来なくて……。三年前から、そんな生活が続いてるわ」

「そうなんだ」

 時の流れが、段々と遅くなっていくように感じる……。

 俺はあえて、簡素な返答を選択していた。

 水浦さんのときとは事情が違う。

 当人が抱えている悩みに対して、不用意に懐に入り込むような真似はしたくない。

 かと言って放って置くこともできない。

 俺が静かに次の言葉を待っていると、章野さんはお茶を嚥下して、

「母親はアジアの発展途上国に学校を建てるために、父親は戦場ジャーナリストとして各地を飛び回ってるわ。二人とも、他人のためになることをしたいんだってね」

「凄い職業に就いてるんだね。さすが、章野さんのご両親って感じだ」

「さすが、ねぇ……。九条君は、私をどんな風に見てくれてるの?」

 章野さんは遠いところを見つめたかと思うと、世間話のように問いかけた。

 段々と、テレビのボリュームが絞れていくように感じる……。

 俺は正直な感想をありのままに伝えていた。

「そりゃ、頼りになる生徒会長さ。ひったくりを捕まえるなんて、身体的にも精神的にも凄いことだと思うよ。それに、これまでの事件を解決できたのは、章野さんの力のおかげでしょ」

「……本当にそうなのかしら。私は、胸を張れる自分になれているのかしら……」

「…………」

 二人の呼吸、二人の言葉、二人だけの時間が過ぎていく……。

 ふざけて場を和ますような余裕はなかった。

 それほどに章野さんの言葉は冷たくて、簡単に触れることはできなかった。

 このままでは、彼女の温かさに触れることができない。

「私は両親のやろうとしていることを邪魔したくない。応援したいと思ってる。二人の娘として恥じない、立派な人間になりたいって、そんなことも思ってる」

「……俺は、なれていると思うよ。章野さんは十分立派な生徒会長だよ」


『両親に〝一緒に居て欲しい〟って言っても良いんじゃないかな』


 俺が言うべき言葉に答えは出ていた。

 それを言えば、章野さんの抱える悩みは、多少なりとも改善の方向に進むだろう。

 そうすることが一番なはずなのに……俺は言い淀んでいた。

 邪な考えのせいで、中途半端な言葉を選んでしまう。

「とりあえずさ……また今度、遊びに行こう。そういうのはどうかな?」

 微笑みながらそう言うと、章野さんは小さく笑ってくれる。

「えぇ、そうね。他にも楽しいところ、教えてちょうだいね」

「うん、任せておいてよ」

「九条君。いつもいつも、本当にありがとう」


 ありがとう――章野さんがくれる感謝の言葉だ。

 心の中に温かい気持ちが広がるのを感じる。

 『これ』を他の誰かに渡したくはない。

 ……何やってんだろうな、俺……。

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