第5話 海

 来なくていいといわれても、行かないわけには……。

 心配なのは、隆紀も同じだ。


 家を飛び出して通りにでると、麻美は寛治の家のほうへ走っていく。

 隆紀は麻美とは反対の、詰所のほうへ探しにでた。


 詰所にも医療所にも、周辺の道場にもいない。

 茂みを覗いても、隠れている様子もない。

 隆紀は砦まできた。


 周辺を見て回っても姿はない。

 さっき麻美に言われた言葉が、何度も頭をめぐる。


『たった今! 包丁を握りしめて! 左手を切ろうとしてた!』


『ねえ! そんなに麻乃のことが嫌なの?』


『よくもそれだけ追い詰めてくれたものね! 自分の子だっていうのに!』


 そんなつもりじゃあなかった。

 追い詰めようなんて考えてもいなかったのに。

 刺すように胸が痛むのは、走り回ったせいじゃあない。


「どこにいったんだよ……」


 麻美は見つけたんだろうか?

 日が落ちてあたりが薄暗くなっていく。

 見つからないまま、夜を迎えるわけにはいかない。


 銀杏の木に登り、周辺をぐるりとみる。

 入り江の端に、小さいなにかが動いている。

 隆紀は枝を飛び降り、その勢いのまま岩場も飛び降りた。


 高さがあったせいで、足がじんじんと痛む。

 砂に埋もれて思うように進めないながらも必死に走った。


 海に向かって歩いていく麻乃は、引く波に足を取られたのか、尻もちをついた。

 寄せる波を頭からかぶり、引く波に吸いこまれるように一度姿を消し、大きく寄せる波に今度は吐き出されるようにして砂浜へと転げ出てきた。


「――麻乃!」


 次の波が来る前に、急いで抱き上げて波打ち際を離れる。

 水を飲んだのか大きくむせているけれど、無事であったことにホッとして体じゅうの力が抜けた。

 砂浜に崩れるように腰を落とし、胡坐をかいた足に麻乃を乗せて頭を撫でた。


「なにしてるんだよ……溺れたりしたら……死んじゃうんだぞ」


 口をへの字に曲げた麻乃は消え入りそうな声でつぶやく。


「……ないないするの」


 隆紀はその言葉に愕然とした。

 麻乃はきっとわかっている。

 なぜ、隆紀と麻美が口論ばかりしているのかを。


『これ以上、ここにいたら……麻乃は死んでしまうかもしれないじゃない!』


 麻美のいう通りだ。

 利き手のことも、イツキはゆっくり矯正してやればいいと言っていたじゃあないか。

 自分の中の不安を紛らわせるために、ただ麻乃を追い詰めていただけだった。


「ごめん……ごめんな……」


 謝って許されることじゃあない。

 幼い心にどれだけ傷をのこしてしまったのだろうか。

 それでも隆紀には謝ることしかできない。

 麻乃の小さな手が隆紀の額に触れた。


「ばいばいするの。えーんしないで」


 ハッとして麻乃をみた。

 麻乃がいなければ隆紀は泣かないと思っているのか。

 そんなわけがないのに。

 ギュッと麻乃を抱きしめた。


「ばいばいなんかしない! 麻乃はお父さんとお母さんの子なんだから、ずっと一緒にいてくれないと駄目だ!」


 家族ができたら大切に、幸せにしたいと思っていたのに。

 こんなことを思わせるような父親になるつもりはなかった。


「お父さん、麻乃のこともお母さんのことも大事だから……愛しているから……だから、どこにも行っちゃ駄目だ」


 麻乃は大声をあげて泣き出した。

 麻美は離婚だといった。

 やり直すことはできるだろうか?

 もう一度、ちゃんと夫としても親としても、二人の信頼を取り戻せるだろうか?


 いつの間にか辺りは真っ暗で、波音と麻乃の鳴き声が重なって響いている。

 麻乃を抱きしめたまま、涙も止まらず立ちあがることもできないでいた。


「いつまでも濡れたままで海風にあたってたら、麻乃も隆紀も風邪ひくわよ」


 後ろから麻美に声をかけられ、背中に置かれた手に立つのを促された。

 嗚咽でしゃくりあげている麻乃を抱えたまま立ちあがる。

 堤防には房枝も待っていて、家に戻ると房枝が麻乃を風呂へ入れて着替えをさせ、寝かしつけてくれた。


 隆紀もそのあとに続き着替えを済ませると、麻乃の部屋をのぞく。

 きっと疲れもあったんだろう、ぐっすりと眠っている姿にまた涙がにじんだ。

 居間に入るとテーブルには麻美が待っていて、房枝は温かいお茶を入れてくれている。


「……座ったらどう?」


「あ……うん……」


 麻美の表情はキツイ。

 今後のことはあとで話そうといっていた。

 麻乃も眠った今が、そのときだろうか。


「――で?」


「えっ――?」


「さっき、ちゃんと話す、って言ったわよね? 一体なんだっていうのよ?」


「それは……」


 言いかけたとき、玄関をノックする音が聞こえた。

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