第3話 令嬢、火を見つめる

 二人は寝室を共にしないまま数日が経った。とはいえ仲違いしているわけではなく、むしろ日に日に親密になっている。


 レイの屋敷に異変が起こったのはそんなある日だった。


 昼時に近い午前中。予め屋敷宛てに送ってあった荷物の整理を続けていたカグヤの背後で、ついさっきまで稼働していたオート清掃ロボが突然動かなくなった。


 今すぐ掃除を再開してほしいというわけではないが、機械の故障なら早めに知らせておくのがいいだろうとカグヤはセクレトを呼ぶ。屋敷の中はあの秘書の管轄内で、外出中でなければその場で声を掛けるだけでいつもならすぐに返事があるのだが。


「セクレト?」


 何も反応がない。出かけているのかしら、とカグヤは自室を出た。

 秘書を探してキッチンに向かったところでカグヤは驚きで「キャア」と叫んでしまう。何とセクレトはバランスを失って床に倒れ、表情をいつも映している液晶画面はブラックアウトしてしまっていた。


「セクレト、セクレト! 何があったの⁉︎」


 どうしたことだろう。混乱するカグヤのところへ、バタバタと仕事部屋からレイが駆けつける。


「カグヤ!」


「レイっ、セクレトが!」


 思わずカグヤはレイにしがみつくようにして説明する。


「最初は私の部屋の清掃ロボが止まったの。セクレトに知らせようと思ったら返事がなくて、探しに来たらこんな……」


「なるほど。私も部屋で仕事を進めていたら、突然全ての機器がダウンしてしまったのだ。今日は雑務整理のつもりでアポイントメントは入れていないし、おそらくは自動バックアップが機能していると思うが」


 レイはいくつかの調理家電や照明のスイッチ、ポケットに入れていたハンディ端末を確かめた。


「ふむ、何もかも動かない上にネットの接続も切れている。だがスタンドアローンタイプの時計すら動いていないとはどういうことだ……?」


「れっ、冷蔵庫っ」


 カグヤは慌てて冷蔵庫の表面表示を確かめる。例に漏れず、こちらも点灯していない。


「レイ、冷蔵庫の扉、絶対開けないでね。フリーザーもよ。前に冷蔵庫が壊れたことがあるのだけど、開けさえしなければ冷気はすぐに漏れていかないから」


 こういうてきぱきとした対応は、カグヤが長女だったせいだろうか。レイはそんな風にぼんやり考えながら、取るべき行動を探る。


 カグヤはレイよりも幾分慌てた様子で邸宅のあちこちを確かめ、「玄関!」とエントランスに向かった。困った事態のはずなのに、カグヤのくるくると変わる表情が微笑ましくてレイは思わず仮面の下で苦笑してしまう。なんて可愛い人なんだろう。


 カグヤが心配したのは電子ロックだった。この家の玄関も外の門扉も電子錠なのだ。つまり。


「開かないわよねぇ……」


 カグヤは項垂れるが、それで諦めるほどモーリ家の嫡女はヤワではない。バスルームやリビングの窓を全て見て回り、唯一、キッチンのバックドアが手動で開錠できることを発見した。


「この家に住んで十年にはなるが、この勝手口が手動で開くとは知らなかった」


「レイ、私、靴を持って来るわ。またお家の中に戻れるよう、扉が完全に閉まらない何かを噛ませておいて、ご近所でネット通信をお借りして電力会社に連絡しましょう」


 電気がただ止まっただけではなさそうな不具合の様子と、これまで自分が一切近所付き合いなどしてこなかった過去がカグヤの提案に対してレイの気にかかる点だが、このままじっとしていても事態は打開されないだろう。


 カグヤが付近の住宅を訪ねてみようとして、居住区の異常な様子を二人はやっと認識する。車が突然止まってしまったらしく路上で右往左往する人、端末を手にどうにか電話をかけたがっている人、家に入れず困った様子で窓を破るか悩んでいる人。混乱状態だ。


「レイ、こういう停電は過去にも起こったことがあるの?」


「いいや。聞いたことがない。

 この様子では最寄りのストアの公衆無線LANスポットも機能していない可能性が高いな」


 その時、カグヤの耳が「誰か」と助けを呼ぶかすかな声を聞き付けた。


「レイ、こっち!」


 カグヤは走り出し、声の主の位置を探る。住宅沿いの歩道で車椅子が立ち往生していた。

 自律走行式の電動車椅子だ。


 カグヤが駆け寄ると、つばの広い帽子から白髪を覗かせた年配の老婦が「あぁすみません、どうも故障してしまったようで、通信機能どころか電源も入らなくて」と現状を訴える。


 レイが目をみはったのは、カグヤの振る舞いの変化に対してだ。つい先刻まで落ち着かない慌てた様子だったのに、一呼吸挟んだカグヤはさすがは貴族の血筋の息女としか形容できないような、柔和な笑顔を湛えていた。


「こんにちは、マダム。何もご心配要りませんわ。私達もこの近くに住んでおりますの。お住まいの位置を教えて頂けましたら喜んでお送りしますわ」


「まぁ、そんな恐れ入ります。電話さえお借りできましたら家の者に頼んで修理業者を呼びますのに」


「ごめんなさい。私達、ゆっくり外を歩きたい気分でしたのでそういう日はデバイスを持ち歩いていないんです。よいお天気ですから、ぜひご一緒させてください」


 電動車椅子をそのまま動かせないかカグヤはレイと試みたがあまりの重さに断念する。幸い車椅子は歩道の端を走行していた状態で停止したらしく、他の通行者の大きな妨げにはならなさそうだ。


 相談の結果、レイが老婦を抱き上げてお連れすることに決まった。

 レイは一瞬、自分の仮面姿がマダムを警戒させてしまうのではと心配したが、年配の彼女は「あら、あなたお洒落ねぇ」と好意的だった。一緒にいるカグヤが、老婦と打ち解けたおかげだろうとレイは思う。夜半の路上に今の風貌で誰かが突然現れたなら、通報されても致し方ないだろう。


 いわゆるお姫様抱っこでレイはマダムを横向きの姿勢にして抱え上げ、彼女の案内に従って居住区を歩く。カグヤとマダムの会話は弾んでいて、カグヤは最近月から引っ越して来たのだと話している。


「あらそうなの、いい季節に来たわね。火星の秋は格別よ。過ごしやすい気候だから」


「そうなんですか」


「えぇ、ドーム内なら総合公園の紅葉も見応えがあるし、この並木道だってそのうち綺麗に色付くわ。

 ドームの外に遠出するなら、ぜひ火星の夕焼けを見てちょうだい。月も火星も地球の映像がドーム内投影されているけれど、火星の夕焼けは本来は青いのよ。違う惑星に立っているんだって実感できるはずだわ」


 レイは歩きながら、必要な時に自動運転車で移動するばかりでこの辺りを歩いてみたことなどほとんどないことをふと思った。まして、ドームの外など。


 三人は、マダムの家に到着した。レイの自宅から三ブロック先で、そう遠くない。

 もちろんドアチャイムは鳴らず、ここにきて初めてカグヤは居住区でのネットワークや電気系統に起こったと思われる異変についてマダムに冷静に説明した。念のため一緒に玄関や窓を確認したがどのロックも開錠はできない。そこでマダムの許可を得て庭にお邪魔することになった。少々殺風景だが広い庭だ。


「車椅子が動かなくなったのはそういうことだったのね。せっかくならコーヒーでもお出ししたかったのに、こんな中途半端な庭にお通しして恥ずかしいわ」と、マダムは語りだした。


「涼しくなってきたらこの庭でガーデニングを楽しもうと土もレンガも一通り用意していたのよ。器具はまだ揃えていないけれどバーベキューの準備も。でも転んだ拍子に骨を折ってしまってね。

 今はすっかり治って痛みもないのよ、リハビリ中なの」


 庭いじりを始めようとした当時にガーデンテーブルセットも設置しておいたのが幸いしたわね、とマダムはその椅子の一脚にひとまず腰を落ち着けた。


「ご家族の方は今おられませんか?」


 カグヤは尋ねるが、マダムは首を振る。


「息子夫婦と暮らしているのだけど、この時間は仕事で出ていてね。夕方には戻るはずなのだけど」


 カグヤは頭上を見上げる。正確な時刻は分からないが、太陽の高さからして正午をすでに回っているだろう。いくら過ごしやすい季節とはいえ、このままマダムを放っては帰れない。


 そうか、お昼か、お腹すいたな、と考えかけたカグヤは、ふと庭に積まれたレンガに目を向けた。

 できるかもしれない、と思ったらカグヤの好奇心はむくむくと膨らんでしまう。

 マダムに相談して軒下に設置されている簡易物置の中の物を拝借するのと庭で火を使う許可を得て、レイと作戦を練る。

 結果、レイは自宅に必要なものを取りに戻り、カグヤはマダムの庭先での作業に取りかかった。


   §


 マダムのアドバイスで、カグヤはまず物置の中から軍手と火ばさみを借りた。消火器ボンベもガーデンテーブルの脇に置いておく。


 最初に取り掛かるのはレンガの運搬だ。今日の服装は華美なものではないが、ドレスの裾をたくし上げてしゃがみ、土台とする範囲にレンガを並べてから、その土台の上にもコの字型にレンガを積んでいく。最下段の奥まった壁側の二つのレンガを90度ずらした角度で積んだのは、空気の通り道のための隙間ができるようにわざとだ。


 物置からバーベキュー用の炭を借り、その中から小さめのサイズを選ぶ。またも空気の通り道を意識して隙間を作りながら炭の配置を組む。大きな炭は登場はもう少し後になってからだ。


「どうせ同じ値段なら、って耐火レンガにしておいてよかったわ。カグヤさん、かまど作りのご経験あるの?」


「いえ、前に興味があって調べたことがあっただけで実践は初めてです。

 あ、あの、初めてですが絶対に火事にはしないよう気を付けますので!」


 マダムはたまらないといった風に声を上げて笑い、「誰にだって初めてはあるものよ。カグヤさんのそんな素敵なタイミングに居合わせることができて嬉しいわ」と優しい眼差しを向ける。


 その時、レイがちょうど戻って来た。


「残念ながら自宅の復旧はまだだったよ。

 でもカグヤの言った通りだった。セクレトはちゃんと小麦粉を手配していたんだね」


「やっぱり、さすがセクレト。リカバリーしたら、お礼を言わなくっちゃ」


 カグヤがレイにお願いしたことの一つが、パントリーの中に小麦粉があるかどうかの確認だった。到着初日に交わした会話をセクレトは忘れずに、いつか使うはずと材料を調達していたのだ。


「それからボトルウォーターを。こちらはマダムの分です。水分の補給は大切ですからぜひ」


「ありがとう」


 レイは持って来たものをトートバッグから取り出していく。


「レイ、ほんとにありがとう。重たかったでしょう?」


「全然気にならないよ」


「じゃあちょっとお鍋を借りて、大きさを確認するわね」と、一旦軍手を外したカグヤはいそいそとアルミ鍋をレンガかまどのところへ持って行き、うまく乗るように調整を検討する。鍋をテーブルに戻して再び軍手をはめ、最終的に上から三番目のレンガの向きを横向きに変えて、鍋底を受ける凸部分を作ることにした。


 カグヤは組んだ炭の一番下の隙間に押し込んだ着火剤にロングライターで火を付け、その炎が組んだ炭に回るのを見守る。小さい炭が燃えだしたら、次は大きな炭の出番だ。今回も空気の通り道を意識しつつ、サイズの大きな炭をレンガかまどの内側に入れていく。こうなったら今のカグヤにできることはない。様子を見守りつつ少し待つ時間だ。


 一方のレイは、調理に必要と思われるものを机に並べ終えていた。

 ウェットティッシュ、ペーパータオル、アルミホイル、アルミ小鍋、鍋の蓋、ボウル、プラスチック製の皿、スプーン、ミネラルウォーター、小麦粉、スティックシュガー、食卓塩、ナッツのオイル漬け、レトルトカレーの袋。


「完璧! ありがとう、レイ!」


「あらあら、楽しみねぇ」


 マダムの声に、レイはその通りだと思った。自分だけではこんなことしようなんて考えもつかなかっただろうけれど、軍手を外したカグヤが手を拭いてワクワク準備する様子を見ていると自分まで嬉しくなってくる。


「まずはアルミホイルを鍋に敷きます。サイズを確かめてから余裕をもってカットして、一旦取り出すね。このアルミホイルを今度はボウルに敷いて、ナッツのオイル漬けの小瓶からオイルだけをスプーンですくって塗ります」


「カグヤさん、よかったら私もやるわよ」


 マダムがウェットティッシュで手を拭いて作業を引き継ぐ。


「わぁ、ではお願いしますマダム。たっぷり塗っちゃってください。続いて鍋でお湯を沸かします」


「ならば、そちらは私が引き受けよう」


 レイが新しいボトルを開封して、鍋に水を入れる。その間にカグヤは火の様子を確かめにレンガかまどに向かった。


「レイー! じゃあ一緒に火にかけましょう」


 呼ばれて鍋を持って歩こうとしたレイは、持ち歩くと鍋に入れた水の表面は意外と揺れるのだなと初めての発見をする。


「レイ、蓋! 蓋使って!」


 なんてことないやり取りがレイにとっては新鮮そのものだ。

 鍋を火にかけ、二人はガーデンテーブルに戻った。その睦まじい雰囲気に、マダムは何だか不思議だけど素敵なカップルだわとにっこりする。


「さて、お次は何をしたらいいかしら、カグヤさん」


「えっと、この小麦粉パックは二〇〇gだから全部ボウルに入れちゃいましょう。スティックシュガーは二本。塩は二つまみくらい」


 カグヤが材料を確かめ、マダムがくるくるとスプーンで全体を混ぜていく。


「ここに水を少しずつ入れていくんです。耳たぶくらいの硬さになるように混ぜながら。レイ、お願い」


「さっきからどうも私が水担当になっているが、これはちょっと失敗したら取り返しがつかないな」


 レイがあまりに困惑した声で言うので、マダムがまた笑って「あら、そんなことありませんよ、レイさん。取り返しのつかないことは人生においてゼロではないでしょうけど、あなたが心配するより実際はずっと少ないはずよ。この年になって、いろんな人の人生を見ていたらね、そう思うの」と水と粉を混ぜ合わせる。

 小麦の粒子にだんだん水分がゆきわたり、一旦はそぼろ状になってから少しずつまとまっていく。


「もう少しかしら、カグヤさん」


「そうですね。レイ、お願い」


 レイはペットボトルを傾け、糸のように垂らして水を注ぐ。仮面の下のレイがどんな顔をしているかは分からないけれど、引き結ばれた口元から彼の人の良さが伝わるとカグヤは思う。


 やがて生地はほどよい弾力を持ってまとまり始めた。頃合いを見て、カグヤが新しいスプーンとナッツのオイル漬けの瓶を手にする。


「じゃあナッツを足しますので、マダム、混ぜ込んでください」


「あら、いい感じねぇ」


 ここからの手順はこうだ。まず、完成した生地をアルミホイルごとボウルから取り出す。続いて、かまどで熱くなった湯を小鍋から空のボウルに移してレトルトのパックを浸しておく。小鍋の内側を火傷に気を付けてペーパータオルで軽く拭いたら、アルミホイルに乗った生地を今度は小鍋に乗せる。スプーンで表面を平たくならし、蓋をして炭火で焼く。


 レイとカグヤは、マダムと話に花を咲かせ、時折かまどの様子をチェックしては普段親しむことのない炭火の弾ける音をじっと聞いていた。何分経ったか正確には分からない。次第に香ばしいアロマが漂ってきた。カグヤは蓋を開け、生地の焼けた面をスプーンで少し持ち上げてみる。いい感じだ。一旦かまどから下ろし、レンガを並べた即席の鍋敷きの上で、スプーンを2本使って生地を裏返す。


「いい色!」


 思わずマダムのところへキツネ色の焼き色を見せに行く。再び蓋をして焼かれた平焼きパンは大成功だった。スプーンで扇型に三等分すると見た目は少し不恰好だが、各自の皿に温かいカレーを注いで添えるとなかなか様になった。


「身動き取れなかったのを助けてもらった上に、こんな素敵なランチをご馳走になってしまうなんてどうしましょう」


「いえいえ、マダムがお庭やいろんな物を貸してくださったおかげですわ。ねぇレイ?」


「その通りです。こんな素晴らしい体験は初めてだ」


 三人は感謝を述べ合い、空の下で舌鼓を打つ。素晴らしい時間だった。


 食事を終えた頃、「あのぉー、エヴァンスさーん」と少々距離のある位置から三人に声がかかった。


「もしもよろしければ、火を貸して頂けませんか?」


「あら奥様! ほんとこの一帯で難儀なことになってしまったみたいで」


 マダムの隣に住む女性が、向こうの庭から話しかけてきたのだった。エヴァンス、というのがマダムのファミリーネームらしい。


「カグヤさん、かまどを使って頂いてもよろしいかしら?」


「もちろん! ただコンパクトで簡素な造りなので、大きなサイズの物は置けないかもしれないのですが」


 マダムがその旨を説明した上でオーケーすると、女性はとても嬉しそうにバスケットにティータイムの準備を詰めてマダムの庭に現れた。マダムよりもう少し年若いだろうか、五〇代と思しき女性である。


「うちはたまたま玄関の掃除をしていた時にシステムが落ちたから出入りに不自由がないのはいいのだけど、オーブンも湯沸かし器も動かないでしょう? フリーズドライ食品を水で戻すものじゃないとつくづく思ったわ」


「そこに、うちの庭からカレーの匂いが届いたわけね」


「それにパンの香りもよ。エヴァンスさんもあなた方もサバイバルの達人かしらって驚いたわ!」


 隣家の夫人はカグヤにアドバイスを受けながらケトルを火にかけ、湯が沸くまでの間に皆さんどうぞとクッキーを広げた。


「ありがとうございます!」とカグヤはいち早くリアクションし、年配の女性達は「こんなに若いカップルとお話するなんて久しぶりだわ」「今年初めてね」と笑う。


「私も、火星でレイ以外の人とお話するのは今日が初めてです」


「あらそうなの!」


「彼女、火星に引っ越してきてまだ数日なんですって。こんなおばあちゃんが言うのも図々しいけれど、火星での初めてのお友達になれたなら嬉しいわ」


「そんな風におっしゃらないで。こうやってお話できて友達が二人も増えてとっても嬉しいです!」


 女性達のトークはノンストップで、レイはやや自分が場違いではないかと思い始めていたがカグヤの楽しそうな顔が見られるのは悪くない。


 後から合流した夫人が、友達になったからには名前をお伝えしておかなくてはね、と「ラワットです」とファミリーネームを名乗り、改めてマダムとカグヤ達も自己紹介することになった。


「私はカグヤと申します。

 思えばきちんとお名前をお伺いもせず、ずっとマダムと呼んでいて失礼しました。エヴァンスさん、ですよね?」


「あら、気になさらないで。それに私ニックネームで呼んでもらうのって好きよ。よかったら今後もそう呼んでちょうだい」


「私は、レイ=ガリエと申します。カグヤの夫です」


 レイが名乗った後、緩やかに流れていたその場の時間がまるで静止したように彼は錯覚した。マダムとラワット夫人はしばし瞬きを忘れて、その表情が固まってしまったのだ。


 沈黙を破ったのは、ラワット夫人の手から膝の上へぽとんとクッキーが落ちるかすかな音だった。


「えぇ! ガリエって、そんな! 辺境伯!?」


「ま、全く存じ上げずの御無礼をお許しくださいませ」


 二人の女性の慌てぶりにカグヤもレイもびっくりしてしまう。


「先代の辺境伯が、特別区ではなく一般居住区を終のお住まいにされたとは聞き及んでおりましたが」


「プライベートなことはあまり公になさらない方でしたから、ご子息のことも風の噂でしか」


 二人は驚きと共にそう話すが、別に言い訳めいた嫌な響きではない。単純に、尊敬を集める人物の息子であったレイにも敬意を払おうとしてくれているのだとカグヤは思う。


「この火星をより住みよい場所にして、他の惑星と連携を取りつつも独自の文化を尊重できているのは、先代辺境伯のお力添えあってのことだと思っています。

 お役目を引き継いでから私達の耳に大きな悪いニュースが入っていないのも、レイさんがお父様と同じく尽力なされているおかげでしょう」


 マダムの言葉は、レイの父を知らないカグヤの胸にも響く。油断すると涙が滲んでしまいそうだ。

 ケトルのホイッスルが鋭く鳴り、慌ててカグヤはかまどへ向かった。


   §


 紅茶とコーヒーを楽しみながらの談話をしばらく楽しんだ後、マダムは申し訳なさそうにラワット夫人に耳打ちする。

 ラワット夫人は何事かの申し出を快諾し、次にマダムはカグヤに小さな声で打ち明けた。

 そこから伝言ゲームの要領で、ラワット家のお手洗いのドア前までマダムを連れて行ってほしいことをカグヤがレイに伝える。レイももちろん快諾した。


 何かあった時のために火の番は必要だということで、カグヤはマダムの庭に残り、レイがまたマダムを抱き上げてラワット家に向かうことになった。


 三人の声が次第に遠くなる。さっきまで賑やかだったのが急にしんと静まり返り、カグヤは一人でガーデンテーブルについているのが何となく居心地悪くてかまどの前に移動した。


 赤々と静かに炭の中で燃える火。それはまるで、この赤い大地の火星の象徴のように思えた。


 カグヤは月しか知らなかった。突然火星との接点ができたことに縁談話が持ち上がってから戸惑う気持ちが心の奥底にずっとあったが、飛び込んで歯車が回り始めてしまえばこうやってひょんなことから友人もできるのだ。


 月では、貴族である家柄に気を遣ってくれる人は周りにいたけれど、家族ほど心を許せる友人はカグヤにはおらず、それがある意味彼女のコンプレックスでもあった。

 自分は、家族以外の他人を受け入れられるほどできた器ではないのだと。

 誰かに憧れる気持ちや、思いを告白されたこともありはしたけれど、特定の誰かを恋人に選べなかったことも、親友を作れなかったことと心理的な根本原因は同じだとカグヤは思っている。


 だから、縁談を受けたのだ。

 外的な要因がなければ自分にはもう自らの環境を変える力はないと思っていたから、カグヤは火星に嫁ぐことを受け入れた。資金援助の話も大きな理由ではあったけれど、この結婚はある意味彼女にとってエゴの結果だった。

 その罪悪感のようなものが、たった一度のランチタイムとティータイムで少し和らいだような気がする。


 婚礼の儀を果たした時よりも、一人で静かに炭火を眺めるこの瞬間に、カグヤはレイという優しい夫に出会えた運命に深く感謝を捧げた。


 目の前の炭の中で燃える炎の温かさは、きっと高祖母らの世代が暮らしの中で身近に見ていたものと近しいはずで、カグヤは自分が火星で生きていくことを改めて思った。


 ほどなくして、ラワット家から三人が戻って来た。

「カグヤさん!」とラワット夫人がまず呼びかけ、「家のシステムがね、戻ったのよ!」と嬉しそうに報告する。


「まぁ! よかった!」


「突然トイレの電気が点いて驚いちゃった」とレイに抱き上げられたマダムはおどけて見せ、「もう夕方なのね。思いがけないトラブルだったけれど、二人とこうしてお友達になれて幸運な午後だったわ」とウインクする。


「でしたら、電動車椅子が動くかどうかこのまま確認に行きましょうか」


 レイにそう尋ねられるまでマダムは車椅子のことをすっかり失念していたらしく「あぁ、ずっとお世話になりっぱなしで申し訳ないわ」としゅんとする。


 そこからは二手に分かれた。ラワット夫人とカグヤとでガーデンテーブル周りや炭火の消火などの片付けを進めていると、動作確認に向かったレイと車椅子に乗ったマダムが戻って来た。カグヤはすいすいと走る電動車椅子を見て復旧を喜ぶ。


「お帰りなさい、マダム!」


「ただいま! ちゃんと動いてくれたわ、あぁよかった」


 片付けは完了し、荷物を増やして悪いけれどとおみやげにクッキーを持たせてもらったレイとカグヤをラワット夫人とマダムが門まで見送る。


「いきなり合流させてもらって恐縮だったけれど、のんびりお湯が沸くのを待つのも楽しかったわ。今度は一緒にパンを焼きましょうね」


「私達もうお友達ですもの、またぜひお誘いするわ。庭でのバーベキューや家庭菜園が好きな友人もいるのよ、きっと楽しい時間になると思うの」


 二人は「楽しみにしています」とお礼と別れを告げ、居住区を並んで歩いた。長い距離ではないが、今の自分達が暮らす場所を改めて確かめるように歩を進める。


 レイの邸宅は長時間勝手口を施錠していない状態だったので不用心だったが特にトラブルはなく、セクレトは再起動によって普段通りに動き出した。


「セクレト! よかった!」


「レイ様、カグヤ様、申し訳ありません。強制シャットダウンの寸前、異変を察知はしたのですが抵抗できませんでした」


 セクレトの説明にレイは一瞬仮面の下で眉根を寄せた。ただの停電ではないはずと感じていたがゆえに辺境伯は視線を鋭くしたが、カグヤは当然それには気付かない。「いいえ、セクレトは何にも悪くないわ! この辺り一帯、あちこちが被害に遭っていたみたいだもの」と、彼女は秘書に寄り添う。


「それに、小麦粉のこともお礼言わなきゃ」


「小麦粉?」


「勝手に使ってしまったのだ、すまない。セクレトが購入しておいてくれたのだろう?」


「ありがとう。無断で本当にごめんなさいね」


 夫妻から小麦粉を活用した話の一部始終を聞き、セクレトは嬉しくなる。


「セクレトのおかげでおいしいバノックを作れたのよ」


 喜びの表情を液晶画面に映し出し、セクレトは同時に主人の変化を感じ取った。


「バノック? あのパンはそういう名前なのか」


「私もすっかり忘れてて、今不意に思い出したの」


「そうか、パンとはあんな風に作られるのだな」


「あっ、あれはすごくシンプルなパンで……いつもレイが食べてるふわふわした柔らかいパンはまた別の材料が──」


 セクレトは驚いていた。レイは食事が嫌いというわけではないが、これまで大して関心を寄せることもなく、セクレトが温めた栄養計算済みの既製メニューを黙々と食べるだけだった。それがどうしたことだろう。


 AIがレイの思考を分析しようとした矢先、インターネット接続が切断されていた間のニュースフィードをセクレトの頭脳は大量に受信した。レイの仕事と関連度の高いものから順にソートしようとして、思わずセクレトは声を上げた。


「あっ、最新ニュースで今日の居住区でのトラブルについて扱ってます!」


「あら、原因が分かったのかしら」


「読み上げてくれ、セクレト」


 セクレトが報告する。本日午後、数時間にわたって一般居住区の一部エリアにて送電が中断する不具合と通信障害が起こったこと。原因は施設の老朽化とみられ、現在詳細を調査中であること。病院施設などでは予備電源が機能し、手術や治療に影響はなかったこと。ニュースから得られる情報はそれが全てで、レイはセクレトに他の記事を探させたが見つからなかった。


 レイはどうにも腑に落ちない。ただの停電ではないはずだ。常時の給電やネットへの接続を必要としない家電やデバイスまでもが、一斉に不具合を起こしたのはなぜだ? あくまで速報段階であり詳報が追いついていないとしても、政府に対し様々な立場や見識のメディアが複数ある中でニュースバリューのありそうな内容なのに。


 公表されないなら、自らで調べるしかないらしい──。


 レイが黙ってしまったのがカグヤには気になるが、何と声をかけていいものか迷ってしまう。

 仕事のことだろうか。いや、レイの父親は火星を住みよい環境にするために尽力したということだから、レイも今日のインフラに関わるトラブルについて何か思うところがあるのかもしれない。


「夕食までまだ少しありますし、レイはお仕事されますか? 私、清掃ロボがちゃんとリカバリーできているか見てきてあげなくては」


 カグヤが明るく言うと、レイは「あぁ、そうだな。そうするとしよう」といつの間にか俯き加減だった顔を上げた。


「そうそう、頂いたクッキーがあるの。先にしまっておかないと湿っちゃうわね。セクレト、タッパーか何かお借りできる?」


「もちろんです!」


「あと、持ち出しちゃったボウルなんかも洗わなきゃいけないわね」


 カグヤとセクレトは楽しそうに話しながらキッチンへ向かう。

 レイは一人、二階へ続く螺旋階段を上がりながら、不穏な予感が現実にならないことを願っていた。

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