第2話 令嬢、火星に立つ
その日の午後、グレースはいつにも増して甲斐甲斐しく働き回っていた。
「カグヤ様、ナナ様。お茶の時間にいたしましょう!」
「女子会ですよ」と茶目っ気混じりのその気遣いだけで、何だかカグヤは泣きそうな気持ちになる。
「お姉ちゃん、荷造りとか大丈夫?」
「えぇ、もう入り用なものは全部シャトル便に出しているしね。最後の部屋の片付けもグレースが手伝ってくれたし」
ガリエ氏との話はとんとん拍子に進み、すでに親族の顔合わせを兼ねた身内の婚礼儀は済んでいる。明日、ついにカグヤは月を発つのだ。
ダイニングではなく、庭先のテラスにグレースはお茶の席を用意した。テーブルに並ぶのはクッキーやマドレーヌと、カップ&ソーサー、ティーポット。今日は手軽な希釈シロップの紅茶ベースではなく、茶葉をわざわざ蒸らして準備する。
支度を先に始めているグレースの元にカグヤとナナが合流し、テーブルにフォトスタンドが二つ飾ってあることに気付いた。
「ママ……!」と感極まった妹の声に、カグヤも思わずつられて涙を浮かべてしまう。
「若奥様も、大奥様もご一緒して頂こうと思いまして。女子会ですから、ね」
笑顔の母と祖母の写真を前にして、カグヤは感謝の気持ちでいっぱいになった。こうやって愛された思い出を胸に、自分はこの家を出て嫁いでいくのだ。なんと幸せなことなんだろう。
鮮やかな赤い
慌ただしい日々が続いていたから、こんな風にゆっくり過ごすティータイムは久しぶりだった。
「婚礼儀のカグヤ様、本当にお綺麗でございました。夢中になって写真を撮ってしまい、端末のあの日のカメラロールがドレス姿のお嬢様で埋まっておりますもの」
「それは私もよ、グレース。お姉ちゃん、式場の下見にもほとんど時間かけずに帰ってきたでしょう? ひょっとして婚礼ドレスを着ないつもりかしらなんて思ったくらいだったけれど、マーメイドラインとっても似合ってた!」
お茶菓子や子供の頃の思い出についても話は広がるが、やはり興味と共に頻繁に話題に上がるのはガリエ氏についてだ。
「ねぇお姉ちゃん、レイさんって式場の支度室でも、あのマスク姿のままだったの?」
「うん、そうね。私が到着した時には、もう新郎側の準備は全部終わっていたから」
「ひょっとして……妻となられるカグヤ様にも、まだ素顔をお見せになっておられないのですか?」
グレースがぐいと距離を詰めて尋ね、カグヤは「ええ、まぁ」と勢いに押されながら肯定する。
「えーっ、それでいいの!? お姉ちゃん!」
妹のナナの声は、後半、真剣みを帯びていた。ずっと言ってはいけないと思っていた気持ちを押し殺していたのがここにきて溢れ出してしまったかのようで、ナナは小さく「ごめんなさい」と詫びるとそのままぽろぽろ涙を零してしまった。
「私、お姉ちゃんがいなくなるのが本当に信じられなくて寂しいの。それにパパと何度か話し合ってるのも聞こえちゃった。お金のこととか、会社の出資の話とか。式の時、向こうの親戚がゼロなのも気になったし。
お姉ちゃんが幸せになれない結婚なんて、私、認めたくない……」
「ナナ」
カグヤは紙ナプキンを妹に差し出し、優しく頭を撫でて慰めた。
「私は幸せよ。モーリ家に生まれて、こうしてナナと一緒に大きくなって、幼い頃からグレースに見守ってもらって。
だから大丈夫。これからの私は、誰かに幸せにしてもらうんじゃなく、環境が変わるならその中で幸せになれるように生きていくの。
ナナもそうでしょう? ブライアンに対して、私が幸せにしてあげるからついて来なさーいってくらいの気持ちでいなきゃ、ね」
途中から冗談めかした響きになって、カグヤの言葉にナナもグレースも吹き出す。カグヤは微笑んで妹に語りかけた。
「だから大丈夫。ガリエ氏とは何回か会ったけれど、紳士的な人よ。天涯孤独という彼の境遇に同情する気持ちもあるかもしれない。でも、ガリエ氏が私を選んだというならそれに応えたいと思っているわ」
グレースが「何かあればいつだって、実家に帰らせて頂きますと申し出てくださいませ。精一杯、お力になります」とカグヤの手を取った。
「ありがとう」
不安な気持ちがないではない。だが、カグヤは自分が新天地への希望を抱けるのは、これまでの家族からの優しさあってのことだとつくづく感じたのだった。
§
月から火星へ向かうループホールシャトルの中は快適だった。超光速理論と宇宙膨張物理は何度も新しい知見の発見がなされ、技術は高まり続けている。現在、月と火星の間は平均約二時間で結ばれており、一日に三便が出航している。
カグヤは間もなく到着とのアナウンスを聞きながら、アイマスクと首周りのクッションを手荷物の中に片付け始めた。
月上では家族であちこち出かけたことのあるカグヤだが、星間移動は初めてだ。テーマパークのアトラクション搭乗のようにワクワクしたフライトだが、うたた寝していたらあっという間で少しもったいなかったなと思う。
到着ロビーでカグヤを出迎えたのは、花束をセッティングしたビークルカートだった。
「カグヤ=ガリエ様! こちらです、どうぞご乗車ください」
名前を呼ばれたカグヤはきょろきょろと周りを見回すがそれらしい人影はない。
「あっ、すみません! ワタクシはサポートAIでして、今はこのカートに搭載状態であります。我が
「あっ、そういうことですか!」
すぐに事態を飲み込めなかったカグヤはサポートAIに詫びてカートに乗り込んだ。お荷物のお預けはありませんか、お手洗いのご用命はありませんか、と中性的な合成音声でAIが確認してから、空港内をカートはすいすいと移動していく。
「驚かせてしまってすみません、カグヤ様」
「いいえ、こちらこそすぐにピンとこなくてごめんなさいね」
「月からお越しになったなら無理もありません。月は地球からの移民も多くて働き口を必要とする人数が多いですが、ここ、火星は人口が少ないですからね。AIの活躍の場が必然増えるわけです。
申し遅れました、ワタクシ、レイ様の秘書とハウスキーピングを務めておりますセクレトと申します」
「カグヤです。よろしくお願いします」
カートは空港の外に通じるエントランスに辿り着き、セクレトは「では車を回して参りますのでしばらくお待ちください」とカグヤを降ろしてからカート置き場に入って一旦シャットダウンする。間もなく、エントランス前のアプローチに銀色に輝くオートカーが滑り込んで来た。
「どうぞ、カグヤ様」
自動運転車のドアが開き、中はやはり無人だったけれどセクレトが迎える声がする。カグヤが乗車すると、車は滑らかに動き出した。
「カグヤ様は火星にお越しになるのは初めてだとか」
「ええ、そうなの」
車は幹線道路に合流し、居住区方向に進んで行く。
「ようこそおいでくださいました。
火星の大きさは月のおよそ二倍ですが、人口はまだ三分の一程度です。大気保持ドームも月ほどのサイズはありません。コンパクトシティではありますが、快適に暮らして頂けるよう努めますので何なりご相談くださいね」
セクレトの音声は、モーリ家メイドのグレースの気遣いを思わせて、カグヤは何だかじんと胸が温かくなる。私、火星でやっていけそう。
セクレトがコンパクトシティと表現した通り、ナビ画面が示す周辺図には空港を中心に政府の議事堂や中央病院、商業施設、文化施設が集まっている。そこから二十分ほどで、車はガリエ邸に到着した。
「奥様、どうぞ」
セクレトが促して、その呼ばれ方にカグヤはどきりとする。そうだ、自分はもう嫁入りした身なのだ。
花束を抱えて、車を降りたカグヤはガリエ邸の前に立つ。モーリ家の住宅デザインは地球時代の貴族の邸宅のディテールを意識していたが、ガリエ邸をはじめ、この周辺は何ともシンプルで機能的な見た目の建物が多いようだ。グレーを基調とした横長の長方形体と表現するのが、カグヤの受けた印象にぴったりくる。
セクレトは邸宅そのものと連動しているようで、車をガレージに納めながら同時に電子ロックが開錠されて門扉が開き、ドアのあたりから「こちらです」とカグヤを呼ぶ声がした。
「レイ様! 奥様のご到着です!」
カグヤが玄関に入り扉が閉まると、屋敷内にセクレトの声が響く。心なしか、秘書の声は嬉しそうだ。
玄関は広く、左手に床から高い位置までの鏡がはめ込んである。右側にはウォークインタイプのシューズクロークが見えた。正面は一段上がって玄関フロアと区切られており、さらにその奥に緩やかな螺旋の階段がある。
足音がして、その階段を降りて来る者の存在をカグヤは感じ取った。火星の辺境伯、レイ=ガリエ。彼は袖周りに余裕のあるデザインのローブを纏い、やはりハーフマスクを着用している。カグヤのもとへやって来る。
最初に何と挨拶しようかしらと考えていたはずなのに、カグヤは言葉を見失ってしまった。わずかな緊張とやはり素顔を見せてはくれないという小さな失望のせいだ。
「あの……」
「ようこそ」
歓待の挨拶は一言だが、深い慈愛に満ちた響きだった。
カグヤはそれだけで今さらながらに伴侶を得た事実が突然恥ずかしくなり、花束を抱きしめそうになってしまう。
声が少し震えながらも「よろしくお願いします」と告げると、「長旅で疲れたろう。こっちがリビングだ。セクレト、花を生けておくれ」とガリエ氏がカグヤを先導する形で案内する。
リビングは外観よりももう少し暖かみのある配色だった。とても一人暮らしとは思えない。ベージュとブラウンをベースにした空間には、ふわふわのラグと広いソファ、ガラス製のローテーブルが配され、並んだ棚には本が並んでいる。ロールスクリーン式のカーテンのついた窓の向こうには庭の芝生が見えた。
「カグヤ様」
空港からずっと聞いていた声がしてカグヤが振り返ると、そこには愛嬌のある表情を液晶画面で浮かべるハウスキーパーロボットが立っていた。白いベース素体は、最近の流行りのような極力人に近付けたビジュアルではないが、そのシンプルさが中性的なセクレトの音声にぴったりだとカグヤは思う。
「お花を生けて参ります」
花束を受け取ろうと手を差し出すセクレトに、「よかったら私もお手伝いしていいかしら」とカグヤが尋ねる。セクレトがちらりとガリエ氏の様子を伺うと「もちろん」と彼は頷いた。
「水回りや道具のことなど、分からないことは何でもセクレトに聞いてくれ」
「ありがとうございます。では少し席を外しますね」
秘書と妻がリビングを出て一人になり、レイ=ガリエは自分が肩の力を抜いたことに気が付いた。自分もいっぱしに、花嫁の存在に浮き足立っているらしい。
彼女を幸せにしたい。悔いるような過去はもう繰り返すものか。
仮面の内側で、彼は多幸感と使命感の只中にいた。
§
ダイニングはリビングからL字に曲がった先にあり、セクレトがてきぱきと夕食の段取りを調えた。
必要なカロリーと栄養素を満たしたミールキットのほか、歓迎の意味でシャンパンとケーキが用意されている。陶器や銀食器を使うのが当たり前の日常だったから、ミールキットそのままのプラスチック容器や容器に備え付けのプラスチック食器にカグヤは少しギャップを感じたけれど、その合理性にはなるほどと思った。
ステンレス製のフォークやスプーンも、色は少し鈍く黒っぽいが使い勝手が悪いわけではない。
乾杯して食事を進め、「苦手な食材はないかい?」とガリエ氏はカグヤを気遣った。
「大丈夫です、私好き嫌い全然なくて」
「いいことだ。私はどうにもミドリムシタブレットがダメでね」
「あら、サプリメントの類を含めるなら、私は完全食ドリンクが苦手ですわ。あっという間にするする飲んでしまって満腹感も食べ応えもないのに、いつまでも胃が膨らんだ感じがしてお腹がすかないのが慣れなくて」
「カグヤ様、ドリンクの粉末をパンケーキにアレンジしたものがネットの検索結果では好評なようですよ」
「おいしそう! クリームやフルーツのコンポートを添えたくなりますわね」
「その場合はワタクシが小麦粉を用意しておいて、摂取栄養とカロリーの再計算を致しましょう」
「ふふ、お願いするわね」
食卓は終始和やかな明るい雰囲気で、自分がガリエ邸にやって来るまでとは一変していることをカグヤは知らない。
§
時刻は間もなく午後九時となる。
火星の一日は、地球と近い二十四時間三〇分だ。月と違って人工太陽の設備はないので、火星独自の暦を採用している。
火星の一年は六八七日あり、政府や学校などの公的機関は地球暦を基準に年間スケジュールが組まれるため、休日の増減などによって細かい調整がなされている。
ちなみに、現在火星の北半球は秋を迎えていた。同じ季節が五ヶ月弱続くのだ。
食事を終え、自室に案内されて多少荷解きし、シャワーを済ませたところでカグヤは狼狽えていた。
今夜、その、夫婦というからには、同じ寝室に入るのだろうかと。手を取り合って唇を重ねて婚礼の儀を果たしたものの、二人はまだ恋人として触れ合ったことはないのだ。
期待もあった。ガリエ氏の仮面だ。
さしもの彼も、就寝時にはきっとあの仮面を外して素顔で休むだろう。カグヤはそちらの方が、実際気になっていた。
ガリエ氏の部屋をノックする。「どうぞ」と返事があって、カグヤは扉を開いた。
仕事部屋らしく、執務机の上にデスクトップモニターと空中結像タイプのディスプレイがある。ガリエ氏の仕事を中断する際の習慣なのだろう、画面ロックを済ませてあった。
「今日は疲れただろう。自分の部屋でゆっくり休むといい」
「ありがとうございます」
カグヤが何も言わない内にそう勧められてしまっては、彼女からは切り出しにくい話題だった。
「おやすみなさい、ガリエさん」
「よい夜を」
ガリエ氏は、カグヤが仮面を気にしていることは分かっていたが、これは重要で、そう簡単に割り切れない問題だった。せめて自分がカグヤを大切に思う気持ちが伝わればと言葉を継ぐ。
「私の名前を、その」
ドアを閉じかけたカグヤが、「え?」とガリエ氏に視線を戻す。
「レイ、と呼んでほしい」
まただ、とカグヤは思う。
彼の言葉の一つひとつに、こんなにも感情が込められていて、それだけで何かが伝わってしまう。このガリエ邸に到着して出迎えられた時もそうだった。夫婦になるとはこういうことなのだろうか。
「分かったわ。おやすみなさい、レイ。
あまり遅くまで頑張りすぎないでね」
ドアが閉まる。
レイはこうして、かけがえのない生涯の伴侶・カグヤ=ガリエを得たのだった。
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