第4話 婚姻の申し出 2
「さて。今度はどんな悩みが起きた?」
二杯目の茶を注いでくれながら、物静かな声が話しかけてくる。
「先日は食事の支度が遅いと言われていたな」
これは十日ほど前、自分がここで漏らした愚痴だ。伯父伯母の家での苦労を、自分はよくここでこぼしている。聞き役はいつもこの青年だ。
頼りになる身内がいない自分にとって、これはいつからかなくてはならない習慣になっていた。赤の他人である方が愚痴は吐き出しやすい。聞き流してもらえる、という予測が口を緩ませる。
「一人で一家全員の支度をするのだ。時間がかかるのは仕方あるまい。まだ伯父御たちはそれを理解できぬのか?」
「いえ」
碧玉は小さく笑って首を振った。
「その件ではありません」
「では雨で洗濯物を濡らしてしまった件か。放っておけば乾くものを、目くじら立てて叱る話でもなかろうに」
「その件でしたら今は大丈夫です。雨の降らない季節になりましたから」
「ならば、浪費をしていると叱られた件か。西域での戦争が長引いて、税が上がったことを知らなかっただけだろうに」
「それはわたしが婚家にいた頃の話です。そんなこともありましたね」
碧玉がそう返すと、青年は何とも言えない顔をした。その表情を見て思わず笑いだしたくなる。
呆れられるものも当然だ。自分はいつも叱られてばかりいる。
昔から困った立場に置かれることはよくあった。友人から無理な頼まれごとをされて断り切れなかったこととか、従妹たちのように上手く立ち回れず、面倒ごとになって親に叱られるとか。
嫁ぎ先でもそうだった、舅姑の機嫌を何度も損ねて、夫からもよく𠮟られていた。離縁されたのは、彼らと馬が合わなかったからとしか言いようがない。
「では今日は何があったのだ」
三秋は率直に尋ねてきた。もう考え付かない、とその顔には書いてある。
「そなたの悩みは種類が多すぎるな。もはや想像がつかない」
「そうですね。色々ありすぎて、わたしにも分からなくなることがあるんです」
そんな相手に、碧玉は笑いを返した。まったく、笑うしかない。どうしてこうなるのか、自分自身よく分からないままでいるのだから。
「一つ一つはどれも些細なことだと思うんですけど、なにせ数が多くて。一つに対処している間に次の問題が起きてしまって、最後はもう手に負えなくなっちゃうんです」
「では、誰かの手を借りればいいのではないか?」
「わたしもそう思ったんですけど……駄目なんです」
もう一度そう言って笑おうとして、失敗した。口からはため息がこぼれてしまった。
婚家ではよく夫から説教をされた。曰く、妻は夫とその両親に尽くさなければならない。口ごたえしてはいけない。何をおいても従わなければならない。それが碧玉にはできなかった。思ったことをすぐ口にしてしまうからだ。
疑問や不満を声にしないように、婚家では最後は黙ってばかりいた。そうすると愛想のない嫁だと責められてしまった。
離縁を言い渡され、婚家から追い出されてしまった娘を、それでも両親は迎え入れてくれた。しかし、実家で休めたのはつかの間のことだ。そのあとすぐに流行り病が街を襲い、二人とも次々に倒れてしまった。気づけば碧玉は一人きりになっていた。
「それに今回は、きっと誰の手も借りられません」
悲しいことや辛いことはいつだってやってくる。その追い払い方を、自分は未だに分からずにいる。
「今お世話になっている伯父と伯母が、わたしを早く片付けたがっているんです。いつまでも置いておけないって……。今朝はうっかりそんな話を聞いてしまって、びっくりしてしまったんです。おかげで朝ご飯を食べ損ねちゃいました」
そう言いながら、碧玉は腹に力を入れた。努めて笑うようにする。
そんな気分でないとしても、せめて振りだけはしたかった。そうしなければ、また泣き出してしまいそうになる。
「そりゃあ、いつまでも伯父たちに養ってもらうわけにはいけませんから、わたしも早く落ち着き先を探さなくちゃいけないんでしょうけど。でも、一度婚家から追い出された娘をもらってくれるようなところなんて滅多にないでしょうし、あるとしても理由付きでしょうし……」
「なるほど。泣きたくもなる話だ」
「いえ、もう泣きませんよ。さっきのは楊さんの顔を見て、ちょっと気が緩んじゃっただけですから。もう平気です」
ね、と碧玉は笑みを浮かべる。強がりでも、笑えることに安心する。
「本当はもう結婚自体こりごりなんですけどね。いつも叱られてばっかりだったし。この先もまた同じことが起きるかもなんて考えたら、うんざりしますよね」
「そうだろうな」
「もしわたしが楊さんみたいな男の人だったら、頑張って働いて一人で生きますけど、でも女はどこかに嫁ぐしかないから……」
女は誰も嫁ぎ先で子供を産み、家を守ることを望まれている。そうするために育てられている。
だから、自分は生まれ故郷であるこの町から出たことがない。一日もあれば全て回ることが出来る程度の広さが、自分の世界全てだ。
外のことは何も知らないし、そもそもどうやって出るのかも分からない。
そんな自分が、だれにも頼らず一人で生きていくなんてできるはずがない。不意に思い至った現実は、碧玉の心中に重く沈み込む。
じわ、と涙が滲みそうになる。慌てて目をつむって、下を向いた。そうやって、目尻に溜まった雫を落とす。
いつまでも泣いてばかりはいられない。
今日は特に泣き過ぎている。これ以上べそをかけば、いくら人のいいこの青年であったとしてもきっと眉を顰められる。
早く笑えるようにならなければ。ただでさえいつもより愚痴を言い過ぎているのに、もう湿っぽい話は勘弁と席を立たれてしまってはたまらない。
これ以上重荷になってはいけない。迷惑だと思われてはならない――。
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