第3話 婚姻の申し出 1



 この町の外れには一つ、廟がある。


 それがいつどのようにして建てられたのか、知る者はいない。少なくとも碧玉が生まれた頃からもうあったはずだ。ただし、その頃から寂れてしまっているのだが。


 建てられた場所が悪いのか、はたまたご利益がないのか、この廟はいつだって人気がなく、子供であっても滅多に近づく者はない。たまに見かけるこの青年が掃除をしていなければ、とうの昔に朽ち果ててしまっていたかもしれない。


「……おはようございます。楊さん」


 楊三秋。その名のとおり、晴れ上がった秋空のように清々しい雰囲気を持つ青年だ。歳は多分碧玉よりも上。広袖の衫はいつも白く、腰に巻いた帯は鮮やかな藍だ。横に下げた佩玉は白地に濃い緑が散ったもの。いかにも文人然としたなりはとてもよく彼に似合っている。


 この青年と知り合ったきっかけは些細なものだった。雨に降られて廟で雨宿りをしていたとき、たまたまいた彼が傘を貸してくれたのだ。それ以来、挨拶をしたり話をしたりするくらいの間柄になっている。


「なんだ。朝餉も食べずにここへ来たのか」


 せっかちだな。そう言って三秋は静かに笑う。彼との会話はいつもこうだ。自分が今どんな状態かをわざわざ訊くまでもなく、理解した上で話しかけられる。


 知り合ってもう何年にもなるが、一度も声を荒げられたりしたことはない。そんな点は碧玉にとってありがたかった。そのためだろう、この頃は彼の顔を見ただけで心が落ち着くような気がする。


「すまないがここは市場ではない。出せるものは茶くらいしかないが、それでもよければ馳走しよう。どうだ」


 落ち着いた声は、今日も気持ちを静めてくれるはずだった。


 嬉しいです、と微笑むつもりだった。ちょうど喉が渇いていたんです、お言葉に甘えていいでしょうか。


 そう言えるはずなのに、声を出すことができなかった。


 穏やかに迎えてくれる相手の前で、碧玉は口元を押さえた。

 彼と会えて安心できたはずなのに、胸の中はそれだけで納まらなかった。奥から熱い何かが勝手に湧き出してくる。それがどうしても抑えられない。


 ぼろ、と目から雫がこぼれた。堪えようとしても止まらなかった。どうすることもできずに、碧玉はそのまましゃがみ込んでしまった。

 こんなことじゃ駄目。そう思っても涙は止まらなかった。声も抑えられず、まるで子供のように泣きじゃくってしまっている。

 溢れ出てしまった気持ちの止め方は分からない。どうすればいいのかも分からない。


 膝を抱えている状態では、三秋がどんな顔をしているのかは見えない。


 ふむ、と低い呟きがふと聞こえた。続けて、足音が廟の中へと入ってしまう。待って、と言いたくても嗚咽がまだ抑えられない状態では、どうしようもなかった。


 待ってください、大丈夫ですから。すぐに泣き止みますから。

 だから一人にしないでください――。


「こちらへ来るがいい」


 消えたと思った足音は、やがて碧玉の元に戻ってきた。穏やかな声が頭上から降ってきた。


 息を整え、碧玉はなんとか立ち上がった。子供のように袖で顔をこすりながら、誘われるままに廟の中に入る。

 薄暗い堂内には明かりが灯され、小さな卓と丸い陶製の椅子が並んでいた。促されるまま、そこへ座った。


「飲むがいい」


 卓の上には茶が淹れられた蓋碗が用意されていた。


「人間というものは飢えと渇きを感じれば、どんな者であろうと悲観的になる。まずは口にするがいい、話はそのあとでいいだろう」


 碗の傍らには小さな皿があり、干した果実が盛られていた。食事とはいえない量でも、今の碧玉にはありがたかった。

 礼の言葉もそこそこに手を伸ばした。

 淹れたばかりの茶は香り高く、口に含めばほんのりと旨味があった。

 果実は無花果と橙だ。信じられないことに砂糖が贅沢に使われていて、噛めば強い甘味が広がる。小皿が空になるのはあっという間のことだった。


 ほう、と満足の息をつくまで青年は根気よく待っていてくれた。


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