第7話 リブラ、皇帝様と出会う


「ええ? 君から? 無理を通した上に婚約者様から挨拶に出向かれては、申し訳なさで泡吹いて倒れちゃうかも」


「あら、そんなに繊細なお方なのです?」


「そうそう。優しくて繊細で可愛いな子なんだよ、シーザー君は。まぁ、さすがに泡吹いて倒れるっていうのは誇張表現だけど」


「でしたら何の問題もありませんよ。弱っている現政権を見捨てるような不義理を行ったのはメイディック家の方です。謝罪こそすれ、負い目を感じていただくようなことは一切ございません。……私も、一応メイディック家の者ですので」



 誰かの尻拭いには慣れている。それが嫌で出ていけという言葉に即従ったのに、未だその呪縛を振りほどけないでいるのは情けない話だが、それはこちらの都合。彼らには関係のない話だ。


 私の言葉にモーガン殿はしぶしぶ「こっちも文句を言える立場じゃないし」と頷いてくれた。

 ドレスの着用は必要ないとのことだったので、埃などを払ってから現皇帝シーザー・ローラント様のもとへ向かう。

 ライラック前皇帝の御子息であり、数々の施策から真面目な好青年を予想していたが、優しくて繊細なお方ならば線の細い美少年系だろうか。

 別の意味で発言に気を付けた方がよさそうだ。





 ――なんてことを考えていた五分ほど前の私に張り手をくらわせてやりたい。


 モーガン殿の嘘つき。なにが繊細だ。なにが可愛いだ。線の細い美青年だと誤認させて油断を誘おうだなんて趣味が悪い。


 ここがシーザー様の執務室だと案内され、「はいどうぞ」と開かれた扉から溢れ出たのは一瞬で背筋が凍るほどの圧だった。

 押しつぶされそうな緊張感。視界に捕らえてすらいないこの状況でも、今すぐ背を向けて逃げ出してしまいたい衝動に駆られる。

 私はモーガン殿の服をぎゅっと握りしめ、気合だけで前を向いた。



「おやおや、どうしたんだい?」


「この威圧感でなにが繊細で可愛いですか」


「本当だって。大きなテディベアみたいな可愛い子だよ」


「グリズリーの間違いでは!?」


「ふはっ、それ本人が聞いたら泣いちゃうから駄目だよ」



 私の返答にけらけらと笑って部屋の中を指差すモーガン殿。しまった。そこにいらっしゃるのだった。私は慌てて両手で口を塞いで中を窺った。


 まず目に留まったのはメイディック家から貸し出されたであろう機材の数々。なぜこんなものが皇帝陛下の執務室にあるのだろう。シーザー様が使用しているとか。いやまさか。様々な病原体を観測するのに使う機材たちだが、使用には精密な操作と知識が必要だ。専門家もなしに使えやしない。


 床には丸められた紙が散乱しており、まるで物置のような有様だ。

 最奥に設置されている長机。目を凝らすと、それにかぶりついて一心不乱に手を動かしている人物が確認できた。あれがシーザー様だろうか。背中越しでも異様な集中力がうかがえる。というかほぼ殺気の域なのですが。超怖い。



「こらこら、僕がいないと掃除も碌に出来やしないのかい? 時間が惜しいっていうのは分かるけど。さすがに皇帝陛下の執務室がこの有様じゃあ示しがつかないよ、シーザー君」


「モーガン、帰ったか」



 少し掠れた低い声。

 モーガン殿の声に反応して立ち上がった背丈は190近く、振り向いたその眼光の鋭さに足がすくむ。


 暗い、夕闇を塗り込めたかのような黒い髪。怪しく光る金色の瞳。熊に例えられるほどの巨漢というわけではないが、体幹のよさそうながっちりした身体をしている。だからこそ、不健康なほど色濃く残った隈だけが一種異様だった。


 目鼻顔立ちは整っている方――なのだと思う。しかしそれも彼が纏う圧が見惚れることすら許さない。

 何だこの人は。視線だけで人を殺せそうだ。


 山の中に住んでいたから野生の熊に出くわすこともある。だが、熊なんかよりも目の前の男の方が何倍も恐ろしい存在に思えた。

 テディベアなんてあり得ない。グリズリーだって生ぬるい。見惚れるほどの美貌と恐ろしいまでの重圧感――どこかの国のお伽噺に出てきた鬼のようだ。

 ただ視界に入っただけなのに体の震えが止まらない。



「モーガン」


「シーザー君はもうちょっと顔が怖いって自覚持ったほうがいいよ?」


「モーガン。……はぐらかすな。彼女は誰だ」



 少し苛立った声色に足元から崩れそうになる。

 いやちょっと待って。誰ってどういうことだ。もしかしてシーザー様は婚約者が変更になったことをご存じないのでは。

 ハッとしてモーガン殿の方に視線をやれば「あ、忘れてた」と言わんばかりに苦し紛れの笑顔を返された。駄目だこの大魔法使い。報連相を一度頭に叩き込んでやりたい。



「いやぁ、実は色々あってね。大変だったんだよ? ってなわけでこれにサインちょーだい」



 あの人怖いものなしなのか。

 へらへらと笑いながらシーザー様に紙を手渡すモーガン殿。あれはさっき見た婚約者をマリルから私へと変更する旨が書かれた契約書だ。

 メイディック家のサインはあるので、あとはシーザー様がサインと捺印をすれば、私は正式に彼の婚約者となる。


 皇帝付き魔法使いのモーガン殿が仲介ならばシーザー様もご納得されてのこと。サインを拒むことはないはず――と思い、決定は覆られないと大人しく婚約者変更に頷いたが、説明をしていないのならば話は別だ。


 私とマリルでは市場価値が雲泥の差。天地ほどの開きがある。

 メイディック家の秘蔵子を期待していたら、実際はお掃除魔法しか使えない出奔していた役立たずがやってきたのではお怒りになるに決まっている。私が同じ立場だったら確実に怒る。怒髪天を衝くレベルだ。こんなことなら見苦しく足掻いて拒否すればよかった。私の馬鹿。

 シーザー様は受け取った契約書を無表情で確認すると――。



「これは一体どういうことだ」



 地を這うほどの低い声で唸り、それをビリビリと破り捨てた。

 ああもうだめ死んだ。死んだわこれ。今思えば短い人生だった。さらば私のマイホーム。どうせなら自室のベッドで安らかに死にたかった。老衰は贅沢ですか。


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