第18話 同じ月

 スピネル曹長は月を見ていた。木に背中を預け空を仰ぎ見る。月はしずしずとお淑やかに輝いている。


 夜のとばりが曹長という階級を隠しスピネルを今はただ一人の人間にしていた。


 俺には妻がいる。彼女、マリアと出会ったのは訓練終わり、海岸を一人で散策している時だった。当時は伍長だった。何とはなしに海を見ながら夕焼けに照らされる浜辺を歩いていた時だ。足首まで海に浸かっている彼女を見つけたんだ。


 その時、太陽は地平線に近くなっていて夕日は黄金と見紛うほどに輝いていた。その太陽の中で輝くブロンドの巻き髪と大きな瞳の彼女に俺は一目惚れしたんだ。


 とにかく俺は必死で彼女を食事に誘った。その時まだ名前も知らなかったがどんなキツい演習ようりも必死になって誘った。


 幸い彼女は一人だったし海辺のレストランに空きもあった。軍人で使う暇が無くて金はあるからと強引に誘い込んだレストラン。そのテラス席から見えた月も今見上げているのと同じ月だった。


 1939年4月。世界はいよいよその行き先がきな臭くなりつつあり、軍内でも開戦間近の雰囲気が濃密に漂っていた時期。順調に交際を重ねていた俺とマリアは再びあの日の海岸に来ていた。


 俺はマリアの前にひざまずき、指輪が収まっている箱を差し出した。プロポーズの言葉は覚えている。今振り返ってもあまりに青臭かったからだ。


 『俺の人生はこの場所で君と出会って変わった。今日、また俺の人生を変えてほしい』


 マリアは少し恥ずかしそうに微笑むとコクリと頷いてくれた。その時の俺の喜びようったらない。マリアが苦しいからやめてというまで抱きしめ続けたのだ。


 両家親戚、小隊の仲間や上官出席の元盛大に挙行された結婚式の後俺は一週間の特別休暇を貰いハネムーンへ出かけた。

 

 ハネムーンの最後の旅程はあの海岸だった。夕方になる少し前に砂浜に着き二人で夕陽を見ていた。やはり輝く夕日よりもマリアは格段に綺麗だった。


 二ヶ月後の1939年6月22日。帝国は連邦に宣戦布告、当然スピネルも一軍人として参戦、最先鋒の中にいた。


 ある日連邦の名も無い村を戦闘で奪取した。まだ木造の家が燃えていて敵兵の死体もあった。けれど沈みゆく夕陽を見て初めて会った日のマリアの姿を鮮明に思い出した。夜、塹壕の中、歩哨中に見上げた空にも同じ月があった。


 俺の死後、マリアが困らないように遺族年金をマリアが受給できるように手続きしてある。


 幸い、と言っていいかは分からないが俺たちに子供はいない。俺の死後、彼女の新しい人生の邪魔にはならない。


 遺書には俺のことは忘れて新しい伴侶を見つけるよう書いてある。


 ……それでも。しばらくは忘れないでいてほしい。そうだな……、具体的には5年くらいか。ウジウジと中々男らしくない惨めな感情だが、今の俺の惨状を考えればそんなのもうどうも思わない。


 胸ポケットから二葉の写真を取り出した。一葉はマリアの、もう一葉は俺とマリアが写っているものだ。


 綺麗だ。口の中で呟いた。対して俺ときたら。もう骨と皮だけ。帰ってもマリアは俺と気付いてくれないに違いない。


 再び月を見上げた。そう言えば夕陽を見てない。密林の中では落ちゆく日は木々に遮られてしまう。また見てみたいな。


 さよならだ。心の中で呟くと大切にポケットに写真を戻した。

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