第4話 令嬢、仮面の下を知る

 ガリエ家の有能な秘書ロボットであるセクレト。

 液晶表情を備えたボディは丸みを帯びたデザインで、ベーシックな白い素体ほぼそのままの状態だ。セクレトとしては、男性要素も女性要素もオプションで加味されていない今のシンプルな状態が気に入っているし、特に支障を覚えてもいない。


 ただ、最近、エネルギーの補給に関してだけは、どうして自分は食物から経口摂取できないのだろうかと残念に思っている。


「カグヤ様! 間もなく焼き上がりです〜」


 そろそろ日の傾きかけた夕方の庭に向かって、キッチンに近い勝手口から呼びかけると「はーい」と声が返る。


 返事をしたのは、このガリエ家に嫁いできた新妻、カグヤだ。レインブーツを勝手口で脱いで手を洗った彼女は、庭の様子を嬉しそうにセクレトに報告する。


「芽を出してたほうれん草が、すくすく伸びていたわ! マダムやラワットさんのおっしゃる通り、この時期は虫が少ないのね」


 マダムとラワット夫人は、カグヤの友人だ。ガリエ家の近くに居を構えている。カグヤとは少し年が離れているけれど、知人も親戚縁者もいない火星にやって来たカグヤにとって彼女達はかけがえのない存在だった。


「カグヤ様が楽しそうで何よりです」


 セクレトの言葉に、カグヤは「だって皆さんすごいんだもの。私もトライしてみたくなっちゃって。こないだのアクアパッツァ、ぜひセクレトにもお裾分けしたかったわ」と笑う。


「ああっ、またおいしそうなお話! エネルギーの補給手段が増えてくれれば、私も皆様のお茶会のご相伴に預かりますのに……!」


 そう、先日の住宅街での電力トラブル以来、カグヤ達三人は時々お茶会を楽しんでいる。紅茶や自家製のハーブティー、お茶菓子などがよくテーブルにのぼるのだが、マダムやラワット夫人はハーブやちょっとした野菜を自家栽培していることにカグヤは大いに興味を持った。


 そんな中、先々週にマダムが骨折後のリハビリのモチベーションになるからとガーデンパーティーを企画して、マダムの知人が丸のままの魚を持ち込み、その場で下拵えをして自家野菜と一緒にアクアパッツァ風のホイル焼きにしたのだ。その様子にいたく感動したカグヤはついに一念発起して、ガリエ邸の庭の一部を家庭菜園にしたのである。

 折よく、オーブンが終了アラームを鳴らした。


「いい香り!」


 ミトンを手に嵌めたカグヤがオーブンから天板を取り出す。ツヤツヤとしたテーブルロールが、ふんわりと焼き上がっている。


「素晴らしいです! カグヤ様、今夜のメニューはいかがしましょう?」


「そうねぇ、このパンと合わせるならビーフシチューかクラムチャウダーのミールキットがよさそうかしら」


「どちらもストックがございますよ。お飲み物は……、あ」


 セクレトの液晶表情が一瞬目を見開く。


「……カグヤ様、今、メッセージを受信しました。レイ様からご伝言です。急な会食が入り、今夜は食事を外で済ませて帰るとのことです」


 申し訳なさそうに報告するセクレトに、カグヤは首を振る。


「お忙しい身ですもの。後でレイにも食べてもらえるように、私が食べすぎちゃわないようにしなくっちゃ」


 カグヤはジョーク混じりに言って、焼けたパンを冷ますために網の上に置いていく。手を動かしつつ、考えるのは夫のことだ。


 レイは、火星の辺境伯と呼ばれる多忙な身だ。結果的に、父から引き継ぐことになったその役割は、かつて地球上でこの言葉が生まれた時に担っていた地主や領主を指すのではない。


 カグヤは、嫁いでくる前、自分なりに火星の辺境伯について調べたことを思い起こす。

 地球に中央政府があり、各惑星に地方政府がある現代において、かつての火星の政府は単なる中央からの出向先だった。

 レイの父親は、火星に暮らす人間の自治と火星の原住生命の保護を主張し、地方議会の設置のために尽力した。そして議会設置を成し遂げ、支持を得た彼は議長の任に就き、地方政府には火星に住まう移民が入るようになっていった。


 こういう経緯をみれば、レイの父親がマダム達に慕われていた理由もよく分かる。


「あ」


 マダムを思い浮かべて、パンを並べ終えたカグヤは以前やってみようと考えついていたことを思い出す。


「どうされました? カグヤ様」


「夕食の後、ちょっとやってみたいことがあって」


 カグヤは微笑み、いそいそと食事の準備を始めた。


   §


「じゃん!」


 夕食を終えたカグヤが自室からリビングへ持って来たのは、ビリジアングリーンのロングスカートとソーイングセットだった。シンプルなデザインのスカートをセクレトの前で広げてみせる。


「鮮やかなお色ですね」


「亡くなった母が選んでくれたものでね。ウエストがもうくたびれてしまっているのだけど、捨てるには忍びなくて」


 カグヤの言葉にほんの少しの寂しさが混じって、こういう感情は何度も分析した経験がある、とセクレトはレイの過去データを自律参照した。


「でね、こないだマダムのお家で、パッチワークのクッションカバーをお見かけしたの。着古した服やスカーフをリメイクしたんですって」


「パッチワーク……」とセクレトはおうむ返しにしながら、一瞬でインターネット上で検索した結果の文章やイメージ画像を確認する。

 なるほど、使わなくなった布などを小さなパーツに分けて、それらを再構築して新たな用途に仕立てる手法らしい。


「私は初心者だから凝ったことはできないし、スカートの形をほとんどそのまま活かしたエプロンを作ろうと思って」


「それは素敵なアイデアでいらっしゃいますね!」


 セクレトは、にっこりとした笑顔を液晶表情に浮かべて、カグヤと共に作業手順を確認する。


 まずは、ロングスカート背面の中央、二〇センチ幅ほどを裁つ。

 エプロン本体となるスカートの前側を胸元に当ててみて、肩周りの邪魔になる箇所を確認し、その部分から腰の高さへ緩やかなカーブを描くラインで布を裁つ。ほつれてこないよう、本体の布の端を三つ折りになるよう折り返してアイロンで折り目をつけてから縫う。

 背面から切り分けた約二〇センチ幅の布から、肩紐と、腰で結ぶための紐を取り、それぞれ三つ折りにして端がほつれないように縫う。

 最後に、好みの長さになる位置で、肩紐と腰紐を本体に縫い付ける。


「型紙などもいろいろ公開されていて、デザインがそれぞれ違うのね。

 皆さんテキパキと作業されてるけれど、私は倍以上の時間がかかっちゃいそうだわ」


 セクレトが手元の端末に表示してくれた動画や型紙の画像を見て、カグヤは少し怯んだ。だが、すぐさまセクレトが手元のスカートを計測し、カグヤの体のサイズに合わせた数値を弾き出してハードルを下げてくれる。


「セクレトは本当に優秀ね……」


 カグヤが感心したように言うが、「針仕事の細かさは、さすがにこのままでは請け負えませんから」と基本素体の手のひらを開いたり閉じたりしてセクレトは謙遜する。

 だが、ミシン機能のあるソーイングマシンを購入して設定しさえすれば、セクレトはそのOSを要望通りに自在に操って美しい完成品を仕上げるだろう。


 それでも、多少不恰好になろうとも、カグヤは自分の手でやってみたいのだ。それは以前感じた憧憬と同じく、自分に繋がる系譜である祖母や、さらにその上の世代の人々の営みを感じてみたいという好奇心と不思議な充実感を味わうためだった。


「よし! やるわよ!」


 カグヤは気合いを入れ、リビングのテーブルにスカートを広げる。セクレトが示してくれた数字に従ってチャコペンで印を付けて、ハサミを入れる。


 思い出すのは母のことだ。カグヤの黒くツヤツヤした髪色に似合いそうでしょ、と嬉しそうにプレゼントしてくれたスカート。それをカグヤは気に入って、春先も秋冬にもコーディネートを様々に変えながら着ていた。自分の体型は十代半ばすぎからほとんど変わっていないけれど、頻繁に着用してして洗濯を繰り返していればくたびれてくるのは道理だ。


 裁ちばさみを動かすたび、カグヤは懐かしい日々を振り返り、少し前の自分なら思い出のスカートを切ってしまうなんて想像もしなかったと思う。


 ハーブ作りを、祖母から母が受け継いだように、自分もトライしてみたい。祖母みたく何もかも器用にはできないかもしれないけれど。


 そうだ、祖母はとっても器用な人だった。メイドのグレース達と、よく焼き菓子を振る舞ってくれたっけ。寒さが厳しくなる前にと、今頃の秋の季節にはストールを編んでくれていた。


「お祖母様が編み物をしていたこと、ふと思い出したわ」


 カグヤがそう言って、セクレトは「カグヤ様がいろいろご自身でお作りになってみようとする姿勢は、お祖母様譲りでいらっしゃるのですね」としみじみつぶやいた。


「きっとそうね。お祖母様みたいに全部を上手にはできないかもしれないけれど」


「どんな方でいらっしゃったんですか?」


 セクレトに尋ねられて、カグヤは思い出話を並べていく。


 ──ナツキ・ソフィア・モーリ。彼女の柔らかい白髪が太陽の光を反射するのを見るのが、カグヤは好きだった。自分の黒髪と、まるで対のようで。

 若い頃は看護師をしていたらしく、テキパキしている祖母に似合いだなと思ったことがある。カグヤの知る祖母、ナツキはいつも穏やかで、グレースを始めとしたメイド達と一緒に農園の野菜でピクルスを漬けたり、お菓子を焼いたり、縫い物を楽しんだりしていた。友人と馴染めないと悩んだ小さい時も、温かいハニーミルクを作ってくれたっけ。


 ──要らない人なんて誰もいないのよ。生きていく上で皆で協力しないとだめ。

 ──良い・悪いじゃなくてね、昔は皆で乗り越えなきゃ生きていけなかったの。

 ──だからもちろん、一人で頑張れることは素敵よ。そして、誰かと一緒に頑張れることも同じように素敵なの。


 そうだ。そうやって友人関係がうまくいかないカグヤを慰めてくれた。疲れた時に帰って来られる居場所を作ってくれていた。


 モーリ家は祖母が亡くなり、母が亡くなり、メイドを複数人解雇し、家族仲が悪くなったわけではないけれど単純に人数が減って以前ほど賑やかで明るい雰囲気ではなくなってしまった。妹のナナと恋人のブライアンの縁談がいい形で進んで、あの家にまた新たな活気が生まれてくれればとカグヤは心から思う。


 思い出話をしつつ、用意したアイロンで、後で端を縫うための折り返しの跡をしっかり付ける。針仕事を始めて少し経ったところで、セクレトが「あっ、レイ様がお帰りです!」と反応する。門扉が開錠された通知がきたのだろう。


「お帰りなさい、レイ」


「お帰りなさいませー!」


 リビングのドアを開けるレイを、カグヤとセクレトが出迎える。


「ただいま」


 今日のレイも、スーツとローブに目元を覆うハーフマスクを合わせた格好だ。縁談が進み始めた当初はレイが素顔を見せない理由を不思議にも不審にも思ったカグヤだが、彼の人となりを知ってからは些細なことだと思うようになった。全てを開けっぴろげにすることだけが、信頼の形ではない。きっと、彼はそういう価値観なのだろう。一抹の寂しさを感じないでもないが、カグヤは自分をそう納得させていた。


「何か作業をしていたのかい?」


「そうなの。スカートをエプロンに作り変えようと思って」


 カグヤから詳しく説明を聞いて、レイの口元が微笑を浮かべる。


「じゃあ、思い出のスカートで作ったエプロンを着けてキッチンに立つのか。素晴らしいね」


「カグヤ様のお祖母様のお話もいろいろ聞かせて頂きました!」


「……それは私もぜひ聞きたいな」


 レイの声は微笑みのせいか、さらに優しげで、カグヤは火星に来られた幸運を思う。

 その雰囲気を感じ取って、セクレトが提案した。


「ではお話のお供にお二人に紅茶を淹れますので、レイ様のお部屋にお届けしましょう」


「そうだな、頼めるか?」


 それを聞いてカグヤは驚いた。レイの私室に入ったことはこれまで何度かあるけれど、それは自宅で仕事中の彼に声をかける必要があっての短時間だけだ。話をするのはもっぱらリビングやダイニングが定番だった。レイの私室に二人きりで、夜の時刻に、まして紅茶と共に語らうなど初めてのことだ。


 少し戸惑うカグヤの様子に勘付いたのか、キッチンに向かう前のセクレトが彼女に向かって液晶表情でウインクする。有能な秘書AIだとカグヤも知ってはいたけれど、その優秀さに脱帽だ。


「レ、レイ、今日はお部屋でなさるお仕事はありませんか?」


「あぁ」


 夫に即答されて、カグヤは急に恥ずかしくなる。思えば、セクレトを交えずに二人きりで夫婦が過ごすことはほとんどなかった。


「お部屋で待っててくださいね」


「よろしく頼む」


 セクレトの声がキッチンから届く。カグヤは廊下に出たレイに続いて、少し緊張ぎみに階段を上がった。


    §


 レイの私室は、書斎と呼ぶに相応しい。

 壁周りに本棚があり、様々なジャンルの書籍が並んでいる。いつもレイが仕事をする執務机。柔らかい革張りのソファ。部屋の角の観葉植物。スタンド式の間接照明は柔らかい光で、ソファの脇に立っているほか、卓上にもミニサイズのデスクライトがある。この部屋にはベッドはなく、一つの壁面にドアがあって寝室に続いていた。


 部屋には茶葉と花の香りが漂っていた。

 カグヤとレイはソファに腰掛け、カグヤは家庭菜園の様子や家族の思い出話を語って聞かせる。セクレトにさっき話した内容をなぞることもあれば、芋蔓式に引き出された記憶を語ることもあった。レイは、微笑みながら、時々紅茶に口を付けて聞いている。ローブの上質そうな生地の衣擦れを、隣に座るカグヤは感じた。


 不意に、レイを見つめてカグヤは思った。祖母ならば、こう言い出すのではないか、と。


「ねぇ、レイ」


「ん?」


「思い付いたことがあるのだけど……あなたのマスクってどんな材質でできているのかしら」


「材質か、あまり気にしていなかったな。セクレトが手配してくれたものだから」


「そっか、じゃあセクレトに尋ねて履歴を遡ってもらおうかな」


 片手の人差し指を立てて考え込むカグヤに、レイは「私のマスクが、どうかしたかい?」と尋ねる。その言葉には、妻の真意を探るような、彼が抱く懸念や怖れがほんの少し混じっていたけれど、カグヤは気付いていなかった。


「レイ、いつも同じマスクを使っているでしょう? スペアのマスクがあれば便利じゃない? お祖母様なら、マスクまで自作しちゃおうって言いそうだなって」


 カグヤは笑ってそう言い、夫をねぎらう。


「私ができることはそんなに多くないから、何かレイのためにしてあげられることをやりたいの」


 それを聞いたレイの口元の表情と声音に、カグヤは少なからず驚いた。「ありがとう」と告げた唇は微笑んでいるのに、その声はあまりにも悲しげだった。


「レイ?」


 カグヤは驚き、心配も交えて隣の夫を見つめる。レイはわずかな沈黙を挟んでから、ぽつりと「君達は本当によく似ている」と零した。


 この書斎に天井照明は設置されていない。ソファ横のスタンドライトによって、カグヤの不思議そうな顔も、レイのハーフマスクと引き結んだ口元も、暖色光が照らしている。


「えっと……私に似た人、ですか?」


 レイが、カグヤの手を取った。カグヤより、ずっと大きな手。その温かさに彼女は少しだけ緊張する。二人は夫婦ではあるけれど、まだ寝室を共にしたこともなければ、式での儀礼を除けば唇を重ねたこともないのだ。


「誤解してほしくないから先に伝えておきたい。

 私が妻に選んだのはカグヤで、君以外の伴侶は考えられない」


 熱烈でストレートな言葉に、カグヤは顔から火を吹きそうだ。レイを誠実な人だと思ってはいたけれど、その真っ直ぐさが色恋や夫婦関係に向かうとこんなにも覿面に自分は舞い上がってしまうのかと動揺する。だが、それは彼女に間違いなく嬉しさをもたらすものだった。


「隠し事をしたいわけではないから、話しておきたいんだ。

 似ていると思ったのは、君と、学生の頃のナツキだ」


 ナツキ。カグヤの祖母。今日、セクレトとレイにカグヤが思い出話をたくさん聞いてもらった祖母。カグヤは混乱する。胸が痛いような不思議な気持ちになる。


「が、学生の頃のお祖母様って……軽く六〇年は昔のはずよ? レイが会ったことがあるはずないわ」


「私の出自に関して、まずは聞いてもらわなければいけないね」


 レイは、握っていたカグヤの手をそっと彼女の膝上に導いて離し、自らの手のひらを彼自身の胸元に置いた。


「私の生まれは月だ。君の故郷である月だよ、カグヤ。

 でも、私の母が月で出産したわけじゃない。私は、ある医療施設で秘密裏に発生した。ヒトの胚に、火星の原住生命の細胞を移植して生まれたのだ」


 理解が追いつかず、カグヤはさらに戸惑う。レイが? 人間と原住生命の混血?

 カグヤの表情を見て取って、さらにレイは説明を噛み砕いた。


「元は、臓器移植を効率的に進めるための研究らしくてね。本来なら臓器の器官原基を摘出されて、私は死ぬはずだった」


 恐ろしい話を聞かされている、とカグヤはようやく事態を認識し始める。生命倫理の観点からすれば、これはとんでもないことだ。


「研究者が、単純な人間のクローンではなく、なぜ火星の原住生命を掛け合わせようとしたかは分からない。

 だが、原住生命の一種、クマムシターディグレイドなどは高い放射線耐性機構を持ち、百度の高温にも絶対零度の環境にも適応する。空気や水がなくても即座には死なない。冷凍状態なら寿命を消費しない。

 そういう特性を生かしての何らかの成果を求めた実験結果が私で、例外的にうまく育ち始めた成功例を失いたくなかったのだろう」


 レイによると、原住生命も長い歴史の中で進化していて、今や末裔はクマムシターディグレイドと似た形状であるが微生物ではないという。ヒトと同じくらいの大きさはないにしても、体高は八〇センチほどあり、保護区が整備されているのだと説明を続けた。


「その医療施設で、レイが出会ったのがお祖母様……?」


 カグヤは、看護師として勤めていた祖母と実験の中で生まれたレイの間に接点を見出しはするものの、理解するにはほど遠い心情だ。


「研究者側の詳しい事情は分からないが、私は殺されることなく生かされた。成長スピードは著しく、当時の記録によればヒトのおよそ五倍の速度だったらしい。母親代わりの存在が必要だろうと、研究者が声を掛けたのが看護学生のナツキだった」


 まただ、とカグヤは思う。何だろう、レイが祖母について口にするたび、胸の奥がギュッと締め付けられる。


「私達は親子のようでもあったし、姉弟のようでもあった。ナツキがどこまで私のバックグラウンドを把握していたかは知る由もないが、一緒にいたのは一年と少しだ。最終的にせいぜい五歳児ほどの能力を発揮する程度の私は、ただナツキを慕うだけだった。

 その内ナツキは学校を卒業して、私のところには来なくなった。私に次のスタッフは付いたけれど、ナツキに対するほどに懐くこともなかった」


 カグヤは、レイの説明を聞いてもうまく相槌の言葉が出てこない。話に追いつくだけでやっとだ。レイの回想は続く。


「私のことは火星の貴族が後見人となって引き取ることになった。それが父だ。物好きや道楽というよりは、彼なりの信念があって私を息子同然に迎え入れてくれたよ。実際、その後に養子縁組をしている。

 私が一般的な高校生くらいの見た目に成長した数年後、久しぶりに私は月へ向かう機会に恵まれた。もちろん母親同然のナツキを探したよ。彼女はモーリ家に嫁いでいて、お腹には子供がいると分かった。すれ違いざまに顔は見たけれど、もちろん気付かれはしないし、声は掛けられなかったよ」


 カグヤは想像してみる。

 育ての母を慕って会いに行ったら、彼女はすでに自らの子供を授かっている。こちらに気付いてもらえもしない──。

 レイの語った成長速度でいうなら、ほんの五、六歳の幼児にとって、母親を失ったような切ないシチュエーションに違いない。


「でも、そう望んだのは私だ。自分の存在そのものが非合法だと分かっていたからね。再会して彼女と話して接触することで、何か迷惑をかけてしまうリスクは避けたかった。彼女が健在だと知れただけで、十分だったんだ」


 そう語るレイの表情は、穏やかで優しかった。

 降って湧いた縁談なりに、嫁いでからの自分がときめいていた彼の微笑みだと思った瞬間、カグヤの中でぷつんと何かの糸が切れた。

 レイが目を見開いて驚く。


「カグヤ!?」


 カグヤは、彼女の髪と同じく暗めの色合いの目からぼろぼろと涙をこぼしていた。次から次にあふれてきて止まらない。


「カグヤ、君は優しい。私のために泣く必要はないよ」


 レイは、ポケットから取り出したハンカチでカグヤの濡れた頬を拭おうとした。反射的に、カグヤはそれを振り払うまではしないものの、押しとどめる。


「違う!」


 レイは、カグヤの声にびっくりした。こんなに彼女の感情がほとばしった様子を見るのは初めてだった。


「違うわ! これは、優しいから、なんかじゃ……!」


 言葉を区切るのは、しゃくり上げて泣きそうになるのを抑えているせいだ。カグヤは自分でも信じられないほど傷付いていた。

 レイにとって、自分はナツキの代わりだったのだ、と思ってしまう。自分がそう思ってしまうことにすら、何て子供っぽいんだろうと情けなさと嫌悪を覚える。

 レイが紳士的で優しかったのは自分の中にナツキの面影を見出したからだとしたら、もう立ち直れない気さえした。


「私は、お祖母様の代わりだった?」


 涙声で聞いてしまう。

 こんなの、きっとレイを困らせるのに。こんな尋ね方をしたら、もしもレイがナツキのことなど無関係にカグヤとの縁談を進めたのだとしても、きっと彼は己の無意識の中に何もよぎりはしなかったかを考えて、彼自身を責めることになる。仮に、ナツキとカグヤを重ねていたなら尚更だ。


「すまない、カグヤ。黙っていたことを許してほしい。君は、誰かの代わりなんかじゃない。私の唯一の伴侶だ」


 レイは謝罪する。誇張ではなく、身を切られる思いだった。

 彼がこの世に生まれた理由は、誰か他人のための臓器形成のためだった。己という個を軽んじられてしまうことがどれほどひどいことか、よく分かっていたはずなのに。


「すまない」


 繰り返すレイを、涙に濡れた眼差しでカグヤは真っ直ぐに見つめた。


「見せて」


 それは、命令しているようにも、懇願するようにも聞こえる響きだった。


「私があなたの妻であるなら、私に、あなたの素顔を見せて」


 カグヤの顔には、引かないぞという意志がありありと滲み出ていた。

 レイが思考に割いたのは短時間だが、正直なところ彼はためらった。物心ついてから、レイが自分の素顔をさらした経験はほとんどない。傷付いたカグヤの心に、更なるショックを与えるのではないかとも考えた。


 だが思い直す。

 この懸念すらも、彼女本位のものではなく、己の保身ではないか。妻の望みを叶えない理由など、どこにもないのだ。レイは覚悟を決めた。


「分かった」


 レイがソファから立ち上がった。黒いローブとジャケットを脱ぐ。それらを軽く畳んでソファの端に置き、ネクタイを緩める。


「これが、私だ。情けなくもこれまでカグヤにさらけ出せなかった、マスクの下のレイ=ガリエの姿だよ」


 言いながら、ワイシャツのボタンを外していく。合わせた襟元からさらに下の腹部にかけて、肌を隠していた布が取り去られる。

 カグヤとそう変わらない肌の色。その肌が表面を形成する、脇のやや下あたりから伸びるもう一組の腕。メインの両腕ほどのサイズや筋力はなさそうだ。例えるなら、子供の腕のような見た目の複腕だった。

 肌を晒したレイは、最後にハーフマスクを取った。カグヤが見たいと望んでいた、マスクの下の素顔。そこには、眼球が未発達な原住生命の特徴を継いで、眉がなく、眼窩が浅く窪んで皺になっている目元があった。


「これでも一応は見えてはいるのだよ。それに仮面の目の部分にはピンホール効果を狙ったごく小さい穴があいていて、視力の補助となっている」


 カグヤが何も言わないので、レイの明るい調子の言葉は水面に落ちた雫の波紋のように部屋の中に広がる。

 どうしたものだろうか、とりあえず服を着るのが礼儀だろうか、とレイが思った矢先だった。

 立ち上がった妻が、強く強く夫を抱きしめた。

 驚いたレイは何か言おうとしたけれど、カグヤが口を開くのを待つ方がいい気がした。触れ合いは、それほどに雄弁だった。生きている者同士の体温を感じ取り、レイは初めて四本の腕全てで妻に触れた。


「わがままを言ってごめんなさい、レイ。秘密を無理矢理に暴いて、あなたの心を、私傷付けたわ」


 気持ちが落ち着いたのか、少し体を離してカグヤがそう告げた。レイは即座に否定する。


「違う、私にあまりに配慮がなさすぎたんだ。謝らないでほしい」


 誠実であろうと、少し早口ぎみに弁明するレイの様子にカグヤは微笑んだ。

 どんな見た目でも性根は変わらない。この人は、私の夫だ。まだまだ短い婚姻生活だけど、いつも私を優しく気遣ってくれるレイだ。


「仮面があってもなくても関係ないわ。レイはレイよ。

 私は、夫であるあなたの言葉を心から信じます」


 凛とした響きの声は、誓いの婚姻儀礼の記憶を思い起こした。


「カグヤ!」


 感極まって、レイはカグヤを再び抱きしめる。先ほどまでの激しい感情は鳴りを潜め、穏やかな雰囲気が書斎に満ちた。しばし時間が過ぎる。


「……あの」


「何だい?」


 レイは穏やかな声音でカグヤに促すが、次の瞬間にはまた動揺することになる。


「あの、はしたないと思わないで頂きたいんですけど、その、ずっと気になっていたんです。どうして婚礼での誓いと同じく、触れてくださることはないのだろうと。今なら、勢いで聞ける気がして……」


 カグヤは、ついさっきの激情とは異なる意味で顔を赤くし、精一杯言葉を選んでレイに尋ねる。レイは頭がくらくらした。この令嬢が、本当の意味で自分の妻となってくれたような、そんな気がした。


「それは……それは平たく言うと、キスを許してくれるということかい……?」


「……ゆ、許していないつもりはありませんでしたが……」


 レイは頭をかき、これまでにないあけすけなムードに苦笑を装って何とか対応しようとする。


「カ、カグヤからリクエストしてもらえるとは思わなかったな」


「……せがんではいけませんか?」


 ぐっ、とレイは言葉に詰まった。ここまで妻に言わせて、それでいいのかレイ=ガリエ! と思わず自問する。

 触れ合いが嫌でこれまでカグヤを避けていたのではない。触れてしまえば、を嫌でも意識せざるを得ないからだ。

 だが、いずれ晒すことになる自らの姿が障壁だったのだから、問題は解決したのだと自分を納得させることもできる状況ではあった。逡巡がレイの顔に出る。決断するのは、カグヤの方が早かった。

 レイの首裏にカグヤの両の手のひらが触れる。抱き寄せる。カグヤが爪先立ちになる。

 だが、顔と顔の距離を詰めたのはレイだ。もはや迷いはなかった。

 唇同士が触れる。そうなって初めて、五感の中で視覚に頼る割合が少ないレイは、こうやって触覚で妻の存在を確かめる喜びがいかに大きいものかを改めて感じて体が震えた。手と手が触れた時の気恥ずかしさ以上の高鳴りと、心の奥が満たされる充足だった。

 一度離れかけて、また接する。軽く唇を啄む仕草に、カグヤが小さく驚いたのがレイに伝わった。キスとハグを終わらせて、正面からレイが言う。


「カグヤを、もう不安にさせはしない。必ず守る。私自身の失態や落ち度で、もうカグヤを傷付けたくないんだ」


「少し大げさに聞こえるけど、レイの気持ちをとても嬉しく思うわ」


 笑うカグヤにレイは首を振る。彼は「自分を隠すのではなく、視力の補助のために」と前置きしてハーフマスクを顔に嵌め、ワイシャツを羽織った。レイが素肌を晒していた時よりも、なぜか目のやり場に困るような恥ずかしさをカグヤは感じてしまうが、真剣な表情の彼に向き合いたくて、急いでその感覚を打ち消した。


「電力供給やネット環境が遮断されたあの日、カグヤや周辺の市民をトラブルに巻き込んだのは、私のせいだ」


 思いもよらぬ方向に話が飛んでいき、カグヤは困惑する。


「ど、どういうこと?」


 レイは、火星で勢力を少しずつ広げているある団体について、カグヤに話し始めた。


「彼らの主張は、火星の主権者は元々の住民である原住生命の末裔であるというものだ。保護区の整備ではなく、他の惑星にルーツがある人間は火星のコロニーそのものを手放すべきだと」


 彼らは現在の火星に置かれている政権に反抗する勢力だ。その団体が、レイの出自についてどこかから嗅ぎつけたという。


「彼らにとって原住生命と関わりのある生まれの私は、自分達側に引き込んでおきたい存在なのだろう。資金援助を願う連絡もあったよ。

 だが、主張を理解はするが、政権にむやみに対抗する姿勢には同意できないと私は思ったし、彼らにもそれをそのまま伝えた。その結果が、居住区へのあれだ」


「じゃあ、あのシャットダウンはレイへの嫌がらせってことなの?」


 そんな短絡的な、とカグヤは思ったが、首謀者からの犯行声明は届いているとレイは言う。


「彼らの活動を表沙汰にしたくはないから、政府は公表しないがね。さらに言うなら単に私への嫌がらせではなく、中央をテロの標的にした更に大規模なインフラダウンの練習台といったところだろう」


「そんな……」


 カグヤは、のほほんと過ごして、あのトラブルのおかげで友達ができたし、DIYに親しむいいきっかけになった、くらいにしか考えていなかったのに、実際はレイを悩ませ苦しめる状況だったなんて。彼女は戸惑い、そして、続くレイの言葉にさらに困惑する。


「だから、私としては君を一旦月に帰したい」


「え……」


 例の団体は、NMネイティブ・マーシャンズという名称で、反政府としての思想は幹部級になるほど強いとレイは説明する。


「組織員の多くは原住生命の保護を訴える主張に同意しているだけで実態は知らず、政府が危険思想家としてマークしている人数は少ない。別件での逮捕などもあって、このまま組織の制圧が完了すれば避難の必要はないと思っていた。だが、今夜、事情が変わった」


 レイの声音で、カグヤは今夜の夫の帰宅が遅くなった理由が華やかな会食などではなかったことを察する。


「組織の中心人物達が姿を消した。ご丁寧に、火星政府首長への脅迫を残してね」


 レイは議会側の人間だから、彼が脅迫の直接の対象でないことはカグヤにも分かる。だが、状況を注視するだけでは万一に備えられない可能性がある段階にきているとレイは判断しているのだ。


「私は明日からしばらくこの家に戻らず、議事堂の近くに宿を抑えようかと思っている。私自身の安全もそうだが、何より先日のようにカグヤを巻き込みたくないのだ」


 そう言われてしまえば、カグヤが反対する合理的な理由は何もなくなってしまう。


「でも、せっかくレイとちゃんと夫婦として向き合えたばかりなのに……」


 カグヤの言葉は最後まで紡がれない。ちゅ、と小さなリップ音が二人の唇の上で鳴る。カグヤは、レイの変化にドキドキしてうろたえてしまった。キスで自分を黙らせたのだ! あの堅物そうなレイが! 優しい辺境伯からの慈愛をカグヤが拒めるはずもない。


「カグヤを守りたい、と私は言ったはずだ」


 仮面の形状が喜怒哀楽によって変化するわけはないのに、目の前のレイのマスクからは彼の真摯さと決意が滲み出ている。

 しばし考えて、カグヤは返事をした。


「……分かりました。ただ、明後日にマダムのお家でガーデンパーティーの約束があるの。それだけ出席したら、私は月に帰ります。

 ちょうど来週が父の誕生日なんです。それを口実にすれば、実家の者達にも余計な心配をかけずに里帰りできるわ」


 一旦は避難を拒んだカグヤだが、彼女なりの譲歩を交えて身の振り方を決める。そこに滲む他者への配慮にレイは思わず微笑んだ。

 不要な人間など誰もいないのだと話していたナツキの姿がカグヤと重なるのは確かだ。それは否定できない。だが、ナツキの影を追うためにカグヤを妻に迎えたわけでは決してない。

 レイは「すまない」と一言つぶやいて、再び妻をその腕に抱きしめた。

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カグヤが月から嫁ぎます!〜Fly Me to the Mars〜 湧あさね @yu-asane

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