第4話 少女撤退
『長谷川ナオミだ。よろしく。突然だが、私は長谷川という苗字があまり好きでない。私のことはナオミと呼ぶように』
『ああ。よろしく、鳴海イクサだ。奇遇だな、俺の場合は名前で呼ばれるのが嫌いだ』
『では鳴海と呼ぶ』
『それで構わない……』
……昔の夢……ナオミと初めて出会ったときのこと……あれは……。
「おい、鳴海。起きろ。おい、聞こえないのか」
およそ爽やかとは言えない目覚めだった。
「なんでお前が神聖な俺の部屋にいるんだよ」
ベッドの脇では、粗末な椅子を占領するナオミの姿があった。チャラチャラと指で弄んでいるマスターキーらしきもので、勝手に上がり込んだらしい。
「ここが神聖なら、そこらの道祖神はみんな重要文化財だよ。そんなことはどうでもいい。悪いがちょっと用があってね。あの子のことだ」
「あの子って、あのバカのことか……? 別日にしてくれ。今日は非番なんだ」
毛布をかけなおす。体はまだ重く、睡眠を欲していた。今は何も――特にあの“バカ少女”のことは――考えたくない。
「まあそう言うな。君にだって責任はある」
「責任?」
「彼女な、昨日ずっと『ナルミ~ン☆』って呼び続けてたんだぞ。鳴海はさっさと寝たみたいだからいいけど、夜通し騒がれて私たちはいい迷惑だ」
「そりゃあのバカのせいだろ。第一、俺の部屋に置くなんて聞いてなかったぞ」
「昨日説明しようとしたら、さっさと引き上げたじゃないか」
「だからって、普通男の部屋に置くか?お前が世話すりゃいいだろ」
「ふむ……。そうか……なら仕方がないな」
ようやく理解してくれたらしい。悪いが、俺だってあんな騒音マシーンを自室に置く気はない。ここは断固として断らねば。
「なら……誤解は解けないままだな」
「なんだよ、それは」
「鳴海は寝ていたから知らないだろうがな、噂になってるぞ。鳴海イクサは少女を泣かせる趣味があるって」
「なに?」
「たまたま会話を聞いた人間がいてね。『ぐすん☆ めそめそ☆』って泣き声をはっきり聞いたそうだ」
「一応聞くが……誰が聞いたんだ」
「河合だ。あいつは純粋だからな。鳴海のことを信頼していた分、ショックは大きかろうよ」
「なんで訂正しない? お前が言いきかせてやればいいだろ」
「証拠がないからな。疑わしきはなんとやら、だ」
「お前……」
「さて、どうする? 私としては、相部屋というのも悪くないと思うんだが。ん?」
もはや選択肢はなかった。こうした狭いコミュニティで、妙な噂が流れるのは避けたい。俺の精神衛生に関わるし、業務上も問題がありそうだ。
「……わかったよ」
「鳴海は素直だな。どれ、私も『ナルミン☆』って呼んでやろうか」
「やめろ……頭痛がする……」
「まあ、とりあえずあの子に謝ってやれ。大分気にしていたようだからな。『ナルミン……私のことキライなのかなぁ……☆』だとさ」
「ああ……わかったよ」
「話はそれだけだ。寝てるところ悪かったな、鳴海」
「よく言う。プライバシーってモンを尊重してほしいぜ」
ナオミが出て行ったのを確認して、俺は着替えることにした。もう少し眠るつもりだったが、目覚めたなら目覚めたなりに、時間を無駄にはしたくない。
ごく少量の水でちゃっちゃと顔を洗い、何着かある作業着――といっても薄汚れたジーンズとよれたシャツだが――のうち一着を取る。俺は普段着も作業着も同じものを着まわしていた。いちいち選ぶのは面倒だし、選り好みできるほど資源に余裕もなかった。
「よし……」
さしあたって、どこに行くか。あのバカがいそうなところ……。
「あ」
「あ」
見ると、河合がこちらへ向かってきていた。俺を見て、気まずそうに顔を伏せる。
「な、鳴海先輩」
「ああ、河合。おはよう。あのな……昨日のことだけど」
「お、女の子、泣かせるのは、だめ、です。で、では」
それだけ言うと、河合は行ってしまった。
「ナオミのやつ……覚えてろよ……」
俺の脳裏では忌々しいマスターキーのチャラつく音が響いた。
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