第34話 少女号泣

 時だけが解決できる事柄は沢山ある。人の死に向き合うというのも、そのうちの一つだ。


 行き場を失くし、ひとまず江口のところに厄介になった俺たちだったが、ナオミは、以前とは打って変わって、口数が少なくなり、部屋に引きこもってしまっている。それは俺も同じだった。そして、デイジーも……。


 江口は気を遣って、俺たちをそっとしておいてくれた。それをいいことに、俺はじっと薄暗い部屋に閉じこもっている。


 デイジーは、俺と同じ部屋の隅で、無言のままうずくまっている。もう何日になるだろうか? 三日目までは数えていたが、今が何月何日で、果たして件の事故から何日過ぎたのか、判然としない。


 その間、俺は、自分の記憶の中に救いを求めた。幸福。温もり。安らぎ。


 とにかく眠かった。精神の疲労に端を発する眠気と気怠さが、俺を支配している。


 目を閉じる。常夜灯のオレンジだけが光る部屋の中で、瞼の裏に様々な光のシルエットが躍る。


 そして俺は、思い出に埋もれて行く。あいつがいた頃の思い出に……。




「お兄ちゃん」


 寝転がっている俺を呼ぶ声がした。


「スズ、今日は具合はいいのか」


 上体を起こし、応じる。


「うん、平気だよ。お兄ちゃん、その顔、どうしたの……?」


「親父に殴られた」


「痛そう……大丈夫?」


「少しな。でも大丈夫だ」


 頭にポン、と手を乗せてやる。そのまま髪をクシャッと撫でてやると、スズはくすぐったそうに目を細めた。


 スズは俺の三年後に生まれた。控えめな性格で、よく気が付くやつだった。


 ただ、生まれつき体が弱かったので、外で遊ぶことは少なかった。普段は家で本をよく読み、両親がいない時は俺が面倒を見ていた。


 聞き分けがよく、手のかからないスズは、俺によくなついていたように思う。親父が多忙だったこともあり、男親の愛に飢えていたことも手伝ったのかもしれない。


 俺としても、スズはたった一人の妹で、守るべき存在だった。スズがわがままを言うことは滅多になかったから、俺としても気楽だった。


 後から聞いたことだが、親父はそれなりの要職にあったらしい。お手伝いさんが常駐していたので、俺たち兄妹は二人きり、安穏の中で時を過ごした。そういう時間で、きっと俺は親父のいる苦痛の時間を相殺していたのだ。面倒を見ている気になっていたが、案外、スズに助けられていたのは俺の方だったのかもしれない。


 しかし、いつの間にか寝ていたらしい。今日も一日が無為に過ぎていく。このまま、どこか遠くに行ってしまいたいと思った。どこか遠く……? 一体どこに……?


 答えのない虚しい問い……。そうだ……スズ……スズのところに行こう。


 待っててくれスズ……今行くから……俺が行くから……。


 そうして、二人でいつか見に行った花畑に行こう……。


 ……いや、俺は何を言っているのか? スズは今ここにいるじゃないか。


『お兄ちゃん』


 ほら、いた。


「ああ、なんだ、スズ……」


 こんな近くに、いるじゃないか。


『お兄ちゃん、何しているの……?』


「お前とどこか出かけようと思ったんだよ。ほら、いくら読書好きのお前でも、たまには外に出ないと、かえって体に悪いからな。一緒にどこか遊びに行こう」


 俺はスズの手を取る。なんだ、こんなに冷えてしまって……。もう冬なのだろうか?


「襟巻をしていこう。あまり冷えるのはよくないからな」


 俺は襟巻を首に掛ける。少し苦しいくらいにしっかり巻いて、スズにも巻いてやった。


「じゃあ、出掛けようか……」


 急に体が軽くなった気がした。意識が宙に舞い、視界が白に染まっていく。あるいは、雪が反射しているせいでそう見えるのだろうか……?


 どちらでもいいことだと気が付き、おかしくなった。どうして俺は、こんなにごちゃごちゃと考えを巡らせているのだろう?


「ナルミンっ!!」


 突然、背中をしたたかに打ち付ける感覚があった。次いで頭に衝撃。


 痛い……。俺はスズと花畑で、そうだ。襟巻が暖かくて真白の雪が視界いっぱいにあって……。


 気配を感じた。動くものの気配、目線だけを上げると、スズが俺を見下ろしていた。


「スズ、怪我はないか!? なあ!?」


 反射的に体を起こし、スズの肩を掴む。暗くて外傷の有無が分らない。


「……」


 スズは無言だった。それが、ますます俺を不安にさせる。スズに何かあったら……。


 見ると、手には紐が握りしめてあった。引き裂いたシーツをねじり合わせて作ったと思しきそれは、ぼんやりとした暖色の闇の中で、死人の腕のように冴え冴えと白く、冷たい存在感をもって俺を死へと誘おうとしているのだった。


 ベッドに目をやると、無惨なシーツの残骸が散らばっていた。誰がこんなことを? 一人しかいない、俺だ。


 しかし、今はそれどころではない。スズが心配だ。


「スズ……! 大丈夫か!? どうして黙ってるんだよ!」


「ナルミン……」


 我に返った。薄明かりの中、瞳を潤ませて俺を見ていたのはデイジーだった。


 デイジーの手には鋏が握られている。俺は、大方の事情を察した。すんでのところで、俺の“襟巻”をってくれたのだろう。


「デイジー……」


 こういう時、どういう言葉を弄すれば良いのだろうか? そんなことを考えていると、デイジーは俺をそっと抱きしめた。


 薄い胸に抱かれる。微かに鼓動が聞こえた。こんなところまで人間そっくりだ。一定のリズム……安らぎ……心の波が引いていくのを感じる……。


「ありがとうな、デイジー」


 しばらくして、俺は言った。


 俺は、何をしていたのだろう。こんなにも、俺を心配してくれる相手がいるのに、目の前のことからただ逃げて、逃げて。その先が袋小路だと知っていながら……それでも逃げる方が楽に思えて、ひた走って。


「目が覚めたよ。お前のお陰で、な」


 デイジーの頭に手を置いてやると、デイジーの潤み切った双眸が決壊する。


「うえええ……! よかった……ナルミン……死んじゃうかと思ったあ……!!」


「ごめん、ごめんな」


「えう……ひぐっ……次やったら、ナルミンのこと、許さないからね……!」


「ああ、もうしないよ。約束する。あいつも、そんなこと望んでいないだろうしな」


 スズ、一人にしてごめんな。でも、まだこっちでやることがあるんだ。いつかきっと会いに行くから、いい子で待っていてくれ。

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