カグヤが月から嫁ぎます!〜Fly Me to the Mars〜

湧あさね

第1話 令嬢、縁談に戸惑う

「わぁ、いい匂い! これ、お姉ちゃんのハーブでしょ?」


 ふわふわとした柔らかい金髪を揺らして妹のナナが笑い、つられて長い黒髪のカグヤもにっこりした。普段使いで質素ではあるが、センスがよく優雅なフォルムのドレスは姉妹お揃いで二人のお気に入りだ。


「そうよ、バジルってハーブ。ちょうどグレースがキッチンでパックからピザを出すところだったから」


「マルゲリータね! 私大好き!」


 モーリ家に残った最後のメイドであるエプロン姿のグレースが夕食のための食卓の準備を調えながら、仲の良い姉妹の日常に優しい眼差しを向ける。


 モーリ家のダイニングは十人掛けのテーブルがゆうに収まり、丁寧に作られた食器棚などの調度品が置かれてなお余裕がある広さだったけれど、いつも食卓につくのは三人だ。父であるケイン・デイビッド・モーリと、妹のナナ・エイミー・モーリ、そして姉のカグヤ・ルイス・モーリ。


 姉妹の母──エマ・ローズ・モーリが亡くなってもう二年になる。快活で優しい母が不在となり、遺品を整理して最初は火が消えたように静かになったモーリ家だが、最初に笑顔を取り戻さねばと奮起したのがカグヤだった。


 カグヤは母がそうしたように、シェルター型邸宅の窓際にプランターを置いてハーブを育て始めた。月の一日は約六五五時間だから普通に栽培すれば地球由来の植物はまともに育ちはしないだろうが、カグヤ達が暮らす居住区では人工太陽が稼働して加圧装置が地球とよく似た環境を再現している。ハーブはすくすく育ち、カグヤとナナは母親を懐かしむことができた。


 小さなプランターはカグヤの父が事業として行っている月上農園に比べればもちろん規模はごく小さいけれど、カグヤにとっては大事な拠り所だ。父が宇宙貴族という立場の自負からか学校卒業後の娘に腰掛けの仕事などしなくていいと主張し、現在二十四歳のカグヤはその意向を尊重して家にいるので、何かしら家の中で自分にできることを見つけるのは彼女にとって重要だった。


「オリーブとバジルのいい香りがするね。今日はイタリアンかい?」


 父・ケインがダイニングにやって来てそう言うので、ナナが吹き出す。


「私もさっき似たようなことを言ったのよ、パパ」


「いつも通りのミールですが、カグヤ様のハーブのおかげで良い仕上がりになっております、ご主人様」


 使用人であるグレースはモーリ家に勤めて十五年以上になる。穏やかで堅実な、茶色の髪を低めのアップにまとめた四十代の女性だ。ケインはグレース以外の使用人には退職金を弾んで暇を出した。それは、少しずつ業績の傾きだした事業の結果に他ならない。


「カグヤ、夕食の後、少し話がある」


 父のこの言葉も、全ては事業経営の悪化に端を発していた。


   §


「縁談、ですか」


 書斎で父から「お前に縁談の話がきている」と聞いて、カグヤはおうむ返しにそうつぶやいた。

 何となく、モーリ家の羽振りが衰えてきたことと無関係な話ではないなと察する。


「もちろん、無理にとは言わない。ただ、仲介してくれた叔父貴の面目もあるから、カグヤがよければ最初の挨拶だけでも同席できればとは考えていてな」


 カグヤは、月に暮らす第三世代や第四世代と呼ばれる立場である。当時、環境変化が著しい地球から宇宙へまず飛び出し、他の星に移住できたのは富裕層だ。

 新天地への移住を果たした恵まれた人々を庶民は宇宙貴族とネーミングし、そこには羨望や妬みの感情が渦巻いていた。移住を果たした者達は住環境や新事業に投資し、世代を重ねるごとに繁栄する一族もあれば、稼業が傾いて次第に衰える家系もあるというのが現状で、モーリ家は現在後者にカテゴライズされつつあった。


「お父様のおっしゃること、モーリ家の長女として理解しているつもりですわ」


 カグヤの声音には、嫌味も諦めも含まれてはいなかった。ただただ、父を思い、寄り添う娘の強さがカグヤの黄褐色の瞳に漲っている。

 父であるケインはその様子に、ほっと肩の力が抜けたようだった。


「カグヤ、やっぱりお前はエマにも母にも似ているね」


「まぁ、お母様と、おばあ様に?」


「そんなに嬉しいのかい?」


「もちろん!」


 カグヤは母も祖母も大好きだった。もともと母親のエマがハーブを育てるようになったのも、エマと祖母の仲が良いがゆえの影響だ。


 祖母の祖母──高祖母の思い出話を聞くのもカグヤのお気に入りの時間だった。高祖母はまだ地球に暮らしていて、当時の地球の住宅には全自動の清掃消毒システムや衣服の洗濯乾燥収納機能は備わっておらず、完全栄養食で作られ温めるだけで食べられるミールセットも存在しなかったらしい。

 水を汲む労働が子供の役割だったという信じがたい時代だ。だが誰もがお互いを必要とし合い、食べるものを生産し、かまどを用意して自分好みに調理し、着るものを縫うDIYと呼ばれる生活を祖母は楽しそうに語ったし、カグヤも高祖母の世代の苦労を偲びつつ憧れた。そういう血筋なのだろう。だからこそ、モーリ家の家業も月上農園なのだ。


「私達の先祖が宇宙飛行士だった話は知っているね? とても好奇心豊かな人だったそうだよ、きっとカグヤはご先祖様にも似ているんだろうね」


「そうかもしれません」とカグヤは笑う。


「ねぇ、お父様。私の知る月のドーム内は、暮らしやすくて温暖で何の不自由もない場所です。でも開拓や整備が進む前は、昼夜の温度差が200度以上もあって、放射線量も高くて、酸素も薄くて、過酷な環境だったと学校で学びました」


 親馬鹿ながら、娘がちゃんと教育で得た学識を自分のものにしていることをケインは誇らしく思う。なぁ、エマ。私達の娘は、宇宙貴族の名にふさわしく、聡明で優しく美しい。縁談が来て当然だとも。だからこそ、事業経営の傾きにつけ込んでこちらの足元を見るような話は即座に断ってやりたいのに。


「未知の世界に飛び込んで次世代のために未来を拓いたご先祖様に、私は敬意を払いますわ」


 カグヤの眼差しは真剣だ。

 娘が何を言わんとしているのか、父親はすぐに理解した。カグヤは、この縁談にモーリ家の窮状が関わっていることにすでに気付いている。


「先方から具体的にどんなお話が来ているのか聞かせてくださいませ。もしもお父様が渋るなら、直接叔父様にお尋ねします」


 ケインは迷った。だが、カグヤは急かしはしなかった。

 親子はたっぷり時間をかけて、沈黙の内に互いを思う気持ちを確かめる。ようやく父が、手元のデバイスに写真を表示させてカグヤに差し出した。


「一目でお前を気に入ったと聞いている。これが彼の写真だよ。レイ=ガリエ氏。辺境伯の称号をお持ちだそうだ」


 そもそも縁談を進める前提で始まった話ではないらしく、ガリエ氏の映る画像データはいかにもなプロフィール写真ではなかった。


「この人?」


「そう。彼は結婚相手を探す目的で月に来ていたわけではないらしい。これは、叔父貴の取引先との記念パーティーでの写真だそうだ」


 背が高そうな人、というのは分かる。

 だがガリエ氏がどんな人なのか、写真を見てもカグヤには全くピンとこない。というのも、パーティーの趣向なのか、彼はスーツの上に大きめのコートを羽織っていて、その顔には両眼の周りをメインに額まで覆うハーフマスクがあったからだ。白い仮面の周囲を飾り紐が囲んでいるシンプルな装飾で、いわゆるヴェネツィアンマスクの形状だ。明るめの栗色の髪。長髪というほど長くはなく、短髪と呼べるほど短く刈り上げているわけでもない。ストレートではなく、少しウェーブがかっている。


 何とも言えない表情のカグヤに向けて、父は説明を続けた。


「酔った叔父貴はいつも家族自慢を始めるだろう? 前に年越しで皆で集まった時の写真を見せて、それでたまたまガリエ氏がカグヤを見初めることになったそうだ」


 叔父貴は悪い人ではない。今回だって、せっかくの縁だからと、あの、人の良い笑顔で紹介を引き受けたのだろう。多少酒が入って気が大きくなっていたのかもしれないが。


 父は言うべきことを全て伝え終えたという雰囲気で「急にこんな話が降って湧いて驚かせてしまったね」と苦笑するが、カグヤは一歩も引かなかった。「それから?」と父に問う。


「それから、とは?」


「先方からのお話は、それで全部ではありませんよね?」


 やはり誤魔化せはしなかったか、とケインは小さくため息をつく。少しの躊躇の後、父親は打ち明けた。


「縁談が進むなら、結納金を兼ねてとのことでガリエ氏から農園への事業出資の用意があるそうだ」


 ガリエ氏とは何者なのだろう、とカグヤは思う。

 結婚支度金を新郎側が用立てるのは貴族社会では珍しくない話だが、あまりに露骨だ。まして、一目惚れでまだ会ったこともない女性への対応とは思えない。


「その話をお受けしたなら、農園を縮小したり手放したりする心配はないのですよね?」


 一番の関心事に、まずカグヤは言及する。


「援助を目的とした結婚を、娘に強いるつもりはない!」


 ケインの語気は、本人が思った以上に強く出てしまったらしく、父親は取り繕うように咳払いをした。

 カグヤは父親への親愛ゆえに苦笑する。こういう優しさが父の魅力であり、経営者としての脇の甘さでもあるのだ。


「私は現在のモーリ家の嫡子ですわ。きちんと家のことを把握しておく立場のはず。これまでがお父様に甘えすぎていたのです。教えてくださいませ」


 カグヤの言葉は半分事実で半分嘘だ。外に働きに出ず家にいるカグヤは、会社の経営内容の多くを把握していたし、その窮状も理解していた。


「今のままでも、農園を手放す必要などはないよ」


 経営の苦しさを、根が素直なケインは隠せない。規模を縮小する必要は出てくるのだろう。そうでなければ、モーリ家の使用人を減らした理由が見つからない。


「だからカグヤ、そう深く考えずに挨拶だけ同席してくれないか。きちんと機会を設けてからお断りするなら、失礼には当たらないと……」


「せっかくの挨拶の場なら、ブライアンにも同席してもらうのはどうかしら?」


 ブライアンは、ナナの恋人だ。

 今、カグヤに特定の相手はいないけれど、ナナは幼少の頃から恋に憧れを抱くませた少女で、誠実なブライアンと巡り合ってくれたことをカグヤは心底喜んでいる。それはケインにとっても同様だ。


「ブライアンに?」


「そう。私、前から考えていたの。ブライアンは今時マジメなタイプだし、多分学校を卒業するか実家の会社に勤めるかしたらきっとナナにプロポーズするわ。

 彼にはお兄さんがお二人おられるでしょう? ブライアンをモーリ家に迎えてお父様を補佐してもらって、いずれ家督を継いでもらうのは、かなり現実的だと思うの。家族でご挨拶するなら、娘の彼氏がいたっておかしくないし」


「そんな……カグヤに縁談がきたのも急な話なのに、娘二人の結婚を一足飛びにそこまで考えられないよ」


 ケインの言葉はもっともだ。だが、こうやって二人で青写真を描くことで、モーリ家の財政をこれ以上傾けては姉妹どちらにも苦労をかけてしまう可能性を父は考えざるを得なくなる。

 続くカグヤの言葉はダメ押しだった。


「それに私、興味がありますわ。一目惚れをして、こんな風に積極的にアプローチしてくる殿方がどんな人なのか」


「こちらの経営不振に付け込むような男かもしれないんだぞ」


「そんなこと、会ってみなくては分かりませんわ。悪い方に取らずとも、先方からすれば一族で経営する会社のある家の嫡女との結婚でしょう? その人材の穴を埋めるべく、ある程度の金額を結納で用意しようとするのはそこまで不自然な話でもないように思えます」


 自分でもやや詭弁だとカグヤは思う。だが、真っ直ぐで頑固なところのある娘の気性を、ケインはよく理解していた。しばらく苦虫を噛み潰したような顔をしていたが、やがて頷く。


「分かった。日取りの約束を取り付けよう」


「ありがとう、お父様」


 微笑んでから、カグヤは「ではそろそろ休みます」と書斎を出る。


「おやすみ、カグヤ」


「おやすみなさい」と返事をしながら、はたとカグヤは気が付いた。

 写真を見せてもらった時、父の言葉の中で引っかかった表現があったのだ。


「そういえばお父様、ガリエ氏は月にお住まいではないのですか? 月に来ていた、とおっしゃったような……」


「あぁ、そこを説明していなかったね。彼は火星の出身だそうだ。火星の辺境伯の称号を二十代前半で得るのは非常に珍しいそうだよ」


 火星。

 思ってもみなかった言葉に、カグヤは驚く。

 その驚きをうまく受け止められないまま、「きっと優秀な方ですのね。ではおやすみなさい」と再びカグヤは繰り返してドアを閉めた。


 廊下を歩きながら、カグヤは赤い星に思いを馳せる。

 地球暦の単位でおよそ一ヶ月に一度接近する月と火星だが、カグヤは月を出たことがない。

 それどころか、街が建設されて学校や自宅のある居住区は大気を保持するためのドームに覆われているので、カグヤが見ている空の星々や火星の様子はプロジェクターで照射された映像であり、火星を肉眼で見たことすらないのだ。


 あの赤い星に、自分は嫁ぐのだろうか。いや、それが最善であると判断できたなら、迷う理由は何もない。

 自室に戻ったカグヤは、ベッドに入って母と祖母を思った。母はどんな気持ちで父と結婚したのだろう。祖母はどうして祖父を添い遂げる人に選んだのだろう。もっと、ちゃんと、聞いておけばよかった。


 目を閉じて浮かぶのは、写真の中の不思議な仮面の男だ。レイ=ガリエ。彼は一体どんな人なのだろう。

 赤い星を思い描きながら、カグヤは目を閉じて眠りに就いた。

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