缶珈琲

鈴ノ木 鈴ノ子

無糖から微糖へ

缶珈琲

 自販機に小銭を適当に入れ石崎純也は緑色に点灯したボタンを押す。

 小銭入れにGPSキーホルダーが役目を終えてぶら下がった身を揺らしていた。

 夕暮れの陽ざしが差し込む山々の合間の道を、コンパクトさながら力強い走りを見せる軽スポーツカーで走り抜けてきたところだ。気まぐれに寄った道路沿いの道の駅に何気なく見えた展望台はこちらと書かれた看板に興味をそそられ、運転で固まった体をほぐす為に、40段ほどの階段を上ってきた。

 石崎が展望台にたどり着くと山々は最後の燈明と最初の宵闇を裏表に見せている、登ってきた階段についている街路灯が淡いオレンジの光を灯し始めて、もうすぐ夜が来ることを告げていた。景色の見やすいベンチに腰を掛け缶珈琲のステイオンタブに爪を掛けて引き上げると、心地よいカシュッと蓋が切れていく金属の音が響いた。

 口元まで持って行き、少しだけ傾けて口へと運ぶ。

 芳醇な香りが漂い、そして苦みと少しの甘味、缶特有の味が口の中に溢れて喉元を流れていく。


「ふぅ」


 缶を持つ手を下ろした石崎はホッとした一息を吐き出して目の前の景色をジッと見つめた。

 宵闇がその手に持つ絵の具で濃淡をつけながら地を空を塗りつぶしていき、太陽の画家が天板に青空と白い雲を描き切って夏日を見せつけていたのに、そのすべてを大きな筆と闇色の墨汁で塗りつぶしていく。

 日中の残滓のように街路灯のオレンジの光が闇の中であたりを照らすように光っているけれど、その淡い光の裾は宵闇の黒に混ぜ込まれていた。


「なかなかな距離だったな」


 自宅から100キロは走って来ただろうと石崎は思い返しながら独り言のようにそう呟いた。

 本当なら今日1日はこんな予定ではなかったはずなのに、結果としてこのような結末を迎えてしまっている。

 それもこれも、朝方の1通のメールが発端だった。


『もう、別れよ、先輩には私なんか似合わない』


 石上小夜からの短い別れのメールだった。

 何かの間違いかと思ったが、それ以降、電話やメッセージを送っても反応はなかった。3年近くの関係が文字通りご破算となったことを悟るまでに昼近くまでを擁して、自宅に残る小夜の残滓のようなモノ達に囲まれることが耐えきれず、飛び出して車で駆け出していた。

 街中を走っている時はただハンドルを握っているだけであったが、やがて、坂道に森の気配が漂ってくると、途端に涙の雫がポトリポトリと落ちてはズボンを濡らす。小屋のような小さな車内で大声を上げて泣きながら道の半ばを過ごし、やがて、オープンカーのモードへと切り替えて車内と体の中に溜まったどす黒く澱んだような寂しさを外へと吐き出してきた。


「寂しいな」


 中身の入った缶珈琲を両手で撫でながら夜の帳が下りていく景色を眺める。

 小夜はいい女だった。

 それは間違いない、誰がどう言おうと世界で一番の、素敵な女性だ。聡明でいて大胆、清楚に見せていて悪女のように計算高いところもある。

 

 出会いは3年前の冬だ。

 

 仕事の帰り道に気まぐれドライブをしている最中に、情けないことに少しばかり心が躍った石崎は愛車のアクセルを強めに踏んで加速させた。走行車線には殆ど車は無いことや、自動車専用道で隣を数倍の速さと思えるほどの勢いで駆け抜けていった車に対抗心を抱いたのかもしれない、気が緩んでいたのかもしれないが、漫然として速度超過になった途端のことだ。

 後ろから赤い赤色灯の光とスピーカーからの声が聞こえてきた。


『前の軽自動車の方、速度超過です、先の路側帯で停車してください』


 一瞬で夢から目覚めた時のように神経が昂り慌ててバックミラーを見る。

 赤色灯を廻した1台の白バイが感覚を開けて、狼のように真後ろに控えているのが視界に入った。やってしまったと諦めと悔しさが入り混じった思考が過る、さっきの駆け抜けた車を捕まえろよと悪態をつきながら、速度計を見れば、まぁ、なんとか免停などは免れそうな速度に一安心して、左ウインカーを出して停車する意思があることを告げる。


『路側帯へ停止してください、停止したらエンジンを切ってください』


 再度の指示に従いながら聞こえてくる声が女性の声であることに気がついた。そんな事にも気がつかないくらいに臆病者の自分に呆れながら路側帯へと車を進めブレーキを踏み素直に止め、サイドブレーキをしっかりと引き、ギアをパーキングへ入れてエンジンを止めた。多少やけっぱちになっていたのかもしれない。

 バックミラー越しに車から少し間隔を空けて停車していた白バイが、車が完全に停車したことを確認したのだろうか、スタンドを立ててようやく乗っていた白バイ警察官がバイクから降りた。

 サイドミラー越しに何かを報告しながらこちらへと歩いてくる姿に石崎は身を少し硬くしながら、運転席側の窓を開いて素直に応じることにした。

 言い争いをしたってめんどくさい、仕事疲れもあるし、このような失態のショックに疲れが吹き出してきて、先程までの反抗心を奪い去ってしまう。


「こんばんは、結構飛ばされてましたね」


 ドア横に立った警察官がヘルメットのバイザーを上げて言う。

 顔を見て石崎は驚いた。細面の顔に細く整った目と少し太めの眉毛が印象的、目じりの小さな泣き黒子を薄いファンデーションで隠そうとして、できていないのが昔と変わらない。懐かしい顔が制服を着て立っている。


「小夜か?」


「え…、あ…、純先輩」


 高校の後輩だ。

 柔道部で3年間ほど切磋琢磨した同門生である。石崎は遊び半分の俄か部員、小夜は部活を指導してくれた館長の道場に通う立派な選手だ。乱取りなどで道着をすり合わせたが、決まって背負い投げか巴投げで投げ飛ばされては、受け身をとって逃げ回っていたことを思い出し、小夜も同じことを思い出したのだろうか、真剣な顔つきに笑みが差して漏れ出でた。


「速度超過は認めます、切符下さい」


 投げ飛ばされていた時と同じく受け身を取るように、自らの罪を認めて切符を切る様に願い出た石崎に、小夜の笑みが消え呆れ果てたような顔つきに変わる。


「先輩、反省してます?」


「してる、してる。私の前に行った車がものすごく速かったとか、これぐらい見逃してくれよとか、なんで俺だけとか、言いたいことがしこたまあっても何も言わない。素直に言います、切符を下さい」


 反抗心を失ったはずだったが、後輩の手前であったことが幸いして、思わず思いつた事が口をついて出てしまう。誤魔化すように両手を差し出してお願いの仕草をした石崎に、なおさら冷たい視線を浴びせて、そして睨みつけた小夜がやがて呆れたといったようなため息を吐いて白バイへと戻っていく。

 普通であれば速度確認などもあるだろうに小夜は少しの手段を違反速度並みに文字通り飛ばして、石崎の手元に青色の違反切符が手渡された。

 やはり、速度は免停以下であったことに少しだけ安堵して申し訳ないと頭を下げる。


「2度目は無しですよ、先輩」


「反省する、もうしません」


「そう言う人が一番するんですよ?知りませんでした?」


「じゃぁ、しないようにする」


「あの頃と変わらず、いい加減ですね…。あ、館長が会いたがってました、一度、道場に来てくださいね」


「それは分かった。今度伺うよ」

 

 互いにそう言って石崎と小夜は別れた。

 速度超過で捕まった男性と捕まえた女性警察官、たまたま知り合いで出会ってしまっただけであったはずなのに、後日、道場の館長に顔を出すと練習中の小夜が居て、流れでそのまま再び柔道を始めて通うようになっていった。

 

 相変わらず、石崎が小夜に投げ飛ばされることに変わりはなかったが…。


 学生達の夏休み終わり、最後の1日くらいのんびり過ごさせてやろうと、早めに子供達を返してシャワーを浴びてから、道場の片づけをしている最中のことだ。石崎の背中にトンっと柔らかい感触と仄かに石鹸の香りが漂う柔らかい体が抱きついてきた。


「どうした、小夜?大丈夫か?」


 てっきり転倒しそうになって慌てて支えにでも使ったのかと石崎は思いながら振り向き視線の先にある顔に戸惑った。Tシャツにデニムパンツの至っていつもの小夜なのに、頬が蒸気して潤んだ視線が何とも言えない色香を醸し出していた。


「先輩?鈍いんですか?それとも、私なんか眼中にないですか?」


 互いの視線が絡み合い、小夜が震える唇から小さく声を絞り出すように言った。


「いや・・・、それは…」


「私、散々、アピールしましたよ?」


 女子学生から小学校の低学年の女児までが、最近、残念なモノを見るような視線で石崎を見ることがあった。石崎もそこまでではないから、好意を向けられていることは分かっていたが、どうにもこうにも踏ん切りがつかず、ただ、その行為に甘えていたのだ。


 だが、そろそろ覚悟を決める段階を迎えたということだろう。


「付き合ってくれ」


「はい!」


 心の底に揺蕩っていた思いがするりと石崎の口から出ていく。それを聞いた小夜が1輪の美しい月花のように嬉しそうな笑みを咲かせて抱きついてくるのを、石崎は向きを変えてしっかりと抱きしめたのだった。


 あれから数多くの思い出を作ってきた。

 小夜が1番遠い警察署へと転勤になっても、遠距離ではあったが交際は続いていた。辛い時も楽しい時も互いに励まし合って過ごしていたのだが、どこからだろうか、まるでボタンを掛け違えたように会う機会が失われていくと、結び合っていたはずの気持ちの糸はいつの間にかゆっくりと離れていた。

 そんなことは無いだろうという甘い考えがあったのかもしれない。


「ふぅ」


 踏ん切りが毎回つかない自分のせいでだと、石崎は缶珈琲を眺めながらため息をつく。あたりはすっかり真っ暗で珈琲を思わせる深い闇に包まれていた。


「そんなに凹むなら、いい加減、覚悟を決めてくださいよ」


「わぁ!」


 耳元で突然、小夜の声が聞こえて、石崎は飛び上がるほどに驚いて大声を上げて声のした方を見た。

 ライダースーツを着込んで前髪を照れながら触る小夜が寂しそうに立っていた。

 暗くても目が腫れぼったくなっているのが良く分かる、そして、今にも泣きそうに歪んだ唇があった。


「もう、離れ離れは嫌なんです」


 その唇から言葉が漏れ出でると、やがて、すすり泣が聞こえてくる。石崎はゆっくりと立ち上がり両手を広げて抱きしめようとすると小夜が遠慮がちに近寄ってきてその腕の中へと自然に収まった。


「ごめんなさい‥」


 小夜の謝罪の言葉に罪悪感と申し訳なさに心が軋みを上げる。そしてこの温かな女を2度と離すまいとの思いが湧き上がってくる。


「いや、俺が悪かった。小夜の存在がどれほど大きくて、どれほど甘えていたか身に染みたよ…。離れ離れにならないように、小夜、結婚しよう。そうしたらずっと一緒だよ」


「こんな姑息な手段を使う女ですよ?いいんですか?」


「小夜がいい。俺の相手が務まるのはお前だけだよ」


 石崎はそう言ってすぐ唇を奪った。

 驚いた小夜の顔が蕩ける様に甘い顔になるとゆっくりと瞼を閉じていく。腕をしっかりと絡めて互いに抱きしめ合った。もう放すまいと石崎は誓い、抱きしめる力を少しだけ強める。それを理解したのか小夜の身体も一段と石崎へ身を委ねていた。

 どれくらいの時、それほど時間は立っていないはずなのに、2人にとっては長い長い抱擁を過ごして、やがて名残惜しく互いを放すと手を握り合い、ゆっくり、ゆっくりと階段を下りていく。


「あ、先輩、その缶珈琲下さい、喉カラカラなんです…」


「あ、ああ、いいよ」


 手に持ったままの缶珈琲を手渡すと階段の途中で止まって口をつけた小夜が一口飲んでから咽たようにせき込んだ。


「だ、大丈夫か?」


「大丈夫、ちょっと咽ただけです、でも、不思議ですね、これ、先輩みたい」


「缶珈琲がか?」


「うん、甘いことなんてほとんど言わなくて…、でも、私があんなことしてから…思いもしないくらいに気持ちを…言葉を沢山くれて…。聞いてると苦い思いがするのに、でも、その言葉が心地よくて…、私、凄く嫌な女…」


「嫌な女でなければ、こんな馬鹿な男には付き合えないぞ、小夜、世界で一番いい女だよ」


 再び小夜の唇を奪いながら石崎はしっかりと抱きしめた。

 抱きしめられたまま胸元に顔を埋める小夜が更に愛おしくなる。もう手放すまいと石崎は更にしっかりと心に誓う。


 無糖から微糖へ、男が変わった瞬間。


 駐車場に並んだ愛車とバイクが仲睦まじく2人を見守っていた。

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