第3話 芸術家志向

 高校時代に好きだった絵であるが、絵を描いているうちに、

「自分って、芸術家に向いているのではないか?」

 と感じるようになった。

 それは、絵が出来上がることにおいての、

「新しいものを作り上げる」

 という発想だけではないような気がした。

 どちらかというと、プログラマーに似た発想があるのは、

「理論づけて、考えることができるからだ」

 といえるからではないだろうか?

 絵を描いていると、

「目の前に見えることを、ただ描写しているだけだ」

 と最初は思っていた。

 一種の、模写ということなのだろうが、あくまでも、面倒臭いという意味で、

「省略できるところは、省略して書こう」

 と感じたことだった。

 確かに、写っていないものを絵に描いてしまうと、

「ウソを描いた」

 ということになるのだろうが、

「省略というのは、ウソをついているわけではない」

 といえるだろう。

 つまり、すべてをそのまま描いてしまうとオリジナリティがなくなり、しかも、ウソをつくことが嫌いなのは、

「納得がいかないからだ」

 と思っているのであれば、理由が、

「面倒臭い」

 ということであっても、人のマネが嫌いだということに結びつくのであれば、それはそれで悪いことではないと思うのだった。

 そういえば、以前、推理物のドラマを見た時、

「自称:画家」

 という人が出てきて、その人が犯人だったのだが、彼が犯した犯罪が、

「妻殺し」

 だったのだ。

 その時、刑事に、犯行は見破られたのだが、その理由について聞かれた時に答えた内容が印象的だったのだが、

「画家というのは、いつも目の前に見えていることがすべてだと思って描いているわけではないんだよ。時として、大胆な省略も必要なんだ」

 といっていたのだ。さらに、

「だから、私は気づいたんだ。私にとって、妻という存在が不要なものであることにね。だから、大胆に省略したまでのことだ」

 という、言い訳にならないような言い訳に、刑事たちは、何ともいえない、やるせない表情になっていた。

 しかし、その人たちの顔の中には、やるせなさが、犯人に対しての怒りというわけでもなく、気の毒なイメージにも見えたのだ。

「ひょっとすると、刑事たちの中にも、同じように、何かを大胆に省略したいが実際にはできないものがあるということを、ずっと感じながら、どこかやるせなさというものを抱えて生きているのではないか?」

 と感じられたのだった。

 やるせなさというものと、実際に省略するものが、人間だから悪いというのであり、

「それが人間でなければいい」

 という問題なのだろうか?

 見ていて、松下はそんな風に感じたのを思い出していた。

 そういう意味でいけば、

「誰にでも、いなくなってほしい」

 と思う人は、一人や二人はいることだろう。

「罪に問われてしまう」

 という思いがあるから、やらないのか?

 それとも、

「人を殺してはいけないというのは、常識である」

 というモラルからそう思うのか。

 下手をすると、宗教的なイメージで、

「地獄に堕ちるのが嫌だから」

 という人もいるだろう。

 だが、動機は人それぞれ、その人の立場や、状況によって、

「殺さなければ、自分の命が危ない」

 という人であれば、ある意味、殺人も致し方がないことかも知れない。

 ただ、それも、

「他にまったく方法がなければ」

 という条件付きであるが、それを考えずに、

「人を殺めること、そのすべてが悪いことだ」

 というのは、本当にいいことなのだろうか?

 しかも、

「自殺も、自分を殺すことと同じなのだから、それすら許さない」

 ということであれば、

「これほど厳しい戒律もないものだ」

 といえるのではないだろうか?

 そうでなければ、自分が殺されたということを考えると、結局、

「誰かが死ぬことになるのだ」

 ということになり、それがなぜ自分なのかと考えて、

「殺される前に殺す」

 と考えることの何が悪いというのか?

 考えてみれば、日本の刑法にも、

「違法性の阻却」

 というものがあり、人を殺しても罪に問われない場合もある。

 さらに、犯罪者が、精神薄弱であったり、精神喪失状態であれば、

「無罪と処す」

 ということもあるのだ。

 これは、被害者側にとっては、やりきれない問題だと言えるだろう。

 被害者側にとってみれば、

「そんな精神異常者をのさばらせておくから、こんなことになるんだ。殺された方はたまったものではないではないか?」

 と言いたいはずだ。

 確かに、刑事では無罪となっても、民事の方で、その監督者である者に対して、賠償責任は発生することになり、下手をすれば、

「一生を通して、償っていかなければならない」

 という意味で、実質、その犯人、犯人に関係している人たちは、

「人生が終わってしまった」

 といってもいいかも知れないということになりかねない。

 前述の、

「違法性阻却の事由」

 というものであるが、こちらは、基本的に、

「相手を殺さなければ、自分が死んでいた」

 といえる案件である。

「正当防衛」

 あるいは、

「緊急避難」

 というのが、これに当たり、正当防衛というのは、相手に殺意があり、こちらを殺そうとしている状況において、こちらには殺意はなかったが、抵抗した時、相手が死んでしまった場合などをいい、確かにこれでは、相手を殺しても、罪になっていたのでは、やってられないというものだ。

 緊急避難というのは、船が沈んでいる時、救命ボートに乗り込んだ人が、ちょうど、その時定員ちょうどが乗っていたとして、他の人が船に乗ろうと迫ってきた場合、

「もう一人が乗ると、確実に沈んでしまい、全員が死ぬことになる」

 ということが分かっていた場合、乗り込んでこようとする人間を殺してしまったとしても、やむを得ない場合ということで罪にならない。

 そういうものを、日本の刑法では、

「違法性阻却の事由」

 ということで、殺人とはならないということになるのだった。

 前述のドラマは、だいぶ前の話で、自分もまだ高校生だったこともあって、

「人間を、まるで絵画のように、簡単に省略したり、殺したりなど、できるはずなどないに決まっているのに、まるで、人殺しを肯定するようなドラマを作るなんて」

 と感じたが、今もし、同じドラマを見たとすれば、

「殺したいと思う人がいれば、殺してしまう感情も分からなくもない」

 と思うようになった。

 それは、まだ高校生だった時には、

「世間の荒波を知らなかったからなのか?」、

「それとも、何か他にあるのか?」

 と思っていたが、今思い出せば、

「生きたいと思っている人が、不治の病に侵されていて、生きることができない」

 などという、そんな人もいるのを考えると、人の命を粗末にするということが許されることなのか? と考えてしまうと、決して許されることではないと考えるのだ。

 だから、単純に、

「人を殺す」

 などということを、簡単に考えてはいけないのだと思うようになった。

 もちろん、人を殺してはいけないということは、当たり前のこととして考えてはいたが、それを、

「どうしてなのか?」

 と聞かれた場合、どう答えるかということがわからなかった。

 つまりは、理解できていなかったということであって、理解できていないということは、言葉に信憑性はないということだ。

 しかし、その理屈が分かっていたつもりだったが、そのことをハッキリと分かった時には、すでに、

「人を殺してはならない」

 ということに対して、疑問を抱き始めた時だというのは、実に皮肉なことである。

 逆に、

「疑問を抱いてきたということは、その理屈を自覚できるようになったことから起こったことなので、ある意味、一歩前に進んだのかも知れない」

 と考えることもできるだろう。

 考え方が両極端で、それぞれに理解をしているというのは、そこでの葛藤が、どういう答えを産むか、興味津々である。

 両極端な意見が自分の中で葛藤するというのは、学生の頃にはあまりなかったことだ。特に学校での授業は、高校時代までは、決まっていることを教えられ、テストでどれだけ覚えているかということを、点数にして自覚させられ、それが、そのまま、

「その人の評価となる」

 というのが、どこか理不尽な気がするのだった。

 大学に入れば、発想も行動も自由となり、そこから、自由な発想がどれだけ出てくるかということが、教育となってくる。

 就職に際しても、正直、ずっと勉強してきたことが生かされるわけでもない。

「ひょっとすると、学生時代に勉強してきたことと、まったく違うことを仕事としてしている人もかなりいるだろう」

 ということである。

 その証拠に、松下だって、学生時代には、文系をやってきて、大学に入っても、商学部だったのだ。

 それが、最初こそ、営業志望で来たものが、

「会社の事情」

 ということで、いきなり、コンピューターを扱う、システムの仕事に転属させられた。

 正直、パソコンも、エクセル、ワードを少々扱えるという程度の、普通のサラリーマンだったものが、急に、

「システムに配置転換」

 と言われても、ピンとくるものでもない。

 最初は相当戸惑った。研修にも行かされたが、

「どうしていまさらシステム?」

 と思ってしまい、勉強するのも大変だった。

 確かに、まったくの畑違い、それでも、

「何もないところから、新しいものを作り出す」

 という意味での楽しさと、単体テストをして、自分が作ったものが動いたのを確認できた時の嬉しさは、それまでに感じたことのないものだったということは、間違いのない事実だったのだ。

 そんなことを考えていると、

「絵画において、大胆に省略することがある」

 ということを真剣に考えてみようと思ったのも分からないわけではなかった。

 実際に、今、

「この人には死んでもらいたい」

 と思うような人がいないわけではない。

 今から思い返すと、学生時代にも、一人は必ず、その時にいたように思うのだ。

 逆にいえば、

「仮想敵」

 とでもいえるような相手がいなければ、生きていくうえでの、張りのようなものがなければいけないのではないかと考えるのであった。

 仮想敵という言葉はいささか大げさではあるが、人間に対して、好き嫌いがあるのは当然のことで、それを悪いことだと思い、自分の中だけで解決しようとしてしまうと、きつくなってしまうのも、無理もないことだったりするのではないだろうか?

「自分のストレスを発散させるために、人を殺した」

 というのであれば、動機としてはいささか厳しいものだが、抑えようとしてしまうと、緊急避難ではないが、

「本当に誰かを殺めないと、自分の中で耐えられなくなり、自分が死んでしまうことになる」

 ということになりかねない。

 そうなると、本当に殺さないまでも、自分で思うだけであれば、それは問題ないのではないだろうか?

 そこまで否定してしまうと、地獄は人だらけになってしまい、天国に人間はいなくなる。「地獄に堕ちた人間は、決して、人間として生まれ変わることはできない」

 と言われていることが本当であるとするならば、そうなってしまっても、仕方がないことなのだろう。

 それだけ人間は、

「一生のうちに、最低でも一人は殺したいと思う人がいても、無理もないことだ」

 といえるのではないか。

 だから、あれだけ毎日のように、殺人事件が発生し。理不尽にも殺されてしまった人がたくさんいることだろう。

 それでも、生まれてくる人間が、極端に減っているわけではない。

 ということは、

「前世が人間ではなかったという人も、結構いるのかも知れない」

 と言えるだろう。

 そうなると、動物も何かのきっかけで、人間として生まれ変わることができるのだろう。

 だが、そうなると、この世で殺人を犯してしまう人の中に、元々前世が人間だったという人の割合がどれだけいるだろうか?

 そもそも、前世が人間以外だったという人の割合が分からない限り、比較にはならない。

 少なくとも、人の前世が何であったかということが分かってもいないのに、割合など、考えようもないというものだ。

 だが、あくまでも考え方としてだけ存在していても、それは問題のないことであって、勝手な想像ではありながら、自分がどうだったのか? ということに思いを巡らせていけば、分かってくること、感じられることも出てくるに違いない。

 そんなことを思っていると、テレビで言っていた、

「画家というものは、大胆に省略するということもある」

 という意味もおぼろげに分かってくるのではないだろうか?

 もちろん、省略するということが、そのまま。

「抹殺する」

 ということに繋がるのかどうなんかということと、単純に結びつくことではないだろう?

 そんなことを考えていると、実際の絵を描いてみて、大胆に省略する部分があるのかどうなのか、考えてみた。

 自分は、

「絵が苦手だ」

 と思っていたので、どこまで描けるか分からなかったが、やってみると、意外に描けているのにビックリした。

 全体を見渡して描けているようで、そこは、自分でも理解していた。

 そもそも、

「大胆に省略する」

 というのも、全体を見渡したうえでのバランスの問題なのではないかということが大切なのだと思うからだった。

 そう、芸術というのは、バランスが大切である。

 芸術というと、絵画だけではないのだが、特に絵画にはそう思えるふしがいっぱいあるといってもいいだろう、だから、バランスが絵画の魅力の根底を作っているといっても過言ではないのではないだろうか?

 絵画にとって、重要なものに、バランス以外としては、

「遠近感」

 というものがあると思っている。

 バランスとしての例として、例えば、風景画の中でも単純ともいえる、

「水平線を中心にした、海と空を描いた」

 ということにしようか。

 そのために正面から、被写体として、海と空を見渡した時、水平線が、キャンバスのどのあたりに来るかということをまず、考えるであろう。

「普通であれば、大体、空が7とすれば、海の部分が、3くらいではないだろうか?」

 と、感じたとしよう。

 しかし、今度は、股の間から、つまり、日本三景の天橋立で見るような。

「股覗き」

 というやり方で、逆さに見たとすればどうなるだろう?

 きっと、水平線は、自分が見ている中で、かなり低い位置にあるのではないか?

 それこそ、海が7で、空が3も割合くらいにである。これでは、最初に正面から見た構図と正反対ではないか?

 といえるだろう。

 これは、一種の錯覚で、上下でまったく違って見えるという意味で、

「サッチャー錯視」

 と言われるのと同じような感覚なのかも知れない。

 特にこれが、人間の顔であれば、もっと顕著に見えるかも知れない。それは、人間の顔というものが、

「見る角度によって、同じ歪んで見えたとしても、普通に見れば、笑顔に見えるものも、逆さだと、感情を掴み切れずに、無表情であるか、あるいは、まったく正反対に見えるかも知れない。それは、口にだけ言えることではなく、目だって同じだ。しかも、それが、作られた表情なのか、普段からの表情なのかに左右されることはない。

 ということになれば、逆さに写った顔を判断する時、

「無表情でしかないのではないか?」

 と考えたとして、無理もないことに違いない。

 と考えられるのではないだろうか?

 このサッチャー効果に近いものが、風景画を逆さから見た時に感じるもので、

「天橋立」

 の場合は、普通に見れば、陸地同士を、どんどん狭くなっていったその先で、ギリギリの道として見えているものだが、それを逆転させると、

「まるで竜が天に昇っていくかのように見える」

 というありがたい様相に見えることでの絶景スポットになっていることから、日本三景の一つとなったに違いない。

 ただ、世間に無数にあるであろう展望台にて、逆さから同じように見た場合に、まったく違った別のものに見えるというのは、結構あるだろう。

 しかし、

「竜が天に昇っていく姿」

 のような、霊験あらたかなものが、どこでも見れるというわけでもない。

 むしろ、

「天橋立だから」

 ということで、皆からありがたがられる方が大切ではないか。

 確かに世の中に無限にそんなところがあれば、ありがたみはどんどん減っていって、元祖であるその場所から、霊験あらたかさから、離れた存在になるというのは、実にもったいないことであり、残念なことだと言えるだろう。

 しかし、本当は、

「何が見えたから」

 というのが大切ではなく、

「逆さから見ると、普段とは、まったく違ったものに見える」

 ということが大切なのであろう。

 そんな、バランスを見るためのサッチャー効果であるが、これには、遠近感という別の側面を見ることもできる。

 そもそも、サッチャー効果、サッチャー錯視というのは、かつてのイギリスの女性首相であり、

「鉄の女」

 という異名を取った、

「マーガレット・サッチャー」

 からの由来であった。

 逆さから見た表情がまったく違って見えることで、上下を逆さまにすると見え方が違って感じられるという効果を錯覚として捉えた考え方だといってもいいだろう。

 さっちゃアー効果によって得られる遠近感、これは、バランスの違いが及ぼす錯覚とも同じなのかも知れない。

 遠近感を考えた時、特に水平線から手前とその先の空とでは、本当は相当な距離の性あるだろう。

 しかも下に下がっていくほど、こちらに近くなっているという感覚、同じ大きさでも大きく見えるはずだという感覚が、逆さにした時に錯覚を呼ぶのだ、

 砂浜であったり、海面であったりするものは、絵に描いたり写真で見たりしても、何かがあるわけでもないから、捉えどころがない。それなのに、

「手前に来るものが近くだ」

 ということで、本当なら下に行くほど大きく見えるということを、感じるとすれば、

「それは錯覚でしかない」

 ということになり、基準となるものが分からないことで、そう感じるのだ、

 そうなると、逆さにしてしまえば、まったく逆の効果を呼ぶのだろうが、感覚的なことでは、

「下の方が、近くに見える」

 と思って見ていると、空が本当に近くに見えてくるし。

 実際には、

「海面の方が近くなんだ」

 ということは理屈で分かっているからこそ、錯覚に抗おうとしても、そこに無理が生じ、錯覚を引き起こしても、それは、仕方のないことだと思うようになれば、錯覚が見えたとしても、それは無理のないことであると言えるだろう。

 絵を描くにおいて、

「バランス感覚」

「遠近感」

 というものが必要だとすれば、行き着く先は、絵を描く場合においてということになるのだが、

「立体感」

 ということになるのではないだろうか?

「サッチャー錯視」

 において逆さから見ると、どうしても、立体として認識することが難しいのだとすれば、そこに生まれてくるのは、錯覚でしかないのだ。

 普通に見て、

「これが普通だと思えば思うほど、逆さに見ると、

「これは錯覚だ」

 と思うようになるしかないだろう。

 そう考えると、写った錯覚は、

「どこまでが本当で、どこからが錯覚なのかという曖昧さが問題になるだろう」

 といえるのではないだろうか?

 それだったら、

「最初から、すべて錯覚だった方が、自分として受け入れられるのかも知れない」

 と思えるのだった。

「絵画を志す上で、錯覚というものは、切っても切り離せないものだ」

 といえると考えれば、

「錯覚というものも、自分の中でどこかでが許容できるものなのかということを考えておく必要がある」

 といえるのではないだろうか?

 サッチャー錯視も、

「絵画を志す意味で、避けては通れない課題なのだとすれば、甘んじて受け入れ、どういうものなのかを自覚する必要が大切だろう」

 と言えるのではないだろうか?

 芸術というものが、いかに錯覚や思い込みに入り込んでくるか? それが問題なのではないだろうか。

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