第7話 避難、そして






「避難指示、出たけんど。上流で土石流が起きたらしいもんで」


 旅館の男性が伝えに来たのは、二人が避難のための荷造りを終えた直後だった。

 しかしその年配の男性従業員の顔には、伝えた内容と同等の緊迫感はない。


「お客さんたち、どうしなさるかね」

「もちろん、避難させていただきますよ」

「へえ。川からこの旅館まで、百メートルは離れてますけんど」


 川からの距離。

 それが、旅館の皆が落ち着いていられる一因だ。

 確かに旅館の前の道と並行する安倍川水系の大きな川からは、それだけ離れている。間には低い土手もある。

 が、旅館の背後にそびえるは、先週の大雨やその前の梅雨で、たっぷりと雨水を蓄えたダイラボウである。

 前門の土石流に、後門のダイラボウ。

 拓はその危険性を説くが、年配の従業員は他人事のように相槌を打つだけだ。


「ま、とにかく避難するなら、少し上流の公民館。あとは下流の小学校が近いけんど」


 下流だけでいい。

 上流の土石流から避難するのに上流、しかもダイラボウの麓へ避難してどうする。

 拓の口が、そう発する直前。


「大丈夫でーす。ウチの彼ピッピは、すっごく頼りになるので〜」


 宮沢一穂が拓の前に出た。というか、一穂はべったりと拓に抱きついて、その両腕は拓の首に絡みついている。

 その一穂の行動を拓が予期できるはずはなく、ただ驚いて硬直するのみだ。

 ふわりと舞った一穂の甘い香りは拓の鼻腔をくすぐり、ついでに年配の従業員の鼻毛をも震わせた。


「……若いってのはええねえ」


 鼻白んで苦笑する年配の従業員に、一穂は極上の笑顔を作って見せる。


「そんなぁ。おじさまだって、まだまだイケますって」


 言うと同時に、一穂は拓への密着度を高める。

 ますます強くなる甘い香りと女性特有の柔らかさに、拓の思考回路は短絡ショート寸前である。


「まあ、とりあえず伝えたからね。お客さんたちは前払いで貰ってるし、あとは好きにやんな」

「はーい。おじさんたちも、避難よろしくでーす」

「はは、ここは大丈夫だって」


 年配の従業員の背中が見えなくなったところで、一穂は拓から離れる。が、依然として拓は、硬直状態から抜け出せずにいた。

 仕方ない、と一穂は、拓の頬を摘んで引っ張る。


「避難ですよ、拓先輩!」

「へ、あ、ああ。そうだな」

「まったく。あのおじさんの相手で、二分もロスしちゃったんですから」

「だな。急ごう」


 スマートフォンを確認する一穂を横目に、頭を切り替えた拓は自分のバッグを引き寄せて、肩にかける。


「どうします、避難場所」

「ああ。とりあえずは下流の小学校を目指す。だが小学校は川から近い。水位が堤を超えそうだったら、そのまま街まで下ろう」

「さっすが、頼れる男ぉ」


 冗談めかす一穂だが、本心だった。

 静岡市内の地理に明るくない一穂には、地元出身の拓の土地勘が頼りなのである。


「行こう」

「はい、先輩」

「宮沢は神さまのバスケットを頼む。他の荷物は俺が車に」

「わかりました。急ぎましょう」


 拓と一穂が荷物を揃えて旅館のフロントに集合するまで、およそ二分。

 この時点で、スマートフォンの避難指示から十分ほど経過していた。

 少し時間がかかり過ぎたと思いつつ、拓は玄関の外の雨の様子を窺う。

 そこに旅館の女将が、大きな鉢植えを抱えて玄関へ入ってきた。

 女将の割烹着は濡れておらず、その背後からは雨音も風鳴りも聞こえない。

 雨は、止んでいるようだ。


「……他の宿泊客は?」


 肩にバッグを提げて両手にキャリーケースを抱えた拓は、重そうに鉢植えを抱える女将に訊ねる。

 もしも他に宿泊客がいるのなら、拓と一穂の荷物の分を差っ引いても、あと二人は車に乗せて一緒に避難できる。


「ああ、避難するんですね。今夜のお客様は、お二人だけですよ」


 よいしょ、と玄関の三和土たたきに鉢植えを置いた女将は、後ろ手に腰をさすりながら笑顔を向けてくる。


「わかりました。一応伺いますが、旅館の従業員たちの避難の手段は? こちらの車に、あと二人は乗れますけど」

「大丈夫です。今は使ってないけんど、いざとなったら送迎用のバンがありますんて」


 今は使ってないって。ちゃんと動くのか、それ。 

 女将の言い回しに、拓も一穂も同じ不安を抱く。


「では……先に行きますが、本当に大丈夫ですか」

「ご心配なく。こないだも無事だったもんで、今度も大丈夫ですって。どうしようもなくなったら、そん時に逃げますんで」


 一穂と顔を見合わせた拓は、溜息を吐く。

 この旅館の人たちは、避難指示を軽く見ている。

 今までだって避難指示が出ても何もなかったのだから、きっと今度も大丈夫。

 他の従業員が動いているのも、雨戸の確認や外の物を屋内に入れる、などのために走り回っているのだ。

 近年、静岡市の他の山間部では、台風ではない豪雨で何度か甚大な被害が発生している。

 その件は、全国ニュースになるくらいには大きく報道されていたはず、なのだが。


「私たちは大丈夫なんで、どうぞお二人で避難してくださいな。きっと今回も、何事もなく終わると思いますけどね」

「わかりました。では避難させていただきます。そちらも避難を考えてください」

「優しい彼氏さんで、彼女さんは幸せだねぇ」


 あくまで笑顔を崩さない女将に一礼をして、拓と一穂は玄関を出る。

 雨は再びポツポツと降り始めていたが、幸いにもまだ小降りだ。今のうちなら避難も容易である。


「雨が降らないうちに行こう」


 二人は砂利を鳴らしてレンタカーへ歩く。

 しかし。

 荷物を抱えた二人がレンタカーに乗り込んた途端、再び大粒の雨が大群で落ちてきて、頑丈なRV車の天井やフロントガラスを叩く。

 ものの数秒で砂利引きの駐車場は水浸しになり、一面は泥水の海と化した。

 その泥水の中、拓の駆るレンタカーのRV車は慎重に走り出す。


「宮沢の選んだレンタカー、大正解だったな」

「偶然ですけど、ラッキーでしたね」


 地面からフロアまでが高い四駆のRV車なら、少々の水溜まりの中を走っても、普通の車よりは危険は少ない。

 それでも、泥水に覆われた砂利引きの地面を、拓は慎重な運転で進む。


「旅館、無事だといいですね」

「……だな。けれど今は、俺たちの避難が先だ。行政に迷惑は掛けられないし」

「うちの会社のお得意様、ですからね」

「しかしこれでは、小学校も危ないな」 


 指定の避難所は近くの小学校、拓の母校だ。

 それゆえに拓は知っている。小学校は、川から近い。

 川と小学校の間には堤防代わりの土手道があるが、その土手道が仇となって、山から川に流れるはずの水を堰き止めてしまう恐れもあった。

 それほどの勢いで、雨は降っていた。


「じゃあ、早くキュイくんを安全な場所に連れて行きましょう」


 安全な場所。

 一穂の物言いに少々引っかかりを覚えた拓だが、今は避難が先だ。

 旅館は気がかりではあるが、危険性や避難指示の説明はした。

 自治体が避難指示を出す時は、災害が起こるどうかだけで判断しているのではない。最優先は、災害が起きたときにその被害を最小限にとどめること、なのである。

 避難した結果、被害がなければそれで良し。

 だが、もし万が一、避難せずに何かあったら、後悔しか残らない。

 場合によっては、その後悔をする時間すら残されない事態も起こり得るのだ。

 大粒の雨に激しく車体を叩かれながら、拓が運転するRV車は泥水の海をかき分けて道路へ出る。


「うわぁ……」


 が、そこはすでに道路とは呼べない状態になっていた。

 泥水の、川だ。

 山から流れてきた雨水で、歩道も車道も、縁石も路肩も側溝も、すべて泥水の流れに沈んで区別が出来ない。

 ダイラボウは、雨を受け止め切れない。限界なのだ。

 高床の車体の下を濁流が走り、その濁流には発泡スチロールやプラスチックが浮いて流れる。


「ひどいな、これは」


 旅館を出たばかりの道が泥の川では、上流はもとより下流の小学校はどうなっていることか。

 しかし拓は困った。

 これでは、硬い物や尖った物が泥水の下に沈んでいても、気づかずに踏んでしまう。

 が、それでも下流へ、市街地方面へと逃げるしかない。

 その時である。

 車の後方から、雨音を遥かに凌ぐ低い轟音が響いた。

 その音に拓は聞き覚えがあった。

 土が混じった水の激流。大学時代の拓が資料映像で見た、土石流の音だ。


「たぶん土砂が流れて来る。急いで逃げるぞ!」

「はいっ。私の命、先輩に預けます。もしもの時は、来世で結婚しましょう」

「縁起でもない。が、最善を尽くす」

「キュイくん。お願いだから、じっとしててね」


 もう漂着物や障害物なんて気にしていられないと、拓はアクセルを踏み込む。

 直後、レンタカーの車内で鳴き声が響いた。


「キュイ、キュイキュイ!」

「ダメ。落ち着いてね、キュイくん」


 助手席の一穂が膝の上に抱えた籐編みのバスケット。その蓋を開けて、神さまが顔を出す。


「神さま、しばらく揺れるけど我慢してくれな」


 前を見たまま拓は叫ぶが、神さまはキュイキュイと鳴きながらバスケットから飛び出して、車の外に出ようと短い腕で助手席の窓を叩く。


「危ないからジッとしてて、神さま」

「キュイくん、落ち着いて」

「キュイ! キュイキュイ!」


 車から出る方法を探しているのか、神さまは小さな身体で懸命に車内を動き回る。

 そして。


「あ、ダメ!」


 助手席側、後部ドアのガラス窓が開いて、滝の様な雨が吹き込んで来た。

 背後の重い轟音がはっきりと聞こえ、その音は少しずつ近くなる。


「くそ、なんで後ろの窓が!」

「キュイくん、キュイくんが!」

「はぁ!?」


 雨が吹き込むレンタカーの中は、二人とも冷静ではいられなかった。

 二人して必死に泥団子の神さまを呼ぶが、返事も気配もない。


「まさかあいつ、この泥水の中に……」

「そんな! それじゃキュイくんが!」

「判ってる!」

「じゃあどうするの!」


 すでに怒鳴り合いだった。

 そこには、会社での仕事が出来る冷静な二人はいない。家族を、友だちを思う気持ちと焦りだけが、数秒の間に堆積していく。

 焦燥と苛立ちが車内を満たそうとした、その時である。

 一穂が叫んだ。


「見て、前!」

「前ってどこ!」

「前のガラスの……向こう」


 一穂の叫びは絞り出したような声に変わり、フロントガラスの外、ボンネットを指差した。

 そこには、ずぶ濡れの神さまが立っていた。


「神さま!」

「キュイくん!」


 運転席と助手席のドアが、同時に開く。

 幸いにも車内に浸水は無い。

 が、激雨は容赦なく二人を叩く。


「馬鹿、宮沢はドア閉めろ!」

「あそこにキュイくんがいるんだよ。放っておけるワケないじゃん!」


 ボンネットの上では、どろだんごの神さまが慌てたように短い両腕をブンブンと振っている。


「早く、早く車の中に!」

「戻って、キュイくん!」


 ずぶ濡れの拓と一穂は、ドアを開けたままボンネットへ向かって叫ぶ。

 しかし。


「おい、なんだよそれ」

「どうして……なんで」


 ボンネットの上で、神さまは首を横に振る。

 それから小指ほどの短い右腕を高々と掲げて、ゆっくりと左右に振った。

 まるで、一緒に遊んでいた友だちと別れるように。


「え……」

「もしかして。それって、サヨナラ、なの……?」


 一度だけ縦にゆっくり頷いた泥団子の人形は、少しずつ宙に浮かび上がる。


「戻って、こいよ……」

「キュイくん……」

「戻って来いよぉおおおおおおおおおおお!!」


 雨の闇を裂く轟音の中。

 どろだんごの神さまは、大雨の夜を割って車の後方、川の上流へと飛び去った。


「なんで……なんでだよ……」


 拓の嗚咽は、川の上流でさらなる轟音が鳴るまで、続いた。



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