第16話 ドッグヴァイン辺境伯子息

 厳粛な教会の中央、一本伸びた大理石の通路。色とりどりの光彩を放つガラスと、唯一空気を揺らす教皇の祈り。参列者はまぶたを下ろし、黙祷を捧げている。

 ハルヴェルが薄く目を開けば、ベンチの足下に埃が溜まっているのが目に付いた。清貧な場所にもはびこる、汚れ。

 所詮一部しか知らぬ者が、全ての善良を区別して良いはずがあるだろうか。知らぬことを言い訳に、免罪の余地があるだろうか。夏は冬を知らないだろう。春が命を削らなくては追い出せない、凍てつく夜を知らないだろう。春を急き立てる夏に、息絶える絶望が分かるはずはない。


 豊穣の儀が始まってから数刻、ハルヴェルの目に事新しいものは映っていない。この場に居合わせることが初めてとは言え、他の経験者に動揺が走れば気づく。ところが皆敬虔に、あるいは退屈そうに座り続けているだけだ。ルアンが言ったのは夜の話であるから、昼に変化が無くとも不思議ではないが。


 ようやく、教皇は一通りの格式を終えた。途端、管弦楽器の調べが盛大に響き渡る。高い天井に反響し、窓を震わせ、出番を待ちわびていた乙女たちを呼ぶ。

 その音に応え、閉ざされた扉から数人の息女が列を成して大理石を歩んだ。先頭には公爵家、次いで侯爵家、辺境伯家。最後尾には、フロータス伯爵家息女であるカーニャが並んでいる。それぞれが異なる意匠の装束をまといながら、ふさわしい気品と美を兼ね備えていた。この役目に人数の指定は無いが、カーニャでなければ周囲の了解は得られなかっただろうことが誰の目にも分かる。そして、ここにリディエラの姿が無い道理も。


「神よ、その導きと恵みに感謝いたします」


 代わる代わる述べられる祈祷に耳を傾けつつ、ハルヴェルはちらと王族の席に視線をやった。彼らの周囲はぽっかりと空いているので、多少距離があっても顔触れは分かる。国王であるダグラクス、第二妃、第一王子であるラインヴィルト、第二王子であるトランヴァルト、以上の四人。――王女であるリディエラは、いない。


 無論、「リディエラ王女」と豊穣の儀はあまりに合わないわけで、貴族の多くは平然と座っていられている。しかし入場の一瞬、リディエラがいないことに疑問の声が上がったのをハルヴェルは聞いていた。どうやら、昨年までは不承不承な様子でも参加していたらしい。それが今年に限っていないというのは、勘繰るなと言われても無理な話だ。ルアンが言っていた豊穣の夜に関係があるのか、果たして。


 ――ぎゅむ、と足を踏まれた。


「失礼、意識を失っているのかと」


 小さくしようとして吐息過多な声で、嫌味を一つ差し出された。


「……ご忠告、痛み入ります」

「博識なハルヴェル殿には、このような行事はつまらないようだ」

「ご冗談を。ちょうど、神に感謝を申し上げたところです」


 そうですね、あなたよりは、と嫌味で返しそうになるのをぐっと堪えた。いくら身分が同じとは言え、いらぬ争いの種を蒔くことはしない。この男はハルヴェルが軽蔑する人間の一人だが、ここで挑発に乗っては相手の思うつぼだ。


 臭いの強い塗料で頭皮に撫でつけた、煉瓦色の剛毛。炯炯と敵意にまみれた、樺色の瞳。筋骨隆々とした体格に似合う、どこか濁った低い声。

 南を守るのがサンドルト辺境伯家だと言うなら、北を守るのがこの人物の一族、ドッグヴァイン辺境伯家だと言えるだろう。代々北方民族の侵攻を食い止め、グリーティス王国の要塞を担う家門。穀物もまともに育たない過酷な地で生きる彼らは、概して気性が激しく鼻っ柱が強い。

 そして、今しがた攻撃を仕掛けたガルベンは、その性格を専らハルヴェルに向けていた。理由は聞かずとも分かる、引き籠もりの辺境伯家など国境を任せるに足りない、といったところだろう。一年ほど前、すなわち二人が王都に来てからの付き合いだと言うのに、ガルベンは遠慮もせずハルヴェルに突っかかってくる。


 ハルヴェルは嘆息した。席順は暗黙の了解で爵位に従うものだが、不運にもガルベンと隣り合うとは思ってもみなかった。全てはハルヴェルがぎりぎりまで図書棟にいたせいであり、あまつさえガルベンが嫌われ者であることを失念していたせいだ。入場が遅ければ席は限られ、ガルベンの隣には人が寄りつかない。本人にその自覚があるようにはとても見えないが、王女派の過激勢力の筆頭だ、同志にさえ接触を避けられている。ハルヴェルも極力鉢合わせないよう意識していたからこそ、よりにもよって離席できない場でこうなるとは。


「サンドルト辺境伯家は、いつから第一王子の手先になったのだ?」

「不敬ですよ。それに、我々は王家を尊んでいます」

「白々しい。我が王国をかつての姿に戻すのは、あの臆病者ではなく殿下だ。それがなぜ分からない?」


 ガルベンの話には誠意が無い。自己中心的に話すから、その代名詞が何を指しているのか分かりにくい。それでも、この大男が王族に対し無礼の極みであることだけは分かる。第一王子を、小声とは言え公衆の場でけなすなど、余程の怖いもの知らずか馬鹿者にしかできない所業だろう。


 さて、グリーティス王国は建国以来独立国だ。しかし、実情はそうでもない。同盟国である西の帝国に胡麻を擂り、首の皮一枚という瀬戸際で存続してきた。と言うのも、当国は東の皇国と西の帝国に挟まれた弱小国家だ、どちらかの庇護を受けなければ飲み込まれてしまう。

 そこでガルベン、もとい王女派が目指さんとしているのが、グリーティス王国の本質的な独立。そして、武力でもってそれを完遂しようと企てている。

 一方、穏健派とも形容されえる第一王子派は、西から目立って独立しようとは考えていない。政治、経済、戦争、それらのどれを取っても西の権威は必要だと理解している。


 歴史は偉大だ。しかし、時代はそれを淘汰する。時間は決して止まらず、時には緩流に、時には急流にその身を任せなくてはならない。蓄積した価値はあるだろう。堆積した遺産もあるだろう。ただし、それらが永久に形を保っていられるとは限らない。


「口が過ぎますよ。あなたの代でドッグヴァイン辺境伯家を途絶えさせる気ですか?」

「殿下は俺を誰よりも重要視してくださっている。新参者のお前は、さぞかわいそうな扱いをされているのだろうがな」

「先程言ったでしょう?我がサンドルト辺境伯家の意思は、そう軽薄ではありません」


 サンドルト辺境伯家が保守派であるのは、一つにまだダグラクス王が若いこと、もう一つにその育まれた知性による判断ゆえ。

 ドッグヴァイン辺境伯家と異なり、ハルヴェルの生家は卓越した戦闘力を育んでいない。代わりにあるのは、同盟国である西の帝国との強固な繋がり、だからこその記憶と記録。グリーティス王国に国際情勢をいち早くもたらし、過去の伝聞から最善策を導き出す。サンドルト辺境伯に知らぬことはない、そう言われる実力を脈々と受け継いできた。全ては王家のために、そして己が一族の地位を盤石なものとするために。ハルヴェルの兄とて、留学先が東であれば許されていなかっただろう。尤も、それならそれで勝手に行くような人物なのだが。


 ふん、とガルベンは鼻を鳴らした。話を聞いているのかいないのか、おごった鼻息だ。祈りを終え退場する乙女たちを見やる目つきは、見当違いな蔑みに染まっている。戦いしか知らないこの若輩者は、事あるごとに誰かしらと王女を比較する悪癖を持っていた。それは第一王子を崇拝するルアンのようでもあり、それより分を弁えないほどでもある。ゆえに、王女を持ち上げるときは決まって第一王子派か保守派の息女を貶している。今夜もそうするのだろうとハルヴェルは察したが、進んで喧嘩をする酔狂ではないので咎めないでおいた。

 ただ、奇しくも似て非なることは思う。王女ではなくリディエラであれば、あの儚い立ち姿にこの場所はよく似合っただろう。ほのかに赤い葉を茂らせた冠も、技巧を凝らされた刺繍がきらめく装束も、まとえばさながら妖精となるに違いない。凍った水面のように澄んだ、弱々しくも凛とした声で、神に願うに違いない。そしてそれはきっと、到底諦められないほどの切望だ。

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