第14話 あなたの願いは 2
例の子供と母親が嫁いだ店は、町の大通りの真ん中にあった。
聞いた話によると、商人もやはり流行り病で妻を亡くしたという。あの子供の母親を後妻として迎え入れたのだ。
碧玉と違って、彼女は器量が良い上によく気が利くという。店の主がぞっこんになったという話は、決して誇張されたものではない。
今の家の中はそんな仲睦まじい夫婦と、子供が二人。今の夫との間に母親はもう一人子供を授かっている。
二人の仲は幸いなことに悪くない。まだどちらも幼い分、余計なことを考えることもなく毎日一緒に遊んでいる——。
今まで聞いた話を思い出しながら辿り着いた店の前で、碧玉の足は止まった。
さて、これからどうすればいいのか。
いきなり入って話を聞かせてくれと頼んだところで、語ってくれるはずがない。かと言って、自分は神様のように他人の心を読み通すことなど到底できない。
どうしよう――。
勢い込んで来たものの、よい考えもすぐには浮かばず、しばらく立ち尽くしていた。
そんなとき、耳にふと子供のすすり泣く声が聞こえてきた。
お前と言う奴は、と男の太い声も聞こえる。きっと子供の父親だ。
—―お前は一体あの花瓶をどうした。
碧玉ははっと息を呑んだ。
懸命に耳を澄ませてみるが、周囲の雑踏が邪魔をしてなかなかはっきりと声は聞き取れない。
子供の声に至っては全く届いてこない。もしかしたら怯え切って、口を噤んでいるのかもしれない。
碧玉の頭の中に再び子供の顔が浮かび上がる。頬を真っ赤にして涙ぐんでいるあの顔だ。
懸命な声で、割れた花瓶を元に戻してくれと願っていた様は、決して演技などではない。
あのとき、子供は間違いなく神様を信じようとした。
碧玉は被っている布地をきつく握りしめた。
あの子のためにも、わたしはこんなところでまごついてはいられない。
「お願い、わたしの姿を消して……!」
布地が答えることはなかったが、代わりに光の色が変わった。暖かな陽の光の色から、白い雪のような色になっている。
大丈夫、という気がした。
碧玉は意を決して、店の入り口から中に入った。
いらっしゃい、という声は誰からもかからない。
店の中から更に奥へ入る彼女を見とがめる者はなかった。
誰の側を通り過ぎても、何も言われることはない。下人たちは忙しく立ち動いているし、客は商品を見るのに夢中だ。
店になっている房を出ると、父親の声はもっとはっきり聞こえた。
「どうせ壊して隠したんだろ、黙っていてもお見通しだ!」
碧玉は足を速めた。廊下を小走りに駆け抜け、庭を通り過ぎて、奥の房へと向かう。
彼らが今どこにいるか迷うことはない。そのくらい父親の声は大きい。
「俺はそんな子供に育てた覚えなどないぞ!」
怒鳴り声は、細やかな花窓の向こう側からだ。漆と丹で彩られた扉を前にして、碧玉は少しためらったが、思い切って少しだけ開けた。
風の仕業だと思ってくれたらいい。そう思いながら隙間に身体を滑り込ませる。
幸いなことに、部屋の中の誰も彼女が入ってきたことには気づかなかった。
部屋は瀟洒に飾り付けられていた。
床には細かな紋様が縫われた絨毯が敷かれている。窓には玻璃の飾りが揺れている。
花梨の卓の上には盆が水を湛えていて、そこには花が活けられている。
部屋の真ん中で仁王立ちになっている男はきっと父親だ。
その向こう側には、あの男の子が立ったまま項垂れている。
背後で青ざめているのは母親で間違いない。おろおろとした様子で、盛んに自分の両手を揉みしだいている。
「いいか。あの花瓶は滅多に手に入るものじゃねえ」
低く抑えた声はまるで雷の前触れだ。
「官の窯から無理を言って売ってもらったんだ。お前の母親のためにだ。お前はそれを失くしたんだぞ、親を悲しませるなんざどれだけ不孝なことか分かってんのか、ああ!?」
案の定、怒りはたちまち爆発する。
落雷のような響きに小さな身体はびくりと跳ね上がった。母親がたまらずその肩を抱き締める。
「あなた、お願いですそんな強くおっしゃらないでください。まだこの子は小さいんです、すっかり怯えてしまっているじゃないですか……!」
「お前は黙っていろ。俺がこうして言うのはこいつのためだ」
「ですが!」
「黙れ! こんな頃から甘やかされて物事のいい悪いも分からないように育つなんてな、ろくなことじゃねえんだ! 強く言って聞かせないと、大人になって苦労するのはこいつなんだ!」
母親はぎゅっと唇を噛んだ。言い返せないまま、それでも我が子を守るように腕の中に匿う。
母親に抱きしめられたまま、男の子は一言も声を出さずにいる。
涙目のまま、血がつながらない父親をじっと見つめている。よく見れば膝が小さく震えている。
決して平気なのではない。なのに懸命に叱責に耐えている。
碧玉は胸に痛みを感じた。
いっそ正直に言ってしまった方が楽になるだろうに、何故言わずにいるのだろう。
言えない理由はなんだろうか。
何か隠していることがあるんじゃないのか。それが理由じゃないのか。――誰かそう尋ねてみればいいのに。
こんな小さな子供が怖さを我慢しているなんてよほどのことだ。責め立てるのではなく、もっとやさしく尋ねてあげればいいのに。
このままじゃ、とてもこの子供が口を開くことなんてあり得ない。
いっそ自分がここで正体を現して、尋ねてみたらいいだろうか——。そんなことを思いかけた碧玉の前で、とあることが起きた。
きい、と小さく扉が音を立てた。碧玉は反射的にそちらに目をやり、そのまま忙しく瞬かせた。
今叱られている男の子よりも更に小さな子供が、部屋を覗き込んでいた。
きっと弟だ。その証拠に、兄である子供の手が動いたのを碧玉は見逃さなかった。
あっちへお行き。
そういうように、小さな手指は何度も弟をこの場から押し返す仕草を繰り返していた。
父さんが気づく前に早くお逃げ。
何も言わないその顔は、真剣にそう告げていた。
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