2.

「つまりこの記号は〔勢いを強くする〕であり、ここにピリオド点を打たないと火と水の両方にかかってしまうので効果が相殺されてしまうのです」


 魔法陣の解説をしている先生は、どこか浮かない顔をしている。おそらく先生のしている顔が、浮かない顔、ということで合っているはずだ。浮いている顔とはすなわち浮かれた顔であり、楽しそうであったり楽しみなことが待っている様子が伝わってくるはずである。沈んだ顔、というと、良くないことが起こった、または起こることが確定しているので、現状、まだカルティナが発言していない状態の先生の顔は「浮かない顔」になるはずだ。おそらくこれからカルティナが沈めるので。


「先生」


 沈んだ。


「……どうぞ、カルティナさん」


 手をあげて呼びかけたカルティナに、先生は沈んだ顔を向けた。


「火と水なら、同じ力でも水の方が勝ると教えていただきました。1の火と1の水に〔勢いを強くする〕指示を与えると、相殺されて魔法陣が発動しないのは何故ですか。水の方が強いのだから水が発動するのではないですか」

「それは、そういうものなのです」

「“そういうもの”? どういうものですか」

「そうと決まっているものなのです」

「……わかりました。その魔法陣は、火と水について、数量が指定されていないから発動しない、という考えは間違っていますか?」

「数量が指定されない場合は等しく1とするものとされています」

「魔術記号は精霊との言語統一によって指定されましたよね。精霊と人間はどうやって1を定義したのですか」

「それは……それを習うのは大学より上です」

「では、1の火の〔勢いを強くする〕でピリオド点を打ち、1の水と区切ることで2の火と1の水になるのなら、水の火に対するアドバンテージは2以下ということはわかりました。具体的に1とどのくらいですか」

「その計算式は、……あー……高等学校のー……、魔術専攻コースの、2学年より上で習います」

「数値が安定しないと魔法陣が発動しなくて危険なはずです。どうして幼少期から教えない……いえ、質問を変えます。どうして簡単な魔法陣は数値を指定しなくても発動するのですか」

「カルティナさん。少し休憩しましょう! ね!」


 先生がにこりと微笑んだ。あれは満面の笑みと表現していいのだろうか。どうも理解と実感に齟齬がある気がする。とても笑顔だけれども、満面の笑みではないような。夜に辞書を読んで探してみるよう。

 トピカがお茶を出してくれる。先生は一度ぎゅっと目を瞑ってから、弱々しい声で「ありがとうございます……」と言ってティーカップを手に取った。ちび……、とほんの少しだけ飲んで、目を瞑りながら口の中にずっと入れている。カルティナはお湯を飲んだ。お湯の方が好きなのだ。最初こそ先生も驚いていたが、やがて自分もお湯が欲しい、と言った。トピカが「お客様に湯は出せない」と言うと、目を瞑って天井をあおぎ、うそぉ、と泣き声のような小さな声を出していた。

 カルティナの教師としてやってきた人は、すぐやめていく。特に魔法を教えてくれる先生はもう四人目だった。だいたい一週間で交代するペースだ。


「カルティナ様は、その、魔法がお好きなのですね」


 先生が二口目のお茶に口をつけずに、話しかけてきた。そう、お茶を飲むと男女は会話がはじまるのだった。別にいつ会話をはじめてもいいような気がするが、そういうものなのだ。


「はい。魔法が、魔法陣がこんなに面白いとは思いませんでした」


 カルティナは魔法の才能に恵まれなかった。

 およそこの世に存在するすべての人間は、魔法を使うことができる。十歳頃から魔法を練習しはじめ、大人になる頃には火を起こしたり両手一杯くらいの水を出したりして生活に役立て生きていく。魔力の量が多かったり、魔力の使い方が上手ければすごい強さ得て戦うことも、大魔法で魔物を倒すこともできる。

 カルティナは生まれながらにして莫大な魔力を持っていることがわかっていた。カルティナの魔力があまりに多すぎて、母が魔力過多に陥り出産が危ぶまれたほどだった。一日中魔法を使ってもまだ魔力過多が治らず、十月十日という長期間の魔力過多で弱りきった母は、結局、その後体調が回復することなく衰弱死したらしい。

 だが魔力がいくらあっても、扱えなければ意味がない。

 貴族というのは魔力の量が多く、また、魔法が巧みであることが求められるのだということは最近習った。貴族教育の先生にそれを教わって、ようやく自分が閉じ込められて育った理由を理解した。使い道のない道具を物置に入れておくようなものだ。いつか使えるかもしれないけれど、必要のないもの。自分がそうだったことは、少し、悲しい(悲しいという言葉で合っていると思う。たぶん)。

 だが、魔法を使えなくても魔法は楽しい。魔法とはすなわち、言葉の組み合わせだ。精霊に対する指示だ。端的で的確でなければ伝わらない。だが、複雑な指示を出さなければ効果の高い魔法にはならない。その塩梅が難しく、面白いところなのだ。


「先生方に教えていただけて、とても有り難いと思っています」

「……いい生徒なのは、いい生徒なんだよなぁ……」

「なんでしょう?」

「いえ! あぁ、戦況が早く安定するといいですね。もっと知識のある魔導師の先生方に教えていただけるようになるのに」

「……? 私は先生からもとてもたくさんのことを教えていただいています」

「ははは……」


 先生が居心地悪そうに笑いつつ、窓の外に目をやった。空は魔物の出す瘴気で薄汚れており、煤けたような汚れが雲に混じって浮かんでいる。


「魔物が発生する深淵というのは、どのくらい大きいんですか?」

「大地の切れ目としては、10キロほど。対岸は基本見えませんが、数百年前の記録では50メートル先に森が広がっていたという記述があります」

「その谷底から魔物が現れるんですよね」

「そうだとされています」


 深淵からは常に魔物が発生している。今までは領内の戦力があれば十分駆除できていたが、突然深淵から大量の魔物が“噴き出して”くるようになった。

 旦那様はその対処に追われて帰ってくることができないらしい。


「……先生は、好きなことって、何かありますか?」

「好きなことですか?」

「はい。旦那様から、好きなことを見つけてもっとやりなさい、と言われています。先生の好きなことはなんでしょう?」

「せ、先生はねえ……。あの……そうですねえ……」


 なぜか先生がもっと居心地悪そうにしはじめた。


「先生の好きなこと……なんでしょうねえ……もう忘れてしまいましたね……」

「魔法ではないのですか?」

「魔法はねえ……好きだったんですけれども……上には上がいる世界ですから……僕なんて、戦力不足で前線から帰されてここで働いてるようなレベルですからね……」

「上というのは何の上ですか?」

「上はね……手の届かない世界かな……」

「手が届かない世界のことは好きになれませんか?」

「えっとねえ……あのね……そうですねえ……結局先生は、魔法が好きだったんじゃなくて、人より魔法が上手いって褒められるのが好きだっただけなのかなって……」

「なるほど。魔法を褒められるのが、先生の好きなことなんですね」

「情けないけど、きっとたぶん、そうなんだろうねえ……」

「何が情けないんですか?」

「情けなくない? 程度が低いっていうか……」


 ははは、と小さく消え入りそうな声で先生は笑ったが、カルティナは首を傾げてしまった。


「私には分かりません。魔法を使って褒められるのが好き、というのは、私の中では情けないに当てはまりません」

「……そっかぁ……」


 先生はぬるくなった紅茶を静かに口に含んだ。カルティナも冷めつつあるお湯を飲んだ。


「カルティナさんの好きなことは? 見つからないんですか?」

「魔法が好きです。が、私は魔法が使えないので、もっとするが出来ません」


 旦那様は、好きなことを見つけて、もっとしなさいと言っていた。でもカルティナは魔法が使えない。もっとできない。カルティナの書いた魔法陣は発動しないし、カルティナの唱えた呪文はただの音だし、カルティナの魔力は体の外に出てくることがない。


「他の何かを見つけなければなりません」

「一番好きなものに手が届くって、すごいことだよねえ」

「そう思います」


 このもどかしさを先生も感じているのかもしれない。情けなくはないけれど、寂しくはある。触りたいものに触れない、満たされなさが。


「先生が教えてあげられることはとても少ないけれど、カルティナさん。もし手が届くのなら掴んでから考えるといいよ」

「先生、よく分かりません」

「先生も自分が何言ってるのかよく分かんない」

「そんなこともあるのですか?」

「そういうものですね」

「そういうものですか」


 やはりよく分からなかったけれど、カルティナは一つ頷いておいた。



===



「本日は何になさいますか」

「……少し待ってほしいです……」


 皿の上の料理を残さないように全て食べたせいで、胸が苦しかった。ドレスが体に食い込むというか、ドレスに体がめり込んでいくような感覚がする。待てと言われたトピカがお茶を注いでいる格好のまま止まってしまったので、ドボドボと紅茶がカップから溢れた。


「トピカ……動いていいんですよ……」


 苦しさに耐えながら伝えると、ポットを戻して掃除をはじめる。トピカは本当にてきぱきと動けるすごいメイドだ。


「お食事が多かったようですね。もう少し量を減らすように伝えておきます」


 家令のロビンが苦笑しながら、食休めのソファに案内してくれる。カルティナが食後いつもしんどくなってしまうために置かれた、小さなソファだ。手を引かれつつ、食べたものが喉元まで上がってきそうな感覚を必死に耐える。


「よろしくお願いします……」

「トピカ。掃除が終わったら、奥様の服を楽なものに替えてさしあげるように」

「……かしこまりました」


 少し休憩してから服を着替えさせてもらい、ゆっくりと屋敷の中を歩いていく。自室の隣、旦那様の部屋とは逆側に、カルティナのための部屋がもう一つあるのだ。

 トピカが開けてくれた扉をくぐると、明かりの灯った部屋が迎えてくれた。

 絵を描くイーゼルと、刺繍や編み物をするテーブルと、バイオリンと、ピアノ、今はいないが詩や物語を朗読してくれる御伽係も呼べば来るようになっている。

 好きなことを見つけて伸ばすための部屋だ。

 今のカルティナには自主的にもっとやりたいことが魔法しかないので、一般的な貴族女性の嗜みが揃えられている。


「絵にします」

「かしこまりました」


 トピカがすぐに用意をしてくれる。汚れてもいいようにスモックを着て、キャンバスに向かう。大きなキャンバスに向き合うと、何を描いていいのか分からなくなる。真ん中の方に、小さな花を描いたり、蝋燭の明かりを描いたり、一日で描ける量はあまりにも少なくて、でもキャンバスは次の日になると新しいものに取り替えられているので勿体無く感じる。それでも絵を選ぶのは、刺繍や編み物や音楽はすぐに集中が途切れてしまうからだ。絵は、それなりに描いていて夢中になれる部分がある。


「……トピカ」

「なんでしょう」

「何を描いたらいいと思う?」


 問いかけると、トピカもほんのわずかに首を傾げた。


「描きたいものを?」

「何を描いたらいいのか分からなくて」

「……よく描かれるのは、花か、小動物だそうですが」

「小動物?」

「猫とかうさぎとか、あまり強くない生き物ですね」


 強くない生き物を描くのが一般的らしい。


「どうして強くない生き物なのでしょう」

「癒されるそうです」

「癒しの力があるのですか」


 それはすごい。傷が治ったり疲労をとってくれたりするのなら、絵に描いて飾っておきたい気持ちも理解できる。


「いえ、癒しの力というか」「トピカ。私、猫もウサギも見たことがないのです。どういう生き物なんでしょう?」

「どういう……」


 トピカはしばらく固まっていたが、やがてぎこちない動きで、空中を掴んだ。


「……こう……」

「こう?」


 片手でバケツを持ち上げているような手つきだ。首を傾げると、今度はパンを持つような、両手で丸を作る動きをした。


「このくらいの大きさの」

「このくらいの」

「……毛だらけの……」

「毛だらけの」

「白い生き物です」

「猫もウサギもですか?」


 頭の中で白い毛玉がころころ転がっている。


「猫は尻尾が長く。ウサギは耳が長いです」

「しっぽ……?」

「ケツから生えているものです」

「けつ?」


 知らない単語が出てきた。けつが何を指すのか分からないので、しっぽを描くのは難しそうだ。


「分かりました。ウサギを描きます。トピカ、キャンバスの、小さいのが欲しいです」


 窓ほどある巨大なキャンバスに、小さなウサギを描くのは大変そうだ。いや、小さなウサギをたくさん描けばいいのだろうか? でも今、頭の中にちゃんと描けそうなウサギのイメージがある。そのためにはもっと小さいキャンバスの方がいい。

 トピカは二つキャンバスを持ってきてくれた。カルティナが両手で抱えられそうなサイズと、さらに小さな胸に抱けそうなサイズ。迷わず小さな方を選んで、イーゼルに置いてもらった。イーゼルに対してキャンバスが小さすぎるが、筆を手にとると白い画面に意識が吸い込まれていくような感覚がして。

 再び意識が戻った時には、朝日がのぼっていた。

 キャンバスの中には、白い毛の、 耳の長い毛玉が、しっかりと描かれていた。

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