第15話 このままじゃいけない 1
「わたし、分かりました」
その晩、町から戻ってきた碧玉は言った。
「あの子はきっと、弟を庇っているんです」
口にして言うと改めて思う。きっとそうだ。花瓶を壊したのはあの子じゃない。
弟をこっそり追い返したあと、男の子は強い顔立ちになっていた。震えこそ収められなくても、目はしっかりと父親を睨み返していた。
本当のことは絶対に言わないと、身体全体で物語っていた。
「間違いないです、あんな顔ができるのは守ろうとする誰かがいるからです。あの子はやっぱりいい子ですよ、あんなに小さいのに、弟は守らなくちゃいけないって分かってるんです」
「弟をか」
碧玉の力説を聞きながら、三秋は茶を啜っている。
白く薄い蓋碗をずらして口を付ける姿は優美だ。神様だと分かる以前から、碧玉はそう思っている。ただし、一緒に暮らすようになって気にかかる点が一つできた。
三秋は茶以外の物をほとんど口にしない。
茶菓子でさえ口にするのは稀だ。その分、飲む茶の種類は多いが、果たしてそれでいいのかどうか碧玉には分からない。
仙人は霞を食べて生きているというが、神様もそうなのだろうか。それともこの廟が貧しいから、茶で誤魔化しているのだろうか。
いつかちゃんと確かめなければならない。でなければ食事の支度をするとき、三秋の分も作っていいのか分からなくなる。
「弟を庇わねばならない理由は?」
静かな声で問われて、碧玉は考えを中断した。そうだ、今話すのは花瓶の件だ。
「きっとあの花瓶は、弟が割ってしまったんですよ」
自分の分の茶で口の中を湿して、碧玉は答えた。
迷いはない。きっと訊かれるだろうと思って、返事はあらかじめ胸の中に用意していた。
「そうとしか思えませんよね。あの花瓶を割ったら父親がどれだけ怒るか、あの子は絶対に分かっていたはずです。あの大声じゃ弟が耐えられないこともです。だから叱られないように、花瓶を隠してあげたんです」
「それはどうかな」
しかし、三秋は頷かなかった。蓋碗を卓に戻して、涼やかな目をこちらに向ける。
「だとしたら兄は、花瓶を割ったのは自分だと父親に名乗り出そうなものでは? だがそうせず、わざわざこんな廟に割れた花瓶を持ち込んだ。それはどういう理由だとでも?」
「それは、……あの子本人が言ってたじゃないですか。直してほしかったんですよ」
空になっている碗に碧玉は次の茶を注いだ。これは気を利かせたというより時間稼ぎだ。
この神様は少し意地が悪い。いつだって答えを与えてはくれない。むしろ時間をかけて、自分で考えさせようとする。
考えることに慣れていない身としては、なかなかの苦行だ。
「花瓶が割れてなければ叱られずに済みますもん」
「弟を庇うつもりがあるのに、叱られたくはないと? 矛盾しているな」
「あんなに小さな子なんですよ、大人みたいに考えられなんかしません。叱られずに済むならそうなってほしいって、思うものじゃないですか」
そう言って、碧玉は自分の蓋碗の茶を飲み干した。暖かな液体の薫りは甘く濃い。考える手助けをしてくれるようだ。
自分の手で二杯目を注ぐ自分から、三秋は目を離さない。その目元には笑みが浮かんでいる。
多分、この方は今楽しんでいる。――そう、大人が子供の遊びを見ているような気分で。
だったらもっと一生懸命考えなくちゃいけない。
この方はきっと、この謎の正解を知っている。自分も早くそこへたどり着きたい。
「花瓶を割ってしまった弟が叱られるような目に遭ってほしくない。だから花瓶が割れたことを親に隠そうとした。でも、だからと言って自分も親に叱られたくない。だから花瓶を直そうとした。――ほら、矛盾なんかしてないです」
「あの子供のことを賢いとそなたは昨日言ったが」
唇を尖らせながらもう一度話をし直しても、三秋は悠々とした態度のままだ。すらりとしたその姿の周りだけ、気持ちのいい風が吹いているように見える。
うんうんと頭を悩ませているのは碧玉だけ。彼はそれを高く清いところから見下ろしている。
神様らしいと言えばそうかもしれない。これがもし人間であったのなら間違いなく腹が立つ。
今も軽く頬杖をつきながらゆったりと茶を味わっている。もし相談の最中などにそんな態度を取られたら、気の短い人であれば怒鳴りだすかもしれない。
この方が人間の目に映らなくて本当によかった。そんなことを思いながら、この廟が寂れている理由を改めて碧玉は感じる。
「本当にそうだろうか。そもそも割れた花瓶を廟に持ち込めば直してもらえるなど、少しでも物の道理が分かっていれば、普通は考えぬものではないかな」
「だからあの子は本当にまだ小さい子なんですってば。神様は見てらっしゃらなかったから分からないだけです、あの子がここに来たときは、可愛そうなくらいに気が動転していたんですよ。途中で泣き出しちゃうくらいに!」
「それは一時的なものだ。普通であれば落ち着いたとき、自分のしたことを振り返って後悔する。そうだな、私であれば、ここへ置き去りにした花瓶の破片を取りに戻る。放っておいたところで直るはずなどないと気付くからだ」
だが彼はここには来ない。そう言って三秋は笑った。そんな子供を賢いと言ってしまっていいのかなと。
涼やかな眼差しに相応しい爽やかな笑みだ。こんな会話の合間でなければ、見とれてしまったかもしれない。
だが、と碧玉は思う。今はそんなことなんてしてられない。こんな話の流れではいくらなんでもあの子が不憫だ。
「恐れながら楊様、それはあまりにも親子の間柄を知っていないお言葉です」
「と言うと?」
「あの子がここへ戻ってこなかったのは、親に捕まって叱られて、外に出してもらえなくなってるからじゃないでしょうか。罰として外に出してもらえなくなるなんて、よくある話なんですよ」
「何故?」
どうして、と彼は真顔で首を傾げる。こんなあたりは神というより、ただの物知らずな青年だ。
「私はそんな目に遭ったことがないな。そんなことをしてどんな意味があるのかの方が気になる」
「子供が外に出られないなんて、ものすごく辛いことなんですよ。親はそうやって子供に、ごめんなさい、もう二度としませんって反省させるんです」
「別に私はそうは思わないが……。それに、反省だけなら口先だけでもできるだろう。その場しのぎで反省した振りをすればいいだけだ。あまり効果的な罰ではない」
「親にそんな誤魔化しは通用しませんよ」
「見抜けない親もいるだろう。違うか? 例えばくだんの子供の親がそうである保証はない。そうなってしまっては、この罰はただの親の憂さ晴らしにしか過ぎなくなるな」
ふむ、と三秋は腕を組んだ。そのまましばらく碗の中を覗き込むようにして黙っている。
琥珀色をした水面に何かが映っているかのように、彼はそこから目を離さなかった。
「人間とは不思議な生き物だな。どうにも合理的ではない……」
あまつさえ、時間をかけてそんなことを呟くのだ。碧玉は卓の上に突っ伏しそうになる。
この反応も神様だからだろうか。それとも、この方が単にどこかずれているからなのだろうか。
「楊様……。こんなことを言うと不敬だと思われそうですけど。神様をなさるんでしたら、もう少し人間に興味を持った方がいいですよ。人間が分からないと、願いの意味が分からなくなったりしませんか」
「なかなか鋭いなそなたは。実を言うとそうなのだ、ここ数百年はだからほとんど何もしていない。何故彼らがそんなことを願うのか、意味が分からなかったからな」
だからここ数十年は人そのものが来なくなった。そう言われて、碧玉は今度こそ卓に突っ伏した。
駄目だこれは。この廟が寂れているのは三秋そのものが原因だ。
廟に人を呼び寄せるにはまず、この世間知らずな神様の性根を入れ替える必要がある。それまでの間は、なんとか自分が代わりに考えなければ。
この花瓶の事件は、きっとその手始めになる。
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