第九話、紅葉《くれは》国へ

|汽船の出発時刻が迫るが、ゆかりは船に乗らなかった。守り人の船出を見届けようと少し離れたところに立つ人々に背を向けて、じっと優河を待つ。あの二度目のお茶会以来優河からの手紙が途絶え、彼が同行してくれるのか彼女には心配だった。調査官の石英が昨日言うには彼は来るようだったが、彼女は少し疑ってぎりぎりまで波止場で彼を待っていた。日傘を差すお付きが、そろそろですよとゆかりを諭す。それでも彼女は動かなかった。

 ゆかりは自分でも無理を言っていることは分かっていた。彼女と優河では立場も生きてきた世界も違いすぎる。そしてゆかりには、優河が最も輝いていられるのは華々しい表舞台ではなく、あの陽田師匠の家の一室でからくりをいじっているときであることも分かってしまっていた。

 ゆかりは調査官たちに優河の同行を頼む前に、ゆいかのいなくなった穴を優河で埋めたいだけの利己心で自分勝手に動いているだけだと何度も考えてしまった。しかしそれでもゆかりが優河について来てほしかったのは、彼女に世界の守り人であることの重圧とゆいかの死ががのしかかって、誰かに頼らずにはいられなくさせたからだろう。ゆかりはそこまで考えて今、自分のもろさが少し嫌になってしまっている。暑さもじんわりと彼女を追い詰めていった。

 何よりずっと彼女は寂しかったのだ。彼女はゆいかの部屋を毎朝掃除した。ゆいかが気に入りそうなアクセサリーを買って部屋に飾った。ゆいかの死を人々と一緒に悲しんだ。誰かに慰めの言葉を貰った。ゆいかのようにと笑った。しかしうら寂しさは変わらなかった。

 転生させられて世界の守り人と突然崇められてゆかりが泣いてしまったとき、ゆいかは大丈夫にするよと笑いかけてくれた。ゆかりが家族に会いたいと泣いたあるときも、ゆいかは大丈夫にするよと最後に言った。そのときのゆいかの寂しそうな笑顔で、ゆいかも悲しいのだとゆかりには分かってしまった。だからゆかりもせめて、それでも進むゆいかの後ろをついて行こうと決めた。そしてゆいかの後ろを必死で進み続けた。もう、ゆかりの前にゆいかはいない。ゆかりはたった一人の世界の守り人として残されてしまった。

 「守り人様」

 声がする方を見る。そこには旅行鞄を持った優河がいた。よかったと思うゆかりの心が落ち着いていく。優河は白い薄手の上衣を羽織り薄茶色の半ズボンを着ている。旅行鞄はおそらく陽田師匠のものだろう。年季が入っているがしっかりとした作りである。優河が来たことで少し顔を輝かせたゆかりは、晴れやかな朱色をした模様つきのスカートと、上衣には白のボタンのない服を着ている。この衣装は輪球会議が用意した、撮影時に世界の守り人を印象付けるための衣装だ。

 「優河さん。来てくれて嬉しいです」

 「守り人さん。ずっとそこで待っていてくれたんですか。準備に手間取って遅れてしまって、すみません」

 「いえ。では、行きましょう。船に乗ったら私は甲板で記者や人々に手を振らなければならないの。もしあなたがよければ部屋でゆっくり休んでほしいわ。あと注意して。もう彼らは私たちを見ている」

 ゆかりは優河に行って、後ろへと振り返り、遠くから二人を見ている人々に手を振る。優河もそれに倣ったのか、会釈をした。それからゆかりは人々に背を向けて、優河にだけ聴こえる声を出す。

 「私と優河さんが恋仲だと思われたら優河さん、困るでしょう。だから先に船に乗ってほしいの。私はここに少しいるわ」

 「……分かりました」

 優河は頷いて、先に汽船へと歩いていった。ゆかりはそれを一瞥してしばらく海を見る。そのままゆかりは日傘を差すお付きに話しかける。

 「ねぇ。記者たちは優河さんをどう見るかしら」

 「……輪球会議の手駒程度にしか思っていないでしょう」

 「あなた、そんなに大胆に言える人だったっけ」

 「言えますよ。私は何年も守り人のお付きをしていますから。だから言えます。ご自分の行動には気をつけてください」

 「……そうね。その通りね」

 ゆかりにはお付きの言葉の重さが分かってしまっていた。彼女は、ゆいかならこういうときにどうするのだろうと考えずにはいられない。少ししてゆかりは汽船へと歩き出した。その間も、彼女は人々に手を振ったり笑いかけることをかかさない。

 汽船が出発する。笑顔をたやさず静かに手を振るゆかりに、人びとから歓声があがった。ゆっくりと汽船は波止場を離れ、やがて陸地が遠くなる。部屋に向かいましょうと調査官の石英に言われ、ゆかりは部屋へと向かうことにする。そこに怒りを浮かばせる優河が現れ、守り人様と語気を荒げた。護衛が彼を囲い込み、石英はゆかりの前に立つ。

 「僕を利用したんですか」

 彼の手には新聞があった。その手には昨夜の新聞が握られており、大見出しは、退廃街の聖人の息子が世界の守り人に同行とある。添えられた写真には、守り人は貧者とともに進むという立派な文字が書かれている。

 「ある調査官からこれを貰いました。……僕は師匠の息子ではありません。師匠の弟子です。父親は違う人です。勝手に師匠を父親にしないでください。それにあなたは今まで退廃街や他の貧困街に来たなんて一度も書かれていなかったのに、ずっと豪華な雰囲気だったのに、何をいまさら。これまでもずっと守り人さまは僕を利用してきたんですか」

 優河の顔には裏切られたと言わんばかりの怒りがあるが、その目はまだ何か正解を待っているようだった。

 「優河さん、私は優河さんを利用していないわ。私だけでは何も決められない。そういえば最近、貧しい人たちのなかで、世界の守り人は富める者しか守っていないと言われてきているそうね。おそらく輪球会議はその不満を解消するために私と優河さんを利用したんでしょう」

 「分かっていたんですか。守り人様はこうなることを理解して僕を同行させたんですか。僕は操られていただけですか」

 「予想はしていたわ。それでも優河さんを呼んだのは、私がそうしたかったから」

 「守り人さまはめちゃくちゃだ。何回も会っているんだから僕がこういうときどうなるかも分かっていたでしょう。それなのになぜ」

 「それは、……気兼ねなく話せる人が誰もいない旅に私が耐えられなかったから」

 ゆかりは素直に答えてしまって何だかひどく自分が弱々しく見えてしまう。

 「私は輪球会議に操られている。ありのままの自分なんてない。それなら守り人として生きてみせるって決めた。……でも少し寂しいの。こんな形にしてごめんなさい。もし優河さんが嫌に思ってもう私と一切話さなくなっても私は何も言いません」

 ゆかりの前には、大丈夫にするからとゆいかのように言い切れない自分が見えてうつむく。ゆいかならゆかりがいなくなっても一人で生きていける気がした。優河の新聞を握る手が下ろされ、彼は何も言わずに甲板から去る。

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