第35話 少女慰撫

 シャワーを浴びて、服を替え、久しぶりに髭を剃った。それだけのことで、何か生まれ変わったような気分になるというのは大げさだろうか。


 しかし、実際、俺の心はごく穏やかになっていた。デイジーはまだ俺を心配そうにちらちら見ていたが、俺が頭をそっと撫でてやると、安心したようだった。


 俺はそのまま、江口のところへ顔を出した。デイジーとは逆に、江口は俺に何も訊かず、黙って一人にしておいてくれた。デイジーと方向性は違えど、どちらも俺に対する優しさだったのだろう。江口は一瞬、驚いたような顔を見せたが、俺を見て、万事を飲み込んだ、という様子で笑って見せた。


「煙草、吸いませんか、鳴海氏」


「ああ」


 そうして、俺は江口と二人で煙草を吸った。デイジーは部屋から少し出ていてもらい、俺たちは向き合って静かに煙を吸っては吐いてを繰り返す。 終始無言だった。


 だが、居心地は悪くなかった。何があったか、訊きたかっただろうが、江口は何も訊かないでいてくれた。それこそが、一貫した江口のスタンスなのだろう。それが、今はありがたかった。


「ナオミはどうしてる」


 フィルターのギリギリまで吸った煙草を消しながら、俺は尋ねる。


「部屋に、いるでせう。江口には、様子はわかりませんが……きっと、鳴海氏が必要だと思います」


「そうか」


「そうです」


 江口が煙を吐き、煙草をもみ消した。


「ちょっと行ってくる」


「ええ」


「それとな、江口」


「なんでせう、鳴海氏」


「ありがとうな」


「……うふぇふぇ」

 それだけ話すと、俺は部屋を後にした。


「ナルミン、もういいの?」


 外で待っていたデイジーが、声をかけてくる。


「ああ」


「ナオミンのところ、行くの?」


「ああ。俺がおまえに助けてもらったみたいに、今度は俺があいつの助けになってやらないと」


「……そっか☆」


 連れだって、ナオミの部屋の前までやってくる。照明は点いていないようだ。


「ナオミ? 入るぞ」


 ノックをして、返事がないのを確認してから、そっと部屋に踏み込む。部屋は、液晶の明かりで、ぼんやりと白んでいた。


 ナオミは、パソコンの前に座っていた。何やら、一心不乱に作業しているようだ。


「ナオミ……?」


 横から見ると、ナオミはひどい顔をしていた。泣き腫らした目元には黒々としたくまが刻まれている。虚ろな目は、液晶の光をそっくり反射してキラキラと輝いているが、そこには何ら表情がない。


 そんな有様とは対照的に、ナオミの指は機械のように正確にタイピングを続けている。何をしているのかと思って画面を覗き……ぎょっとした。


「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい……」


 ナオミはひたすら、“ごめんなさい”と打ち続けていた。それが贖罪であるかのように、全く指を休めることなく、タイピングし続ける。


 異様ではあったが、静かで無駄のない、奇妙な光景だった。


 ぱちぱち、ぱちぱちと、打鍵音だけが小さく響く。俺も、デイジーも、ナオミも無言だった。


 そのまま、少し俺はナオミを眺めていた。少し痩せた気がする。全体的に生気がなく、ただ生きているだけ、という印象が強い。


「ナオミ……」


 何か言わねば。そう思って声をかけたが、後が続かない。気まずい沈黙。


「鳴海……」


 俺が言葉を探していると、微かな、本当に微かな声がした。一瞬空耳かと思うほどにか細い声の主は、ナオミだった。


「私……は、何もできなくて……ここでずっと謝ってたら……声も……出なくなってきて……それで……」


 がさがさとした声が痛々しい。


「それで、ずっと“ごめんなさい”って打ち続けてたのか」


「私には……何もできない……詫びることくらいしか……」


「なあナオミ、あれはおまえのせいじゃない。みんな、おまえを恨んでない」


「嘘だ……鳴海……は、嘘をついてる……」


「嘘じゃない。お前はいつも、誰より頑張ってたじゃないか。少なくとも俺は恨んでないし、お前の味方でいるつもりだ」


「それでも……私は……私のことを……」


「ナオミ、お前が自分を許せない気持ちはわかる。だけどな、俺は……」


「出ていって……くれ……」


「ナオミ……」


「頼むから……」


 こんな時、どんな言葉を労すれば届くのだろうか?


 俺の安い慰めの言葉は、ナオミの心奥に届く前にほどけて、失われていく。


 雄弁は銀と言うが、言葉は便利なだけで万能ではないのだ。


 それでは、俺はどうすべきか?


 簡単だ。それはデイジーがよくよく教えてくれたのだから。


 俺はデイジーを無言で手招く。俺の意図を察したように、デイジーは一言も発さずにやってきた。


 俺とデイジーは、そのまま後ろから、ナオミを静かに抱きしめる。それはちょうど、俺たちが居場所を失ったあの日のように。泣くことしかできなかったあの日のように。


 しかし、あの日と決定的に異なるのは、俺とデイジーが前を向き始めていること。そして、誰かのために、何かをしたいと思っていること。


 ナオミは、一瞬体をびくつかせたが、なされるがままになっていた。


 ただただ穏やかに時は流れる……。


 ややあって、ナオミの腹式呼吸が、しんとした部屋に聞こえ始めた。俺はナオミをベッドに寝かせ、デイジーとそっと部屋を後にした。


「長谷川女史、大丈夫でしたか?」


 戻ってきた俺たちに、江口が心配そうに尋ねた。


「ああ、まだ時間は必要そうだが、落ち着いたみたいだ。な? デイジー」


「うん」


「そうですか……そうですか……」


 江口は噛みしめるように繰り返し、コーヒーカップに口をつけた。


「さて、と」


「ナルミン、なにするの~?」


「準備だ。休んだ分、やることをやらなくちゃな」


「お出かけ?」


「ああ。安達のところに行く」


「あだち?」不思議そうなデイジー。「おともだち?」


「まあ、古い馴染みだ。江口、明日から留守にする。ナオミのこと、任せていいか?」


「ええ。お気をつけて、鳴海氏」


「わたしは~?」


「一緒に来てほしい。何せ、お前に関することだからな」


「うん☆」


 俺は必要そうなものを思い浮かべながら、出発の算段を整えていく。


「安達……か」


 独りごち、俺は遠くの旧友にしばし思いを馳せた。

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