第29話 少女知得

 数時間は寝ただろうか。外部からの刺戟によらない、ふとした覚醒があった。


 ちょうど、夜中に思いがけず目を覚ました。そういう目覚めだった。


「何時だ……」


 点けっぱなしの明かりの下、腕時計は我が国の標準時が未だ早朝に属していることを示していた。


 奇妙に静かな、されど覚めやらぬ頭で周囲を見回す。デイジーもナオミも、まだ眠っているようだ。床には、昨日の作業の名残として、山積した資料が散らかっている。寝直す気にもなれず、俺は一人で資料を元の棚に戻し始めた。


 三十分ほど作業していると、次いでナオミが目覚めた。


「鳴海か、早いな」寝起きに特有の、ざらりとしたやや低めの声を発するナオミ。「いつから起きていた?」


「少し前だ」作業をしつつ、返事だけはする。「まだ寝ててもいいぞ。呑気に寝息立ててるやつも若干一名いるしな」


「う~ん……☆ 私にも、ビリビリ羊ちょ~だい……☆ あっ、ネズミはいらないから~☆」


「ふっ……本当だな。それにしても、どんな夢を見ているんだか」


「こいつのことだ。大方メルヘンな夢なんじゃないか」


「まあ、デイジーは寝かせておいてやろう。顔、洗ってくるよ。済んだら私も手伝うから」


「ゆっくりでいいぞ。単純労働と力仕事くらい、俺に振っておけ。お前は頭脳労働担当なんだから」


 新しくタオルを渡してやると、ナオミは洗面所に立った。俺は黙々と作業を続ける。


 そこで、ふと思い出して、ナオミに呼び掛けてみた。


「そういえば、今日はどこに行くんだ?」


「ああ、“ブルー・エンジェル”だ」ナオミが遠くから応じる。「ふう、さっぱりした」


「おいおい……本当にあそこに行くのか……。デイジー連れてちゃまずいだろ」


「まあ、適当に誤魔化すさ。さて、鳴海。そろそろ、そこの眠り姫をお起こし申し上げてくれ。残りは私が片づけておくから」


「ああ」


「うへへ……☆ それじゃ第二階梯だよお、ナルミン☆」


「本当、どういう夢見てるんだコイツ……。ほれ、起きろ」


 相変わらず謎の寝言を発するデイジーを軽く揺すってやる。しかし、一向に起きる気配はない。


「仕方ないか」俺はデイジーの鼻を摘まんでみる。「何秒まで行けるかな……おっ、動いてきた」


「うううう~~~~」


「粘るな、こりゃ一分くらい行けるか?」


 次第にプルプルしてくるデイジー。こういう玩具が昔に流行った気がするなあ、と思っていると、耐え兼ねたデイジーがばね仕掛けのようにびょん、と跳ね起きた。


「ぶはあっ!! ぜ~は~」


「あっ、起きた。惜しいな、もう二秒で一分の壁を破れたのに」


「ナ~ル~ミ~ン~?」


 状況を察したらしいデイジーが怒りの目を向ける。


「起きたらさっさと支度しろよ。ナオミはもうとっくに起きてるぞ」


「うううう~~~~~! もうっ! 女の子を起こすならもっと優しく! ばかっ!」


「はいはい、次から気を付ける」


「う~~~ううう~~~うう~!! ナオミ~~~ン! ナルミンがいぢめる~!」


「鳴海……お前なあ……」


 ナオミも流石に呆れ顔をしていた。


「悪い。ついな」


「う゛う゛う゛う゛う゛~~!!」


「まあまあデイジー。男ってやつは、好きな子にいぢわるしたくなるものなんだよ」


「う? スキ?」


「そうそう」


「な~んだ☆ そういえば、ナルミンはわたしが……ダ・イ・ス・キ……なんだった☆」


 すぐさま機嫌を直すデイジー。


「ありがとな……」


 囁いてからそっと手に煙草を握らせると、ナオミは瞬時に袖口にしまい込んだ。


「まあ、悪戯もほどほどにしておけ」


 デイジーの頭を撫でながら、ナオミは小声で耳打った。


「さて、デイジー。今日は別な所に行くから、準備してくれるか? 重い荷物があれば全部鳴海に持たせていいぞ」


「おい」


「じゃあね~☆ これとこれ~☆」


「……わかったわかった」


 デイジーの支度を待ってから電車に揺られて三十分強。俺たちは目的の店――即ち、ブルー・エンジェル――へと到着した。


 都心の地下にあるブルー・エンジェルは、洒落たバーのようであり、一見すると普通の店に見える。


 さて、ブルーといえば、青いとか憂鬱だとか、そういったニュアンスの語であるわけだが、この店に限っては単純明快。猥褻の意である。即ち、店名は“エロ天使”である。


 外見とは裏腹に、古今東西のあらゆる猥褻物でごった返すこの店は、学生の時分に男連中とよく行ったものである。現在では市場に出回らない品物まで取り扱っており、内部はさながら人外魔境の様相を呈している。


 それが、デイジーを連れてきたくなかった理由なのだが、さらに悪いことに、この店の現オーナーは俺やナオミの同期なのである。名を、江口ミサオと言う。女のような名をしているが、恰幅の良い男で、いつも粘っこい笑みを浮かべている。


 元々は一般客で、俺も江口と一緒にブルー・エンジェルに来たことがあった。その時の店長が引退の折、ちょうど卒業を控えていた江口の(邪な)情熱を見込んで店を委ねたため、江口はここで晴れてオーナーとなっているのである。


 こうした情報だけを抜き出せば、江口はとんでもない男に思われるが、頭のいい奴でもあった。不思議と人の心を開かせる話ぶりの男で、機械にも強く、幅広い知識を有する。それを活かして、現在は情報屋まがいのことまで手を出しているらしい……と、行きの車内で俺はナオミから聞いた。


「うふぇふぇふぇ♪ いらっしゃい」


 デイジーに目隠し(教育的観点からの配慮)をさせてから店に入ると、江口の形容しがたい声が俺たちを迎える。


「おや~~? もしかして……長谷川女史に、鳴海氏? これは珍しい」


「久しいな、江口」


「おやおや♪ 長谷川女史は相変わらずお美しい」


「相変わらずの達者な口だ」変わらぬ江口の様子に、俺は溜め息を吐いた。「元気にやってるみたいだな」


「へへえ……鳴海氏まで来店とは、どういう組み合わせで……おや? そこのお嬢さんは……?」


「ああ、こいつは……」


「ははあ……不肖江口、ハッキリ理解わかりましたよ、鳴海氏♪ そこまで対象範囲を広げていたとは……よおし、今すぐお二人のぶる~なナイトをサポートするスンバラシイものを見繕って……」


 バキッ! と江口の顔から鈍い音がした。まあ、有り体に言えば俺が殴っただけだ。


「ああ……♪ この感じも久しぶりですな。そういえば鳴海氏は手癖が悪いんでしたな。いつぞやも、この江口とこの店で喧嘩を……」


「もう一発殴ってもいいか?」


「あ……こりゃ失敬。まあ、このぐらいにしておきませう……と。それで、本当のご用向きは? この江口を訪ねるということは、何かお知りになりたいことでも? まあ、大方の予想はつきますがね、うふぇふぇふぇ♪」カウンターから立ち上がって、外看板を“準備中”に直した江口が向き直って笑う。「そのお嬢さんでせう? 長谷川女史と鳴海氏は、珍しいものをお連れですなあ。どこで見つけました?」


「修復は私が中心になって行ったが、見つけたのは鳴海だ。シェルター付近の建物跡から見つけた」


「ほう。しかしまあ、実際お目にかかれるとは思いませんでしたよ♪ よければ目隠しを外していただきたい」


「こいつの教育に悪いからダメだ」


「おっと失敬……ではこちらに……♪」江口が床板を一枚剥がすと、階段が顔を出した。「暗いのでお気をつけて……」


 江口に次いで俺が、その後にデイジーとナオミが降りていく。まだ目隠しをしたままなので、俺はデイジーの手を握って先導してやる。


「いま灯りを点けませう……よっと。どうぞ、御三方ともおかけになってください♪」


 ドアで隔てられた階下の部屋は意外に広く、応接室の様相を呈していた。革張りのソファにローテーブル、加えて落ち着いた雰囲気の調度品が並び、空間に統一感をもたらしている。


 目隠しを取ってやると、デイジーは不思議そうに辺りを見回した。


「お前にしちゃまともな部屋だな」


「鳴海氏は手厳しいですなあ。うふぇふぇふぇ♪ まあ、店の方をあんなふうにしておけば、外の目も欺けるっていう寸法ですから、その分、こういう部屋はキチッとしておきませんとねえ。うふぇふぇふぇ♪ どれ、長谷川女史と鳴海氏にはモノホンのコーヒーを淹れますからねえ♪ そこのお嬢さんは何がよろしいですかな?」


「わたし?」


「そうそう、あなたです♪ 甘いものはお好きで?」


「すき~☆」


「ではココアでも準備しませう♪ あ、お嬢さんお名前は?」


「わたし、デイジーって言いま~す☆ ナルミンが付けてくれたの☆」


「ははあ、鳴海氏が……意外ですが、なかなかどうして、可愛らしくていいお名前ですな、デイジー女史」


「えへへ~☆ お気に入り☆」


「こら、デイジー。知らない人に軽々しく名前を教えるな」


「え~? でも、ナルミンとナオミンのお友達じゃないの?」


「ふふ。鳴海、すっかり保護者だな」


「ナオミからも言ってやれ。こいつは警戒心がなさすぎる」


「うふぇふぇふぇ♪ 相変わらずお二人は仲がよろしいようで……♪ 結婚式には呼んでくださいねえ。あ、包むのは三万円でよろしいですかな?」


 銀の盆に人数分の飲み物を乗せ、江口が戻って来る。


「熱いのでお気をつけて……」


 配り終えると、江口は自分の分を一口啜る。釣られるように俺たちも口をつけた。


「うん、美味いな」


「うふぇふぇふぇ♪ 長谷川女史にお褒め頂けるとは光栄ですな♪」


「おいし~☆」


「デイジー女史、お口に合いましたかな?」


「うん!」


「うふぇふぇふぇ♪ よかったよかった♪ いやいや、子供の笑顔はいいものですねえ……♪」


「お前が言うとあぶなかっしいんだよなあ……」


「? 鳴海氏、どうしてです?」


「……いや、何でもない」


「それで、だ」


 場の雰囲気が和んだところで、話を切り出したのはナオミだった。


「今日の要件は他でもない。この子……デイジーに関する情報を探していてな。何か知っていることがあれば聞きたいと思って来た。実は、昨日の内に国立文書館のデータベースは洗ってきたんだが、そこでは何もヒットしなくてな。江口、何でもいい。知っていることがあれば教えてくれないか?」


 江口が、ちらとデイジーを見た。その目にはお茶らけた感じはなく、冷静で知的な光を帯びている。


「先の大戦の初期に製造されたロボットの一体で、人間の介助を目的としていたらしい……ということまではわかったんだが、そこから先がさっぱりでな」


「まあ、文書館では出てこないでせうな。そちらのデイジー女史は、一般に公開されていないはずですからねえ。まあ、秘密裏に作られた、ということですな。江口は大概の機械であれば一目で判別できますが、デイジー女史はお目にかかったことがありませんのでね。政府が作っていた試作機……という辺りが妥当でせう、な」


 一口コーヒーを啜ってから、江口は続ける。


「長谷川女史、何か付属のディスクなどありませんでしたかな?」


「ああ、それなら板状のディスクが何枚かあったな……」


「今お持ちで?」


「ああ。すまない鳴海、出してくれ」


「わかった」


 何かの役に立てばと、例のディスクも持ってきていた。俺が江口に手渡すと、それらをしげしげと観察し始める。


「失礼、少し中身を拝見しますよ」


 江口は一度退出し、五分ほどで戻って来た。


「長谷川女史、鳴海氏、ちょっと……デイジー女史は少し待っていてください」


 そうして手招きして俺たちを上階に連れ出すと、江口は店の通路の一角に据えられた一台のパソコンを示す。猥雑な品々の中にあって煌々と灯るディスプレイには、黒背景に白抜きで英数字が羅列されていた。


「特殊なフォーマットのディスクですな。実機を持っていて正解でした。データの劣化が著しいですが、どうやらデイジー女史は、介助なんて生易しい目的の機体ではないようですぞ」


「これは……」身を乗り出したナオミの顔を、ディスプレイが照らす。「それでは、デイジーは……」


「ええ、長谷川女史が今考えている通りでせう」江口が首肯する。「デイジー女史は、“軍事用”です」

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