第4話 小田原評定
会社で仕事をしていると、最近は、次第に心労疲れを感じるようになった。元々プログラマーをしていた時期は、あれだけ楽しかったのだが、分かっていたこととはいえ、想像通りというか、覚悟していたが、というか、主任に昇格すると、プログラムを自分で組むことから次第に離れていくのだった。
それまで、貰っていた仕様書を今度は、こっちが書かなければいけなくなる。それはそれでもいいのだが、
「どうせ、仕様書まで書くのなら、自分で作った方が早いのに」
と思うのである。
プログラマーをしている時は、正直、上が決める工数は、自分には余裕なものだったので、一日くらい早くできれば、最期に一日は、設計書づくりをしていた。
仕様書はあくまでも、作り方の条件や、項目の移送内容を列記したり、入出力の定義を示しているだけだった。
しかし、設計書ともなると、できてから書くもので、実際にどのようなロジックが存在するのか、ロジックごとに、さらに詳細に仕様書を落としたものである。
それだけに、プログラムができてからでないと作れないもので、なかなかここまで作っているところはないだろう。
プログラムすべてに一個づつ、さすがに設計書を作ることは難しいが、仕様書を設計書代わりにするのも一つの手かも知れないが、あくまでも、自分が作ったものだけを自分の製作物だと思っているので、作品や、設計書は自分のものである。だから、設計書はプリントアウトして、自分ようのバインダーに閉じていたのだ。
そんな松下を他の同僚や上司はどう見ていたのだろう? まるで、仕事の虫のようには見えるが、本人はそんなことはなかった。
ほとんど、自己満足のためにやっていることで、別に承認欲求を満たそうとしていることではかった。
設計書は別に人に見せるものでもないし。開発したプログラムを見てもらいたいということでもない
だが、本来であれば、システム全体の設計書を残すのが当たり前だと思うが、そこまでしているわけではない、もし、この会社がソフト会社で、納入先は別会社で、会社対会社としてシステム路組んでいるのであれば、最初の企画書から仕様書、さらに設計書までの資料と、さらに、使用するファイルやデータの項目等の説明書までつけて、一式を納品するというのが、当然のことだろう。
実際に納品しても、それを誰かが見るというわけではないのだろうが、納品後、何かがあった時、その解決策のためには、仕様や設計書を見れば、他の人が対応しても、対処できるかも知れないという意味で、設計書等の存在は作成した方とすれば必要となるのだった。
しかし一般人が、何かの家電でも購入すると、そこに必ず、取扱説明書が入っているのと同じで、頼まれて、その会社独自のシステムを構築したのであれば、それは当然納入の義務があるといってもいいだろう。
それができないのであれば、ソフト会社としての信用もないのではないかと思うのだった。
だが、松下の会社は、会社自体がソフト会社ではなく、部署がシステム部だということもあり、いわゆる、
「エンドユーザー」
として、自社のシステムを自分たちで開発している部署だった。
とはいえ、基幹業務の大まかなところを最初に作ったのは、最初に依頼したソフト会社だった。
だから、大規模なシステム変更だったり、新たな新規業務をシステムに織り込むなどという、大規模プロジェクトでは、もちろん、開発したソフト会社にお願いし、こちらでできる部分はシステム部が賄い、各部署からの要望や操作方法の提案などの実際に扱っている部署から吸い上げて、それを、とりまとめ、ソフト会社へ、改修や、新規構築をお願いする。
その時に、工数や予算などという企画的な会議を行うことで、会議が頻繁することもあって、大規模プロジェクトともなると、時間も予算も掛かるのだ。
最近は、そこまで大きな改革や、新規事業への参画などはなかった。
どちらかというと、政府の決定事項、例えば、消費税の変更であったり、表記義務などの問題があったりした時、マイナーチェンジ的なものが、ちょこちょこある程度で、ある意味落ち着いていると言っていいだろう。
だから、最近は、結構定時に帰宅することができる。
「まあ、定時に帰れるくらいがちょうどいいんだろうな?」
と思って、ふと、自分の毎日を思い返してみると、やはり何か物足りなさを感じていた。
確かに、
「三度の飯よりも、仕事の方が楽しい」
などという時代はプログラマーの時代にあった。
それは、達成感と充実感を一緒に味わっていたからで、その思いをずっと感じていたかったことで、仕事が承認欲求を満たしてくれていたのだ。
充実感も、達成感も、プログラマーでは、同時に満足できていたのだが、仕様を書く立場のシステムエンジニアともなると、何かの達成感が足りない気がしていた。それが、達成感なのか、充実感なのかが分からない。分からないことが、システムエンジニアの仕事に対して、満足できない自分がなぜなのか分からないという、ストレスを生んでいるのかも知れない。
それは、システム関係だけに限ったことではない。スポーツにしてもそうだろう。
スポーツ選手というのは、選手生命は基本的に短い。
野球選手などは、40歳が一つの境目であろう。
もちろん、それ以上できる人もいるが、選手によっては、30歳くらいまでがピークで、そこから伸び悩み、さらに無理をしてけがをしてしまい、そのまま現役を続けられないということだってありえるのだ。
そうなると、引退の二文字が頭をちらつき始める。
いくらプロにまで進んだとしても、ある程度の成績と、ネームバリューがなければ、コーチなどの指導者として残るのは難しい。
そうなると、引退後は第二の人生ということになり、中には球団職員という形で、本当の、
「縁の下の力持ち」
のような仕事をせざるを得ないようなことになりかねないだろう。
つまり、マネージャーだったり、広報だったり、スカウトという仕事もあるだろう。
それまで、一応プロの選手としてのプライドもある。そこまでの成績が残せなかったとしても、それまでは、野球界においては、それなりに、
「勝組」
だっただろう。
プロの甘くない世界では、鳴かず飛ばずだったかも知れないが、
「地元の期待」
などと言われて、プロ野球の世界に足を踏み入れた人なのだ。
ただ、最近は、昔と違い、育成選手という形で入団することもあり、育成の中から、エースになったり、球界を代表するような選手になることもある。だから、入団の経緯よりも、選手として、どのような活躍をするかということが大切なのである。
そんな選手も引退する時は、静かに引退する人もいれば、華やかに、引退試合をもよおしてくれるような人もいる。
それはどの世界でもそうだ、スポーツに限ったことではない。ただ、どうせ辞める時がくるのであれば、
「華やかなセレモニーの中で引退したい」
と思っている人がほとんどだろう。
「自分のために、まわりが企画してくれて、自分のためだけに、自分のファンが集まってくれる」
そんなことを考えると、
「野球選手冥利に尽きる」
といえるだろう。
そこまでいけば引退して、その選手はコーチなどのスタッフになり、
「将来は監督の椅子」
が待っていたり、
「いくつかの放送局からオファーがあり、解説者としての道が用意されることになるだろう」
という道が待っている。
だが、この間まで選手だった人が、今まで一緒にやっていた選手の活躍を見て、身体がうずいてきたりはしないのだろうか?
そんなことを考えていると、
「選手として、本当に燃え尽きたんだろうな?」
と解説を普通にできる人には感じさせられる気がするのだ。
ただ、引退した選手でも、引退後にどういう仕事をするか、ピンからキリまである。やはり、
「野球関係の仕事に携わっていたい」
と思うのは当たり前のことではないだろうか?
ただそれも、どこまで考えるかというのは、その人の微妙な心境によるかも知れない。
もちろん、野球関係の仕事に残りたいと思ったとしても、実際に、雇う側が採用してくれないと、当然敵わないことであり、有名選手だったからといって、皆が監督に推すようなことはないだろう。
特に、超有名選手が引退し、ちょうど監督の椅子が空いたことで、引退したスーパースターが、そのまま監督に就任したことがあった。
鳴り物入りでの就任だったが、終ってみれば、
「球団史上初の最下位」
などという不名誉な記録だったりした。
「有名選手、必ずしも名監督にあらず」
と言われているが、実際にそうだったのだろうか?
監督の作戦がいくらいい作戦でも、それに選手がうまく機能しなければ、失敗に終わってしまう。
前任監督の作戦と、今回からの監督の作戦があまりにも開きがあったりすれば、選手もうまく機能しないのも無理もないことではないだろうか?
しかも、今監督をしている有名監督が、毎年三冠王を狙えるくらいの成績を残している人だったとすれば、その選手が抜けたという穴は大きいだろう。
もし、ピッチャーだった場合、いつも勝率がすごく、いつも15勝以上して、負けが、4,5敗くらいだったら、一人で今まで、10個の、
「貯金」
をしていたのに、それが、一気になくなったのだとすれば、どうだろう?
しかも、相手チームからすれば、監督が選手だった時は、恐ろしいチームだと思っていたとしても、選手でなくなった時点で、一人、いつも気を使わなくてもいい選手が一人いないのである。これほど気楽に戦えることはないのではないだろうか?
要するに、いつも注目される選手がいないだけで、いつもの優勝候補チームが、
「ただの、平凡なチーム」
になってしまっただけになるのだ。
だが、それを証明したのが、最下位の翌年、リーグ優勝をしたことだった。
きちんと、自分が抜けた穴をしっかり埋めるべく補強もしっかり行い、前のシーズンの悪かったところを研究すれば、一年目で勉強したことが二年目以降で花を咲かすことができる。
それが、監督というものだということを、どれだけの世間の人が分かっただろう。きっと、ほとんどの人は、
「名選手、名監督にあれず」
と考えていただろう。
だが、最下位になったということだけを捉えて、
「ああ、やっぱり、点は二物を与えずだな、しょせん、選手でも監督でも大成できるという人なんていないんだ」
と皆が思ったことだろう。
ある意味、
「監督というのは、それだけ難しいものなんだ」
と思えれば、少しは違うだろう。
確かに、監督というもの、すべてに目を通していて、それぞれのポジションでは、コーチが選手を直接指導する。だから、コーチともコミュニケーションが必要だし、監督だからと言って、暴走してしまうと、まわりがついてこなかったりする。
何よりも、
「監督が、すべての責任を負う」
ということである。
チームが勝っても、選手がヒーロー。優勝すれば、監督の脚光を浴びるが、ずっと最下位に沈んでいれば、いくら鳴り物入りで監督になっても、球団フロントが、簡単に監督に見切りをつけないとも限らない。
自分が失敗したり打てなくて勝てなかった場合と、自分の采配に間違いはなく、選手がしたがってくれなかったことで、監督になるとその責任まで負わなければいけなくなる。そもそも、その監督は選手時代、挫折はなかったとは言わないが、少なくとも、努力した分、報われてきた監督なのだろう。選手が少しでも楽をしようとしているのを見ると、どう感じるだろう。あまりにも選手との間に開きがあり、それが見えていたとするならば、監督としては、見えない壁の板挟みになっているということになるのではないだろうか?
「天才の気持ちは天才にしか分からない」
当然、まわりもその監督の動物的な勘が分かるはずもない。下手をすれば、コーチ陣も敵に回さないとも限らない。
「こっちは何年もコーチをしているというのに、引退してから、いきなり監督かよ?」
と思って妬んでいる人だっているに違いない。
不協和音が、チームの間に噴出してしまうと、なかなかそれを解決する手段が取れてこない。
ある意味、タイミングが狂ってしまったといっていいだろう。
そのタイミングというのは、
「最初はそうでもなかった。まわりは、必ず、監督がうまくまとめてくれると思っていたのだが、その監督に対して、まわりが信用できなくなり、しかも、昔からの妬みなどが生まれてくると、もう平行線が交わることはない」
という、半永久的に交わることはありえない世界を、作り上げてしまうことになるだろう。
それは、もちろん野球界だけではなく、芸能界でも、当然、一般の会社にでもあることではないだろうか?
タイミングの問題というと、前述の、心理ゲームやパズルゲームにも言えることなのかも知れない。
本当であれば、勘が鋭い人が考えた場合、最初にピンと来てしまうと、すぐに回答が生まれ、
「スピード記録だって出るかも知れない」
というほどなのだろうが、それはあくまでもタイミングがうまく行っている場合のことであり、少しでもタイミングが狂ってしまうと、そこから先は、どんどん離れていってしまっていることに気づくと、焦りしか残らないといってもいいだろう。
一度狂ってしまうと、元に戻らないという感覚は、
「最初に思い込んでしまった答えが、頭から離れずに、特に言葉のゲームなどでは、その時の最初の一言や、その言葉の全体が邪魔をして、いつもの勘を引き出すことができなくなってしまう」
といってもいいだろう。
しかも、生まれてくる焦りは、普段あまり感じたことのないものであり、いつも最初に勘がうまく働いて、答えを導き出してくれるものが、一度狂ってしまうと、それを取り戻すのは、至難の業なのかも知れない。
「今回はたまたま、うまく行かなかっただけで、次からは大丈夫ですよ」
と、まわりは簡単にいう。しかも、言われたことは、まさにその通りで、言われたことを誰も支持て疑わない。そのため、伝説はこれからも続いていくと思われてしまうのだ。
それこそ、名選手が監督になった時と同じだ。
まわりは、途中までは、
「いやいや、まだまだ、こんなものじゃない。あの人には神通力のようなミラクルがあるんだ」
という人もいるだろう。
実際に、現役時代、途中まで、チームがうまく行っていなかったが、途中から快進撃が始まったのだ。
考えてみれば、途中までチームが乗れなかったのは、その選手の不調が絡んでいて、途中からスランプが抜けたとたん、チームが勝ち始めた。
そして歴史的な大逆転優勝を成し遂げると、その選手一人で勝ち取った優勝であるかのように言われるのだ。
そもそも、全般、スランプだったことが、ある意味戦犯だったのだろうが、終ってみれば、最期の快進撃しか、ファンは憶えていない。ファンとは現金なもので、目立つところしか見ないものだ。
ただ、この年そのまま、優勝できなければ、戦犯は間違いなく、この選手だろう。しかし、年が明けて、翌シーズンのキャンプが始まると、
「今年はやってくれるだろう。今年は優勝だ」
と、昨年のことをすっかり忘れていたりする。
それが監督になると、思った以上にうまく噛み合わないと、風当たりはすべて自分に来てしまう。それまで努力は報われてきたことで、挫折を味わったことがないことで、世間は、今までと違い、
「やっぱり、監督には向いていないんだ」
と簡単に諦めてしまうのではないだろうか?
それまでチームに対して貢献してきた絶対的ともいえる貢献度は、監督としては、まったくの未知数から始まっているからだった。
しかも、パズルゲームと同じで、一度迷ってしまうと、最初の残像が残ってしまい、迷いから抜けられなくなる。それを知ることが、泥沼から抜ける近道であることなのだろうと、気付いた時には快進撃が始まるのだった。
そんな中で、あるチームが、今最下位に沈んでいた。
そこでは、監督が新人監督で、コーチ陣の方がベテランだったのだ。
そこで、毎日、スタッフによる定例会議が、午前中行われるのだが、いつも、投手コーチ側と、打撃コーチ側とに分かれて、激論が交わされている。
他の球団では、ここまでのことはないのだろうが、ここの新人監督は、元々、このチームのことしか知らなかった。
この監督も、伝説的なスーパースターではなかtったが、球界を代表するような選手だった。
選手時代は、結構、作戦面での忠実に動いていて、前任監督にアドバイスを送るくらいの選手だったのだ。
当然、選手としての信頼は首脳陣からの厚く、コーチもその選手のいうことであれば、素直に助言を受け入れていた。
それが、前任監督が体調を崩し、休養に入ったことで、チームは、その年、優勝争いに参加することができなかった。
シーズン終了後に監督はそのまま辞任することになったのだった。
新監督に就任することになったその選手は、そもそも、シーズン前半から、
「今年で引退」
と腹を決め、まわりに、そのつもりだということを話していたので、フロントの監督人選の中に、彼の名前が挙がったのだ。
もちろん、フロントの中には、
「時期尚早だ」
という意見、
「コーチや二軍監督を経験させてからの方がいい」
という慎重な意見もあったが、そんな中、スカウトの人や、二軍監督から、彼を推す意見が強かったことのあり、今期の監督に就任することになった。
本人も、さすがに悩んだようだが、最期には、
「チームへの恩返しができれば」
ということで、監督に就任することになったのだ。
就任挨拶の後、世間の評判としては、それほどビックリするような反応ではなかった。
「なるほど、今度の新監督ならやってくれそうだ」
という意見、
「前監督の考え方を継承しているので、チームをまとめるのはうまいだろうな」
という意見などが多かった。
前任監督は、就任期間が10年と結構、長期政権だった。その間に、リーグ優勝が4回、日本一が一度と、十分な成績をチームにもたらしてくれた。
この監督の前は、なかなか、優勝争いにすら参加できないようなチームで、一番の問題は、偏ったチームだったことだろう。
投手陣が活躍する年は、打撃が振るわず、打撃がいい時は、投手陣が持ちこたえられずという感じで、
「せっかくの選手の個性が生かされない」
と言われてきた。
優勝候補にもなかなか上がらないチームを立て直すには、ということで連れてきたのが、前監督だった。
前監督は、作戦では妥協をしないことで有名で、ただ、選手にはそれほど厳しいわけではない。
同じ時期に優勝争いをした監督の中には、
「管理野球」
を掲げ、選手の生活にまで干渉していたのだ。
だが、それはそれでよかったと思っている選手も多かったが、全体的に見て、
「締め付けすぎだ」
といわれることが多かった。
しかし、このチームの監督は、私生活にまで入り込むことはしなかった。
だが、逆に言えば、その分、成績だけで判断されることになり、成績が悪ければ、いくら陰で努力をしていても、二軍に落とされたり、試合には出れないという憂き目を見ていたりした。
中には、
「トレードに出してほしい」
といって、直訴する選手もいて、そんな選手に対しては、
「分かった」
ということで、さっそく他のチームにはかって、トレード候補になったものだ。
だから、人によっては、
「血も涙もない」
という人もいたようだが、そもそも、プロの世界というのは、そういう弱肉強食の世界であり、成績がすべてだと言われるのが事実の世界なのだ。
確かに、
「血も涙もない」
と思われるところのある監督であったが、逆に、引退していく選手に対しての敬意を忘れることはなかった。
それは、活躍した選手だけではなく、活躍できず、志半ばで見切りをつけた選手に対しては、結構、暖かい気持ちを持っていたのだ。
辞めていく選手の中で、ほとんどが、その監督の下でプレイができてよかったといっている人が多かった。
そういう意味で、
「温厚な監督だった」
と言われることも多かったのである。
そういう意味で、本当は、もう少し監督を続ける予定だったようで、体調を崩したことにフロントもビックリしていた。
確かに年齢的には、高齢ではあったが、それを感じさせないほどの若々しさがあったことで、皆安心していたところもあったのだが、まわりが見るよりも、、結構心労が激しかったようで、最期は本人が、
「チームに迷惑をかける」
ということになったようだ。
このまま、すべてを引退するということには言及しなかったので、いずれは、戻ってくるつもりでいるだろうということは、皆思っていることだった。
「しばしの休息」
ということで、了承したフロントは、さっそく、次期監督の人選に入ったのだった。
結構、意見は紛糾した。
正直、候補がそれほどいたわけではなかったからだ。
つまり、監督人選にはいくつかの考えがある。
まずは、監督経験豊富で、今フリーで解説をしている人のパターン、これが一番可能性としては大きい。
そして次に考えられるのは、自チームの生え抜きで、監督経験は別にして、今は解説などをしている人。これは、ある意味、人気を優先しているという感覚が強いかも知れないが、監督人選としてはありえることだった。
そして、次は、内部昇格である。コーチ陣や、二軍監督から、一軍監督に昇格させるというやり方だ。
実際に、このパターンで監督になった人も結構いて、特に最近は、それで成功した例も結構あるようだ。
何と言っても、選手の特性を分かっている。二軍監督などは、まだ活躍する前の選手の、いいところがどこなのかという基本的な部分を分かっているということで、しかも、選手との距離も近い、チーム編成としては、うまくいくという考えもあった。
そういう意味で、最終決定した今回の監督人事が決定するとは、誰が考えたことだろう。
当然会議はもめにもめた。
まず、一番考えられる解説者の中からという考えであったが、ちょうど、、いい人がいなかった。
テレビ局との繋がりであったり、すでに他のチームの監督に決まっていたり、本人が監督はしばらくはいいと感じている人、さまざまだったが、実際にやってくれそうな人は一人もいなかった。
影の理由として、
「前任監督の色が強いところの後の監督を引き受けるのには、二の足を踏む」
という気持ちが強かったからだろう。
今度は、チームの生え抜きを探してみたが、こちらも、いい具合の人はいなかった。
最終的に、内部昇格だったのだが、その時に、スカウトの人が出した意見が、今回引退する選手への監督打診だったのだ。
この時は、さすがにフロントは結構意見が割れた。
かつて、スーパースターが監督になったとたん、球団史上初の最下位に沈んだからだ。
「彼にその道を歩ませるのは、酷ではないか?」
という意見があったのだ。
やはり、意見はひっ迫し、紛糾もした。なかなか決まらず、ずっと会議だけが進んだのだ。
それも、水面下でのことだったので、知っている人は数少ない。マスコミも分かっていなかったことだ。
ただ、毎日、首脳陣の会議は行われていて、皆の表情が憔悴しているようだ。それを見た、
「番記者」
が、新聞記事に書いたこととして、
「フロントによる、毎日の小田原評定」
という言葉だった。
聞き慣れない言葉だったが、知っている人は、
「なるほど」
と感じたことだろう。
「小田原評定」
という言葉、果たしてどれだけの人が知っているというのだろうか?
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