カーボンナイズド・アバンチュール
絢木硝
終演
「それじゃあ、約束」
柔いオレンジのパーキングエリアで、あなたが振り向く。
あのとき、燃やしてくれれば良かった。
*
大学が燃えた。
それはヘアアイロンが冷たくなって発見された、春の日のことだった。
どうしてテレビ売り場は、家電量販店の中でもいちばん奥にあるのだろう。ずらずらと三段重ねに掲げられた液晶パネルは、ただの壁や硝子窓よりも妙な圧迫感をこちらに与える。見るともなしに眺めた広い画面には、示し合わせたように雄大で壮大で嘘っぽい大自然が映されていた。海、山、砂漠、サバンナ? 美しいことは否定しないけれど、それでおしまい。記憶には残らない。それに店員の欠伸ばかりが目立つがらがらの店内では、映像が美しければ美しいほど居た堪れなくなる。
だけど、ひとつだけ。
ひとつだけ、まっかな特価品の値札のついたテレビにだけ、人間が映っていた。糸を引かれるように、私の視線はそこへ吸い寄せられる。人間。黒い何か。何が。ひどく記憶が騒いだ。確信の予感を手繰り、精査し、手を伸ばし。
煙草の香りがした。
その瞬間、居並ぶナショナルジオグラフィックがまとめて色褪せた。
液晶画面に映っていたのは、まだ煙が上がって見えるほど生々しい火事現場だった。窓枠に色硝子の破片がへばりついている。割れたのか、割られたのか、溶けてしまったのか。それすらも分からない。ぎざぎざに切り取られた向こう側に満遍なく炭化した梁が見えた。満遍なく。ひび割れた壁の隙間の全てに炎の影が宿る。完膚なきまでに建物としての機能が終わってしまったのに、そのほんの少し向こうには確かに見慣れた景色があった。それが見て取れてしまうから、きっと何もかも崩れてしまった方がよっぽど良かった。こんな有様では、否応なく焼け焦げた空虚に生活を見出してしまう。建築物の輪郭だけが残されていていたために、骨組みが年若い廃墟を切り取る。フレームの内側で巻き戻らない、焼け落ちた日常が映される。
大学が燃えた。正確に言えば、キャンパスの中の、六号館エリアの中の、研究棟の中の、とある一棟のうち数部屋が燃えたという。見覚えのある一角だった。私の所属していたゼミの、よく知った、私の、私たちの。
火は既に消し止められたけれど、放火なのか事故なのかは未だに不明らしい。でも怪我人はいなかった。ただ建物が燃えただけ。いかにも望遠レンズで撮ったような映像が、建物の中の炭になったアスファルトを映していた。黒い情景の中で、警察らしき人たちの白い姿がやけに浮いて見えた。生きて、動いている人間の方が不自然に見えるほど、その一角は死んでしまった土地だった。終わってしまっている。
「約束」
あつらえたように、今日は金曜日だった。週末の予定はどうとでもできる。どうとでもしてやる。東京行きの飛行機の始発の時間を思い出しながら、目についたヘアアイロンの箱を掴んだ。幻想の煙の匂いが鼻の奥で香っている。勘違いした涙腺がびくびくと跳ねた。気色悪い。目が痛くなるほど白いタイルを蹴飛ばし、大股でレジまで歩いていく。
燃えた、の、ならば。
約束を、果たされに行こう。
*
ゼミの教授は、どこに出しても恥ずかしいくそじじいだった。
学会に出席させても、講演会にお呼ばれされても、事務室で手続きさせても、とにかく嵐のように面倒ごとをばらまいた。口も態度も手際も悪い。天上天下唯我独尊と言ってはそれこそお釈迦様に失礼だ。そしてその面の皮と、生徒に課される週ごとの課題はとてつもなく分厚かった。妙なところでバランスをとるな。いや全然とれてないけど。
しかし同時に共通のしばき回したい敵と、爪先くらいの切実な探求欲と、呆れるほど面倒な転属願が、私たちゼミ生を結束させていたことは事実だ。私たちはことあるごとによく呑み、くだを巻き、最後は決まって笑いあった。
そのゼミの中で、ひとりだけ浮いている人がいた。人間関係からも、立場としても、ぽつねんと浮かんでいた。
彼は、その名前は私の心情に悪影響なので控えさせていただく、うちのゼミのアシスタントティーチャーだった。大学院の一年生で、我らが教授に師事しているという。その先輩の存在が正しく認識されたとき、私たちゼミ生の感想はひどく奇特な人だというもので一致した。何も好んでこんなやつの下で働かなくとも良いのに。そのうち、もしかしたら弱みでも握られているのかも、なんて失礼な想像まで飛び出した。しかもそれは存外説得力を感じさせる説だったりしたのだ。
「さすがにそんなことはない。いや別にあの人のこと庇うわけじゃないけど」
先輩は何かを否定するとき、少しだけ早口になった。そのあからさまな速度に含まれる優しさと卑屈さは、贔屓目に見ても五分五分だ。
鳥の巣のようなコーヒー色の髪の隙間から、凝った意匠の眼鏡のつるが見え隠れする。ひたすらにひょろりと長い体型は、季節を問わず丈や厚みの違うニットに覆われていた。スニーカーにはこだわっていたのに、それが強すぎるゆえに履き潰すことをひどく恐れている。そのくせ履き回せないほどたくさん買ってしまうのだという。目を引く装飾とそれ以外の要素がでこぼこで、なんだか不健康な人だった。そういうふうに、自分で装ってみせるような青年だった。
「ですよねえ。でもそれくらいのことがなきゃ、院に行ってもこんなゼミに残らないっていうか、あの教授の下で研究なんかしないんじゃないかって、みんな思ってんですよ」
「ああ……。言わんとしていることは理解した。でも、俺のやりたいテーマはここが一番なんで、仕方ないっていうか。教授もまあ、論文とかは参考になるから」
まるで自分に言い聞かせるように、先輩は火についた煙草を指先で遊ばせる。その仄かな輝きが苦笑に暖かみを添えた。ゼミは毎週木曜の六限目だから、大体のゼミ生は授業時間が終わり次第少し急ぎ足で大学を出て行く。だからこうして夜になった構内の喫煙所に入り浸るのは、私と先輩くらいだ。
初めてまともに会話したときもそう。
あの日はバイト先で流れるように皿を叩き割り、卒論のテーマ発表で教授もといくそじじいに集中砲火された日だった。その説教のていをした八つ当たりの中で何故か資料整備をするよう申し付けられ、ゼミ室に大量の紙束と一緒に置いて行かれた。わりと真剣に全部燃やしてやろうかと考えてみて、火種を持ち合わせていないことに思い至る。それが死ぬほど悔しかった。
資料整備は元々先輩の仕事だったらしく、ゼミ室に入った私をみとめた彼はうず高い資料の山々を背景に目をしばたかせた。それから遭難でもしているかのように視線をさまよわせ、弱り切った声でホチキスの場所を呟く。そこのクリアボックスの、二段目。彼の声は教室で聞くよりも随分低かった。テノールと呼ぶよりもバリトンといった方が近い。けれどそんな声楽用語が似合わないくらいには、やけにくぐもって聞こえた。
それから小一時間ほど、私は先輩が分類したプリントをホチキスで製本していく作業に従事した。彼が話しかけようとする気配はあったけれど、私の沈痛な面持ちを慮ってか声は吐息に消えるばかりだった。紙がさらさらと折り重なる音は潮騒めいていて、聞きようによってはとても落ち着くサウンドエフェクトになったはずだ。害意と自己嫌悪をぐつぐつ煮詰めていた私には効果がなかったけれど。
不意に吐息が日本語の形を真似る。それが数回ほど繰り返された後で、呼びかけの独立詞が物静かな部屋へ放り出された。
「あのさ」
「あい」
「俺、このあと煙草吸ってからここ閉めるつもりなんだけど、高濱さんはどうする?」
今にして思えば、これは理由をやるから早く出ていけという遠回しな優しさかつ拒絶だった。だってここを閉めるという彼の背後には、まだ未分類の資料たちが山脈となっていたから。きっと普段だったら意地でも見逃さないような分かりやすいポーズ。だけど。
煙草。
火が、あったら良かったのに。
「私も吸いに行きます」
「え。高濱さん、煙草吸うの?」
「いや吸ったことないですけど。なんか、喫煙所に行ってみたくて。だから買ってきます。その後ならもうちょっとさくさく働ける気がしますし」
私の視線が自身の背後のプリントに向けられていると気づいて、彼は僅かに目を引く赤を湛えた唇を地面と平行にする。言葉を留めることに慣れたそれが、不格好な否定の言葉を離陸させようとした。けれど私の顔を見て、彼は油の足りない動きで口角を持ち上げる。高い屈折率を誇る硝子の奥で、先輩の目が私に向けられるのが分かった。
「……じゃ、一本、あげる」
「いただきます」
疲れて鈍くなった頭は、どうしてか想定以上の厳めしさを表情に投影した。彼は少しだけ戸惑ったように、そのくせ少し吹き出しそうに下唇をたわませる。節くれだった指が目尻をなぞり、そのまま複雑な文様を描く黒髪に指先を差し入れた。ざらりと前髪が持ち上げられ、瞳が柔いハイライトを得る。
「うん」
先輩の背に続いて、夜の研究棟へ繰り出す。膨大な数の生徒を余さず飲み込むために設計された大学の構内は、夜においては収めるべきものを失ってぽかりとした空間ばかりを晒していた。私はいつか読んだおとぎ話の鯨を思い出す。鯨は大きく口を開けて餌の小魚を、海を、闇を、それに意志を欲されたお人形とこおろぎを飲み干してしまうのだ。もちろんだからどうということもないけれど、足は自然と速まった。先輩のよれたカーキ色のニットは、間接照明ばかりの室内ではひどく頼りなかった。そのくせ前を行く足取りは不思議なほど迷いがない。
ゼミ室のある棟を出てすぐの、植え込みと隣の建物の狭間に喫煙所はあった。喫煙所というと大学が設置した正式な設備のようだけど、連れられてきたそこはたまたま空いた空間にくたびれた吸い殻入れを置いただけの場所に見えた。雨水の溜まったちっぽけなバケツが言い訳がましく打ち捨てられている。
通い慣れていたと思っていた構内の片隅に、ゴミ捨て場よりもさびれた喫煙所。不気味というより不法な場所だ。ほんの少し、先輩の言葉のまま帰っていれば良かったと思った。
それなのに、初めての喫煙は悪くなかった。
思い切り吸い込むのではなく、煙草をくわえて舌を喉へ引くように煙を吸うのだと彼は言った。そうして火のついた煙草をそっと私へ差し出す。それを恭しく受け取って、白い巻紙がじわじわと焙られていく様を観察した。フィルターを持っているはずなのに指先まで熱を帯びるのは錯覚だろうか。気のせい、じゃ、ないと良いな。顔を上げそうになって、そうしたら先輩と目が合ってしまうと思った。だからそのまま、吸い口に唇を寄せる。
「どう?」
私の息を受けて、白い巻紙は一瞬だけ瞬いた。
あ。火、だ。
その明るさに、私は顔を上げてしまっていた。揺れる視界の向こうで、細やかに傾げられた白い首筋が見えた。ああ。見てしまった。
抗いようもない、知らなかったはずの興奮がざあっと胸を焦がす。ここがまともな場所ではなくて良かった。今までの考えを翻し、胸中でひとり呟く。こんなに薄暗い空間なら先輩は私の顔を見ることができない。だからきっと、この視線の先にあるものも、嘘も、欲も、彼には見咎められない。
「サイコーですね」
「そう。うん、そうでしょ」
曖昧な私の視界の中で、彼は初めて微笑んだ。信頼をこちらへ傾ける気配を伴って。だから私は笑ってしまいそうになる。ほら、気づかない。優越感がちりちりと舌を焦がす。本当は、最高なんかでは決してなかった。幻想と錯覚で温まる爪先を、惜しむように、確かめるように、留めるように、親指の腹でなぞる。最高でなくとも、それでも本当に、悪くはなかったんだよ。
むしろ結構、好き、かもね。
その留保付きの結論は今晩も変わらない。ふとした拍子には始まっていた回想を、私は煙と一緒に吹き飛ばす。ふたりで色々試した結果お気に入りになった銘柄をくわえて、改めて笑ってみせた。先輩も早いペースで煙草を吹かしながら、いかにも面倒くさそうに目を眇める。
「教授は論文だけ書いてりゃ良いんだ」
早口で言い切って、こちらを窺う気配があった。だから私はわざとらしく、実際わざとなんだけど、わははと大袈裟に笑ってみせる。それだけで、彼は少し安堵するから。それだけで先輩は、私のことをちょっと馬鹿なおんなのこって思い込んだ顔をするから。そういう会話ばかりしていた。そういう在り方を求められていると分かっていて、同じくらい、そういう役割をこなしてあげようと決めていた。
何も分かっちゃいない、仕方ない人だなって、笑みを象る唇そっくりの平行さで見下して。
カフェラテのフォームミルクに溶け残る砂糖の塊みたいに、ざらりと興奮して、さ。
「まあ、今からこんなこと言ってちゃ合宿でやっていけないかもしれませんが」
「あー。合宿なあ……」
「なんですなんです、言い澱んじゃって」
「うん、一緒に頑張ろう!」
「不吉だなあ!」
会話に親密な間柄にだけ許されるような小さな棘を撒いて、それをくるりと回避するさまを見せつけて、そうであってほしいと願われる姿のままに振る舞う。望むままに、だけど時々シナモンみたいな予想外を差し込んで。私との会話、楽しいでしょ。ねえ。ねえ?
だから私のこと、好きになっても良いんですよ。
あの頃の私は、この人が自分のことを好きになったら愉快だと思っていた。自惚れるのならば、先輩も同じことを思っていると信じていた。
*
空港は透明だ。
それは高い天井のせいであり、滑走路を誇示するような大きな硝子窓のせいであり、ここに留まり続ける誰かがいないせいであるのかもしれない。営みだけが人間を置き去りに、システマチックにきらきらと存在している。
窓の外で、飛行機がはらはらと離陸していた。遠目に見れば、それらはまるで散っている桜の花びらにも見えた。滑らかに地を滑り、そのままレールにでも乗ったように空へと飛び上がる。
昨晩の急いた気持ちは翌日の東京行きの飛行機のチケットとして現れ、搭乗開始時刻の一時間半前には今できる手続きは全て終了しているという形で結実した。私がどれだけ早くここへ来ても何の意味もないなんて分かっている。こんなことをするより、荷造りをもっときちんとしていた方がよほど良かっただろうに。それなのにこうして、まだ熱いカフェミストを啜りながら忙しなく流れる人々の顔を窺っている。窺っている? それに気づいて、わたしはまだ白んでいる空を睨み上げた。
いないのに。
彼の現れない街角を選んで、ここまで来たんでしょう。
思考を振り切るために、ただ景色だけを見つめた。空港は個人の介入を認めない。ここは誰かの物語の交差点。硝子張りで明るく、感情移入を許さない。空港は透明だ。形容するにはあまりに別離や願い、再会に挫折、そういう何もかもが堆積しすぎている。ここでは誰もが主人公であり、同じくらい主体なく運ばれていくものとなる。そうして一切が未来、あるいは過去へと通り過ぎていく。
自分の意識が認識している時間の連続性なんて、小学校で習った日付変更線が論破してくれた。だからこそ、文字の続きを手繰り寄せるように視線を迷わせてしまうのだろう。探偵みたいにあらゆる地の文を証拠として読み変えて、ここから大逆転を始めるための伏線を探してしまう。
私たちは物語ではないのに。
ずっとそうだった。高慢ちきな作者でも気取るように、そうであってほしいという思い込みだけで走っていた。スケジュール帳にシャーペンで書き込んだ予定を、永遠不滅の公式みたいに振りかざした。まるで三流未満の批評家のように、自分の直感を糊塗できるもの以外の描写を全て読み飛ばした。あらゆる目に映る事象を、些細な会話の一欠片までもを拾い上げて、セロハンテープとコピーペーストで継ぎ接ぎした。そうして完成したものを、私たちの運命ですって言い張ってやるつもりだったんだよ。それがどれだけぼろぼろでも、不格好でも、知ったことかよと威張って言い切ってやるつもりだった。
あの夕暮れからずっと、潰れた目で先輩を追いかけた。
リマインダーが搭乗時間を知らせる。何かを待つ人しかいない空港の喫茶店は、本当はひどく心地良かった。ほとんど口をつけていなかったベーグルサンドに、少し迷ってから思い切り噛みついてみる。クリームチーズは温くなっていて、酸味がぼんやりと舌に広がった。明確でないものはそれ以外の何かへの没入にはうってつけだ。一口、もう一口、それから、流れていく人波に視線を移す。ぼんやりとした記憶は、希釈された胃酸の味がした。
随分久しぶりに、煙草を吸いたくなった。べたついた口内を煙でいぶして、使い物にならなくしてしまいたかった。
*
合宿はご多分に漏れず悲惨だった。
ただでさえ遊びたい盛りの大学生たち約一ダースをど田舎の閉鎖空間に放り込み、隙あらばバリエーション豊かな罵声を浴びせられつつ食事、講読、要約、プレゼンテーション、果てにはラジオ体操までやらされれば殺意はぬか漬けみたいに醸成されていく。最寄りのコンビニまでの徒歩三十分だけが、人の目という地獄から解放される唯一の時間だった。ちなみに喫煙所も近くにはなかったので、ヘビースモーカーの先輩は時折ニコチンを切らしてはふらふらしていた。貧血じゃないんだから。当然ゼミ生の間の雰囲気も最悪で、ありとあらゆる会議は陽気なタンゴを踊ってみせ、何気ない日常会話が粉塵爆発をきめた。私も、もしかしてこれってそういうデスゲーム? ひとりくらい発狂しないと撮れ高の関係でこのパートが永遠に続いたりする? なんてことを真剣に考えてしまった。
それでも、それでも様々なところに傷やしこりを残しながらも、四泊五日のゼミ合宿は警察や救急車の世話になることなく終了した。
ひとりタクシーと新幹線で東京へ帰る教授を見送り、私たちは大学から手配された大型バスへ乗り込んだ。行きはそこそこ盛り上がっていたけど、帰りは望まれない通夜みたいに静かだ。しかも間の悪いことに事故渋滞に巻き込まれ、チェックポイントだったパーキングエリアへたどり着いたのは日が暮れる頃だった。ほうぼうのていでバスを駐車させた運転手が、ここで三十分ほど休憩すると告げる。私は淀んだ車内を見渡し、まだセロハンも剥いでいない煙草の箱をポケットに放り込んだ。
喫煙所は混み合っていた。このご時世でも、人はこんなに煙草を吸うのか。普段は夜の入り口を抜けたくらいの、誰もいないような喫煙所にしか行かないから知らなかった。人混みを縫うように辺りを見回す。暑さのせいか、それとも密集しているせいか、人々は夕陽をまとった暗い影のように思えた。惚けた輪郭が探し人の姿をとろけさせていく。
「高濱さん!」
低い、掠れた声。それで、世界が確定された。周囲の人影がつられて顔を上げる。その中の誰よりも高く頭を上げて、私は焼けたアスファルトを蹴飛ばす。
「先輩!」
「はい。お疲れ」
先輩は少しやつれたようだった。合宿中の彼は多種多様な雑用に駆り出されていた。そのうえ教授の無茶ぶり、横暴、我儘に振り回されていたこともあり、こうしてふたりで会話をするのは妙に久しぶりな気がする。先輩は長い瞬きをしながら私を見る。それに倣って、私も彼の眼鏡のレンズで拡大される深い隈を観察した。
「お疲れ様です」
「合宿、酷かったろ」
「いやほんと、酷かったですね……」
「ね。喫煙所も別館の方にしかなかったし。死ぬかと思った」
「え。そこ?」
「あれ」
「いやだって私は先輩と違ってヘビースモーカーじゃないですもん」
「う、まあ、そっか。ごめん」
先輩はばつが悪そうにフィルターへ口を寄せる。仰ぎ見た唇は薄皮が剥けているのが見て取れた。煙草、控えたら良いのに。そう思っても口には出さない。本心では、禁煙なんかされたら惜しいと思っていたから。代わりにポケットから煙草の箱を取り出した。白い箱に印字された金のロゴが夕暮れを反射する。
息を吐きながら回した火打石が、痛いくらいに親指の腹に食い込んだ。一瞬だけ青に揺れた火が、すぐに赤く染まる。左手に挟み持った煙草をそれにかざした。舌を、引くように、さ。声はもう忘れてしまったけれど、言葉はまだ憶えている。舌を、引くように。そう念じていたはずなのに、少し吸い込み過ぎてしまった煙が喉を淡く焦がした。目の奥がつんと痺れる。それを誤魔化すように視線を迷わせたのに、見知らぬ人ばかりで俯いてしまう。
「煙草、そんなに吸いたくならない?」
「ええ、まあ。それに、その、喫煙所ってなんか入りにくくないですか?」
「そう?」
「はい」
「……じゃあ本当は、大学の、あの喫煙所もいや?」
その声には、まだ採掘されていない鉱石のような期待があった。硬く、そのくせ劈開する様がひどく美しいことを予感させる声。私はまた煙に巻かれたふりをして、殊更ゆっくりと瞬きをした。鼓動が加速度的にビートを刻む。どうして。理性みたいな疑問符を、どうしても。鳩尾から染み出していく情動が掻き消す。
良いなあ。私のための、きれいな声。ばらばらにしちゃ、だめかな。
けれど私はいかにもぼうっとした微笑みを浮かべ、彼好みの要素をすりきりで測ってから顔の上に散りばめた。ばかで、素直で、スパイシーで従順なおんなのこ。心のどこかで、きちんと見惚れてくれますようにと願う。
「あそこは、別に。先輩しかいませんし」
「……そっか」
先輩は銀色の吸殻入れへと踏み出した。その足音は決して静かではないこの場でもいやに大仰で、私は自然とそちらを向く。灰を落とした彼が大きく息をした。夕陽を浴びる肩が上がり、下り、そうして。
彼が振り向いた。
「高濱さん」
それで、私の名前を呼んだ。
予感があった。ううん。預言が、あった。
目蓋が閉じて、開いて、私の運命を連れてくる。
「たかはまさん」
新世界を定義する預言。
瞬きのあと、私はこの人を好きになる。
感情はいつか、肝臓から生み出されるものだと信じれられていたという。レバー。視野から提供される情報によって、抉るようなボディブロウを受けたみたいに体が揺らいだ。肉体の内側からせり上がってくる、べったりとした血が味蕾で暴発する。生焼けの内臓。今までの浅はかで軽やかで思わせぶりっこな思惑が爆散する。そんなものではまるで太刀打ちできない嵐が目に映る何もかもを赤く染め抜く。それは私の血。これが、私の、恋。
これが? これが恋だっていうのか。知らない。知るもんか。だって今すぐ、この世のありとあらゆる尺度を彼を基準に新設してみたくなった。駅から校門までは彼の腕が六百八十四本分の長さ。大学の最寄り駅から乗り換える駅までは彼の瞬き九十二回分。風景だってそうだ。食堂で人気のココア揚げパンは日陰にいる彼の髪の色をしていた。インスタントコーヒーは彼の瞳より少し濃く淹れたものが好みだった。そんなことばかりを考えてしまう。これが、こ、い。恋。こんな激情をよくもまあ女子トイレで語り聞かせてくれたものだな。足元にあるのは蓮の台ではなくゴキブリだって跋扈する薄汚いタイルだぞ。正気か。正気ではない。正気であったらこんな事象を口にしようと思わない。え、この瞬間から入れる保険とかないんですか。こんなの交差点でつっこんでくるよりよっぽど遭遇する確率の高い事故なのに。事故。紛れもない自己の織り成したもの。曲がりなりにも数千年も文明とか呼べるものを形成してきたくせに、人間にはまだこんな致命的なバグが残されていたのか。でもバグがあったからこそパラダイムシフト、不規則に、一直線に、飛んでいく。
心臓はとっくに全身へと増殖した。鼓膜に膝、髪にかけたままの人差し指までもが一定のテンポでもって私を伸縮させる。新しい鼓動による痛みを、もはや痛みとして認識できない自認をリリースバックさせてほしかった。けれど焼けた肉から二度と血が滴ることがないように、変質してしまった視界は彼を捉えることをやめない。収縮を忘れた瞳孔はスクリーンの役割を放棄したようだ。あるいは私の本能の忠実な奴隷になってしまい、先輩のみをただただ見つめる以外の機能を放棄する。先輩、彼は、微笑んだ、少しだけ濃い赤色の唇、ほんの少し薄めの彫り、微笑んだ、ゴールデンドロップに揺らいだ水面の瞳、べっこう柄した眼鏡のつる、微笑んだ、一本ずつに燐光が落とし込まれた毛先、微笑んだ、微笑んだ、微笑んだ。
だから今。今、今、いま鼓動がフェードインして、スリー。視野を朝焼けで露光して、トゥー。エフェクト代わりの走馬灯なら展開済みで、ワン。映して、写して、この瞬間を焼き切れるほど残すため、アクション!
そうして世界が始まった。
「それじゃあ、約束」
彼が、微笑んだ。
かくして、あの日の喫煙所で吸い込んだ業火は私へ宿る。
その炎はたったひとつの確信以外を焼き尽くす。今この瞬間が絶対。これが本当、これが本物、これは、全部、私の。わたしは。
私は、このひとが、欲しい。
*
記憶に操作されている。
特別急行は飛ぶように、私を空港から都心へと運んだ。たどり着いたJR線の駅から、私鉄の駅を目指して歩く。いつか行ってみようと思っていたカレー屋は潰れていた。その隣の喫茶店は記憶のまま、レースのカーテンがかけられている。地下へ向かう階段を降りるとき、足取りは自然と慎重なものになった。スカートを手で押さえて、買ったばかりのヒールで布を巻き込んで転ばないように。今日履いているのは社会人になってから買ったスラックスなのに、あのとき打ちつけた膝の怪我なんてとっくに治っているのに、私の足取りはひどく遅い。いつのまにか、爪先にまでぎゅっと力が込められていた。そろそろと階段を降り切って、振り向いた踊り場にいつか転んだ拍子に脱げてしまったハイヒールの幻覚を見る。赤色の、エナメルの、それから今の私は置き去りにする、その。
清潔な砂埃の香りが鼻につくから、地下鉄の入口についたと理解する。改札を抜けて、ホームに着いても足はまだ止まらなかった。七輌目、六輌目、五輌目の、ふたつめの扉の前。そこが大学の最寄駅でいちばん改札に近い車両だった。別路線から乗り込んでくる準特急を無視して、普通電車を待つ。電光掲示板を見なくとも、腕時計で二分数えれば良かった。だって知っていた。準特急の二分後に普通電車がくることを。初任給で買ったアナログの文字盤の上で右回りで秒針が踊る。それが少し、おかしかった。間違っていると確信してしまえた。ねえ、そっちじゃないでしょ。わかんないかな。
私鉄で二駅。七分かかるかはその日の車掌さんによる。でも六分で走るときはできるだけしっかりつり革に指を絡ませた方が良い。窓の向こうで仄かに暮れなずむ空を、空、朝焼けの残る空を、眺めた。赤? 茜雲の理由を見失う。方角なんて分からないから、この赤が日の出なのか洛陽なのかも判別できない。今の私なら本当はできるはずだけど、できたはずなのに、強いて確かめようとは思えなくなっていた。アナログの腕時計は一日を二十四時間では表せない。デジタルの文字盤の腕時計を壊してしまったのはいつだったか。確か三年前、違う、大学二年生の頃だったから、それじゃ二年前か、違う違う、さん、に、あ、二年前、だ。
ドアの開く音で目が醒める。大学の最寄り駅へと降り立った。授業は何限目からだっけ。ゼミの教室がある研究棟は構内でも端っこにあるからさ、急がないといけなくって。だって急がないと授業がはじまら、始まっちゃう。改札の目の前にある博多豚骨ラーメン屋の看板が、いつの間にかすげ替えられていたような気がする。ゼミの前に時々行って、まあ案外美味しいねって言っていたのに。でもその上にある居酒屋は記憶のままだ。そうだよね。あそこの泡盛を飲まなきゃ飲み会が終われないし。チェーン店の喫茶店の前を大股で歩き去る。念のため、知り合いがいないか軒先を一瞥することも忘れずに。
大学が近くなるほど周囲を見てしまう。見回して、耳を澄まして、でも足は止めない。すれ違おうとする人影を探した。おろしたてのスニーカーの靴音が鼓膜に届く瞬間を待つ。なんだ、先輩、今日は早いじゃないですか。その一言を唇の裏に隠して、牛丼屋の新商品を確認した。辛いものなら誘われてくれる可能性が比較的高かったから。別にたかりに来たんじゃないですけど、なんて言ったら、良いからそのわざとらしく出すだけ出してみたお財布をしまいなさいと、当たり前のように返された言葉がくすぐったかった。
歩道橋を渡る。渡って、流行りものの屋台が出店してはすぐにつぶれていく店舗を見逃した。いま、今今いまは何のお店が入ってたっけ。寝ぼけているのかな。思い出せ、な、い。ない。いつかタピオカ屋だった頃に行ったら、先輩は口にした瞬間、派手にむせた。その情景が目に浮かんで仕方ない。笑うなよ。ばつが悪そうに、揃えすぎの眉毛が持ち上げられる。いやだって。ああ、私、なんて答えたっけ。ね。
「いやだってあっまいから!」
校門は開錠されていた。サークルはやってい、いや授業もやっていて、私は早足に校門をくぐる。人は数えられるほどしかいなかった。ひび割れたタイル敷の道を抜ける。体育館からは遠く掛け声が響いて聞こえた。一度だけそれをふたりで真似してみたことがあった。ファイトォ! 先輩は私のテニス部仕込みの発声を聞いて、何故か目を白黒させた。
え、そんな声出んの。出しません? いや俺、二カ月で辞めたから……。結局、確か、そう。その声が見回り中の警備員さんに聞き咎められ、揃って叱られたっけ。ふたりでぺこぺこ頭を下げて、威嚇するような懐中電灯が遠ざかってから、私は吹き出した。辞めたって、幽霊部員より酷いじゃないですか。
「酷いってなんだよぉ」
ふざけて伸ばされた語尾が、秋風にさらわれていって、それで。
図書館の裏口は施錠されている。あの扉を開けるには教授からの口添えが必要だったけど、先輩はパシられすぎてもはや顔パスになっていた。いやまあこれくらいはさ。教授に本を借りてくるよう頼まれたとき、いつもそんな言い訳しながら荷物の八割は先輩が持ってくれた。これくらいってことないですよ、あざっす、さすがっす。そういうときは謙遜せず、持ってもらった方が良かった。そしたら。
「こら、やめなさい」
そしたら先輩はむずがるように笑って、ちょっと得意げに唇をくしゃくしゃにしたから。ちょうど今通り過ぎた外灯が、彼の笑窪に影を落としていた。覗き込んだ、その色を憶えている。いやいや、やめないですよ! 並んで歩けるように、ちょっと無茶して歩幅を広げた。こそげていく靴底が誇らしかった。そういう歩き方を選び取った証だと思えた。
「やめないですよ」
記憶、記憶通りの言葉を口にして、こたえを待った。
煙の香りが鼻をつく。足音はまだ聞こえない。
思い出すような素振りをして。
煙の香りが鼻をつく。紅茶もマドレーヌも無いけれど。
思い出すように。思い出されるように。忘れえなかった記憶が。
「私は先輩のこと、好きですけどね」
その、驕り高ぶった声!
秋は風の音に気づかされるものだというけれど、春は日差しにこそ教えられるものだろう。冷たいくらいに澄んだ青空の向こうで、春の日差しの息吹が確かに感じられた。冬の終わりの日だった。今年度のゼミが終わる日、つまり私が卒業前の最後のゼミの日だった。喫煙所で、私は笑いながらそう言った。
本気で関係性を変えさせるための言葉ではなかった。ほんの少し意識に残って、近い未来で気の利いた伏線のように、彼の中で繋がってくれれば良かった。いつか思い出して、その記憶をきらきら輝かせるための言葉。そうであってほしいという、私の願いが堆積している。
それなのに、彼は目を見開いた。分厚いレンズの向こう側で、引き絞られた光が焦点を結ぶ。朝陽のいちばん初めの光が、その黒い瞳へ落とされた。
「俺もさ」
光。光が、先輩の凪いだ黒の角膜にひびを入れる。なのにその奥にある水晶体は氷結したのだ。彼が瞬きするたびに、取り返しのつかない破壊と変質は進んでいく。がらがらと崩れ去っていく目の中で、瞳が輪郭を失った。視線は温度を忘れ、何もかもが今ここで固着していく気配だけが募る。瞬き。薄い涙の膜は津波。厚い目蓋は濁流のように、温もりの残骸をひとつ残らず押し流した。
そうして破壊し尽くされた地平に残されたのは、眼差しがひとつ。
彼は私を圧倒的な諦観でもって眼差した。そのまま、まだ長かった煙草を足元のバケツへ放る。火が消える、じ、という音が鼓膜に焦げ跡を作った。焼けて、焦げて、燃えて、そんなこと知らないと言わんばかりに火は容易く消える。からからに枯れ果てた氷の惑星に似た瞳孔が私を眼差した。
「俺も本気で、高濱さんのこと好きでいられたら良かったのにって、思うよ」
「……は?」
理解ができなかった。目の前の人間の発した音が、日本語として脳まで降りてこなかった。呼吸が荒れる。鼓動は速く、速く、私の寿命を燃やすようにひた走る。感情に言葉が追い縋ろうとして、振り落とされる。瞬きと重力加速度でもって現在が遠ざかっていく。走り去られるように。違う。走っているんじゃない。落ちているんだ。それでも、それでも手を、言葉を繋げようとして、したのに。先輩の柔らかそうな唇はささくれだっていた。深い隈のせいで眼球が迫り出しているように見える。顎の下にはぼつぼつと黒い髭が伸びていた。外灯は植え込みの向こうにしかないから、この喫煙所はひどく暗い。お互いの表情なんて、容易く曖昧にさせられるほど。そんなこと、とっくに知っていたはずなのに。知らない瞳で、先輩は私を見下ろした。
「高濱さんはさあ、いや、高濱さんの目を、俺はとても綺麗だと思うよ」
先輩は煙まじりに言葉を放つ。少しだけ、早口に。
それから確かに一度だけ、微笑もうとしたのだ。唇の両端を糸で吊り上げ、目を細めようとする。それは決して派手なものではなく、あまりに細やかな笑みとなったはずだ。まるで良い先輩のように。あの日の夕陽の中で見た、私が一番欲しいと思った瞬間の再演のように。
だから私、私は思わず笑ってしまって、彼はその微笑みを永遠に失う。
「だから怖い。俺をひたむきに剽窃するような瞳が、だんだんこわくなってきた」
「そんなこと!」
「いいよ、もう、いいから」
反射的に口にしようとした逆接になれない言葉はあっさりと断ち切られた。そうしたら、もう私には何も言えないのだ。
だって、彼の言葉は正しかったから。私は、彼を不当に所持したかった。このひとが、欲しくなってしまっていたから。この感情が恋だって思った。これこそが恋、なんだって、あの瞬間に初めて知っちゃった。だってそうでしょ。あれが、あの夕陽が運命じゃなかったらなんだっていうの。なんて呼べば良かったの。欲しいって思ったら、いけなかったの。恋って、だってそういうものじゃなかったの。
「山片せんぱい!」
縋りつくように喉から絞り出した彼の名前は、それでも私の心臓を痙攣させた。雷に打たれるような、銃弾に貫かれるような、そういう致命的なショックを与えられた人間の、最後の震え。跳ねてしまったらもう、次の瞬間は永劫訪れない。端から死んでいく私の表情をちらりと看取り、彼は目を逸らした。
「ごめんね」
私はついに、指に挟んでいた煙草を取り落とす。小さくて、絶対だと思っていた火は、アスファルトに落ちて輝きを失った。彩度も明度も低くなった視界でも理解できてしまう。彼の眼差しすら、もはや私に向けられていない。
「約束は」
「俺が高濱さんにあげられるものなんて、もうなんにもないよ」
火が落ちる。火が落ちて、消えて、燃え尽きた真っ暗な夜に私は逃げ出した。
あなたが、欲しかった。
ずっとあなたが欲しかった。振り向いて、微笑んで、私を見つめる瞳を何度夢に見ただろう。あのとき跳ねた鼓動が心臓を作り替えたんだ。それは微笑みから始まった革命。あなたの微笑みがなくては、私の心臓はまともに動かなくなってしまった。嘘だと思いますか。大袈裟で、芝居がかっていて、舞い上がっているだけだって思いますか。あなたが? いいえ。違う、違うのに。私にとっては、これが本当なんです。これだけが、本当なんです。信じなくても良いから、ねえ、見捨てないでくださいよ。約束したじゃないですか。だったら置いていかないでよ。だって恋してるんですもん、好きなんだって、だから一緒にいさせてよ。
「約束、してくれたのに」
春の風の中から、予め知っていた煙の香りがした。
いつか私たちのものであった、喫煙所の前で私は立ち止まる。煙の香り。それは嗅ぎ慣れた煙草のものではない。燃え果てた喫煙所の、臭い、が。
「約束」
そこには、何もなかった。
窓枠の色硝子の破片は撤去されていた。窓枠型の空間の向こう側にはもう何もない。炎の跡が残されているものは、もう見える範囲には存在しなかった。建物の死骸は影も形もなく、まっさらな土地が建てられるべきものを待ち侘びる。それが見て取れてしまうから、私は笑うことしかできなかった。こんな有様では、僅かな感傷すら許されないじゃないか。燃えたって聞いたから来たのに、建築物は輪郭すら消え去っていた。これじゃ追憶すら不完全にならざるを得ない。
社会人のくせに当然みたいな顔で大学に不法侵入していた私は、一人きりで構内のはずれに立ち尽くしていた私は、その場にしゃがみ込んだ。一泊分の荷物を無理に詰めたせいで歪んだショルダーバックが地面に落ちる。その視界にスラックスが、アナログの文字盤が、バレエシューズが、パズルのピースのように嵌められていく。少し考えれば、分かるはずだったのに。こんな人の多い場所に火事現場なんか残しておくわけないだろ。
考えれば分かることだった。そうだ。分かってしまうからずっと、考えないようにしていた。だから逃げ出して、卒業式の後のゼミの集まりもすっぽかして、地元に就職して、そしたらこのまま忘れられると思っていた。パンくずみたいにふたりの思い出ばかりが撒き散らかされたこの街を離れたら、先輩のことなんかすぐに忘れられると信じていたのに。なのに、さあ。
「燃えたって聞いて、来ちゃったんですよ」
跡しか残されていない空間を囲う、黄色い立ち入り禁止のテープへ手を伸ばす。引きちぎってやろうと思ったのに、私の指は中空で止まってしまった。夢見る無敵の時間は、跡形すら残らなかった喫煙所と同じように消え失せてしまった。現実とか常識とか諦念とか、そういう冷めた感情が指を空中に留める。体を滅茶苦茶に操るような熱量はもうこの体には存在しない。だから頬を落ちていく涙だって蒸発してはくれないのだ。
私、火が欲しかった。
もう一度、燃やしてほしかった。そしたら今度は、一掴みの灰も残らないほど徹底的に、完膚なきまでに、燃え尽きてあげるから。燃やしてほしかった。走ったつもりもないのに心臓がずっと速い。鼓動は正しい震え方を忘れてしまった。鼻孔にはべったりと煙の香りが貼りついている。きっと、一生拭い去られないのだろう。だってもう、もう焼きついてしまったんだから。
冷え切ったアスファルトに体温が奪われていく。しゃがみ込んだまま、私は自分の体を抱き締めた。もはや不完全にしか燃焼できないこの体は、それでも生きていくのに不都合がないほどの体温を宿していた。
だって。
「それじゃあ、約束」
だって、だってさあ。夕焼けのパーキングエリアであなた、振り向いたから。
「きっと、いつでも、一緒に行こうよ。ね、高濱さん」
あなたがくれた業火で、炭も残さず燃やしてほしくなったの。
カーボンナイズド・アバンチュール 絢木硝 @monyouglass
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