第7話 婚姻の申し出 5
「私はこの廟の主だ」
碧玉の驚愕の眼差しをものともせず、青年はさらりと言った。
「故あってここに祀られ、以来この地に根付いている。――どのくらいかと言いたそうだな。そうだな、これまでに王朝が二度ほど変わったかな。確か隋と唐、そのあとにも小さな国が乱立したが、まあそれは省いてもいいだろう。どれも数十年程度の話だ」
軽く首を傾げるその様子を、碧玉はただ見つめるしかなかった。
確かにこの青年と会うのはいつもこの廟だった。
神様であるというのなら、この廟に住んでいることになるのだから当然だ。だが、そんな理由からだと思いつけるはずなどない。想像するにしてもせいぜい、信仰心の篤い人なのだろうというのが関の山だ。
「……道士様とかではないのですか……?」
「この廟に道士はいない。でなければこんなに寂れてなどいまい。そなたも知ってのとおり、ここ何十年かは掃除すら自分でするしかない有様だ」
そう言って、自称神は笑った。口にしたのは自嘲であるはずなのに、まるで風が吹き渡るように爽やかだ。これも神様の力なんだろうか、と思う。
「祀られたはいいが、どうも私は神として向いていなかったらしくてな。最初こそは手厚く信仰されていたが、今ではすっかりこのざまだ」
「……ええと……」
碧玉は辺りを見渡した。
すっかり色あせた梁。虫が食って埃だらけの帳。くすみすぎて何がなんだか分からない像。蝋燭が灯されているところを見たのは、ほんの数回だろうか。
あまりにも寂しくて、たまに通りかかった者が香を焚いたりすることがある。自分も何度か花を供えたりしたものだが、そのくらいしか記憶がない。
「……あの」
そんなことを思い起こして、はたと気づく。
「確認させてください。さっき、私がよく働くと言ってくださいましたが、それってもしかして」
「この廟を何度か掃除してくれただろう。なかなかの手際だった。私ではとてもああはできない」
問いかけてみれば、予想通りの答えが返ってきた。
碧玉が見かける三秋は、いつも廟の掃除をしている。ただし、決してそれは感心できる段取りではなかった。そのため、つい手を出してしまったことも確かにある。
要は見ていられなかっただけなのだが、まさかそんなことで見初められるとは思わなかった。
「……話を戻しますね。じゃあ、一体なんてお名前の神様なのですか?」
「名はそなたも知ってのとおり、楊三秋だ。他に名はない。人間であった頃からこう呼ばれていた」
「神様の前は人間だったんですか……」
「関帝とて最初は人間だったろう。人が神になることは決して珍しくはない」
「はあ……」
そう言われてみれば確かに頷くしかない。たとえば海の守り神である媽祖様も、最初は人間の女性だったという。ただの男性が神として祀られることも、もしかしたらあるかもしれない。
しかし、それを鵜呑みにしていいものかどうかはまた別の話だ。
この人は本当に神様なのだろうか。それとも、神だと思い込んでいるだけの人間なのだろうか。
この疑問を口にするのは、さすがに碧玉であってもはばかられた。もし彼の正体が前者であれば罰当たりすぎるし、後者であれば危険すぎる。
もごもごと言い淀んでしまっている碧玉の様子を、三秋はしばらく眺めていた。
「そなたの疑いは当然だ」
ふむ、と彼は自分の顎に手を当てた。
「私は嘘を付くことができない。故に問われれば、正直にこう答えるしかないのだが、確かに容易く信じられる話ではないな」
「分かってくださってありがとうございます……」
「つまり、私が神の名を騙っていないということを、説明できればいいということか。……見てのとおり、今一つ神らしくない自覚はあるから、なかなか難しい話だな……」
そう言って、三秋は腕を組んで考え込んでしまった。その姿を碧玉は見つめるしかなかった。
神様らしくない。――本人が言うとおり、自分もそう思えてしまう。道士見習いとか、駆け出しの文人と言われる方がまだ信じられる。
「……私が神かどうかを信じてもらうことは難しそうだが……」
やがて、彼は顔を上げた。
「人間でないということであれば、今すぐ証明できるが」
「できるんですか!」
「簡単なことだ。神は普通人の目には見えない」
ほら、と三秋は碧玉の背後を指さした。そこには鏡が飾ってある。
昔は綺麗に磨かれていたはずの丸い鏡面は、うっすらと埃が被っている。だから映し出されている情景は、曇り空に浮かぶ月影のようにぼんやりとしている。
何が映っているのかをちゃんと見るためには、目を凝らす必要がある。
「……えええっ?」
そして碧玉は声を上げた。
鏡の中に映っているのは自分一人だ。すぐ傍らにいる長身の青年の姿はない。
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