1.

「奥様に手紙とか、出されなくて大丈夫ですか」


 事務補佐官にそう言われ、アルドバートは初めて妻の存在を思い出した。

 確か嫁いできた翌日に襲撃がはじまった。ということは、だいたい一月くらいが経っている。

 今回の襲撃は、近年学者たちから忠告されていた、侵攻の長期化をいよいよ実感させるものだった。学者の予想ではこれほど長期化するまでに十年単位の時間がかかるとされていたが、それが一気に現実化した形だ。

 アルドバートの治める深淵境領は、魔物の湧き出す深淵に面した領地だ。魔力を蓄積した鉱石や特殊な植物が豊富にとれ、武力魔力智力に優れた人間が生まれやすいが、いつ領地全滅になってもおかしくないほど常に危険と隣り合わせである。

 十二歳で領地を任されてから、アルドバートは常に戦いの中にあり、死なないことで生きてきた。

 貴族のなすべき社交もしていない。学院も卒業していない。話したことのある人間のうち、生きているものより死んだものの方が多い。


 そのような男のところに嫁がされた、自分の妻になった女性を思い出す。

 子供のような人だった。空の色をした瞳と、金とも銀ともいえる淡い色の髪をしていた。

 前線基地の汚れた窓から空を見上げる。そこに彼女の目と同じ美しさはない。


「奥様もきっと、お寂しいでしょうし」

「好きに生きろと言ってある。不要だろう」


 そもそも手紙をもらうことで女性が喜ぶわけもない。女性を喜ばせる手紙があるらしいことは知っているが、アルドバートはそんなものを書けない。被害報告書や収支報告書、追加予算申請書なんかを書くのは得意だが。


「欲しいものがあれば買っていいとも言っているし、トピカもつけた。何も問題はない」

「トピカ様は……その……大丈夫でしょうか」

「火に焼かれてもあいつは強い。おまけに女だ。女同士なら分かることも多いだろう」

「……その……そう、ですね……」


 深淵から溢れてきた魔物たちとの戦いが始まり、早一ヶ月だ。それだけあれば、いくら人見知りでも少しは慣れてくるはず。トピカからの報告書にも、いつも「問題なし」と書かれている。家から送られてくる手紙の類は忙しくて後回しにしているが、さすがに妻を迎えてすぐの身だ。妻に関する報告書だけは優先的に目を通していた。

 ちょうどそのとき、ノックと共に下級事務官が手紙を持ってきた。日に二度、朝と夜に持って来られる手紙だ。処理できる量よりはるかに多い手紙が届くので、そろそろ手紙箱に入りきらなくなってきている。

 手紙の中には、トピカからのものもあった。トピカには三日に一度、報告を寄越すように命じてある。


「ちょうどいい。ユウィット、お前も読め」


 手紙を開けて、いつも通り問題なしと書かれた報告書をユウィットに見せる。

 ユウィットは受け取った手紙を見て、首を傾げ、裏返して、露骨に眉をしかめた。


「この報告書で、何がわかるんです?」

「問題ないということだろう」

「……我らが総大将にして偉大なる領主、アルドバート=パルヴァタサン深淵境伯閣下。わたくしめは、この、御家から三通も届いているお手紙にも今一度目を通すべきなのではないかと思いますよ」

「家のことは家宰に任せてある」

「ほらその家宰殿直筆のお手紙もあります」

「……」


 確かに、家からの手紙は後回しにしている。家の結界はこの深淵境領の中でも一等強固にしてあるし、その結界に攻撃が加えられればアルドバードの腕輪に反応があるからすぐ分かる。また、本当に緊急の要件であれば魔鳩を使った連絡もとれるし、通信魔法陣もあるのだ。だが、そういえば、ここのところ毎日一通は手紙が届いていた気がする。手紙箱を探って家からの手紙だけを抜き出すと、あれだけ限界に近かった箱にだいぶ余裕ができた。


「普通そんなに手紙溜めることあります?」

「お前の仕事を増やす。手紙の仕分けだ」

「これ以上仕事が増えたら尿から魔力が出ます!」

「命令だ」

「もうちょびっと出てるのに……」


 本気の涙声が漏れ聞こえたが無視した。ペーパーナイフで一通一通封蝋を切っていく。もう面倒臭い。手紙の送り主は最初こそ見習い執事などが代筆して送ってきていたが、ここ数日のものはすべて家宰本人からの手紙になっていた。古いものが手前にくるよう、紙の束にしてめくっていく。

 奥様は食事が細いご様子。パンを一つとスープを一口召し上がるくらいで全然食事をとられない。

 奥様は一日中窓辺に座って空を眺める以外のことをなさらない。

 奥様は「だいじょうぶです」以外の言葉をご存じないかもしれない。

 最初こそ、使用人たちが不興を買った可能性がある、というような懸念の報告だったが、最近は何から何まで心配なのか、赤子を心配する親のようになっている。


「……一度、お戻りになられては?」


 完全に呆れ果てた目をしてユウィットが言った。


「しかし……」

「一度、お戻りに、なられては?」


 同じことを繰り返された。これはもはや、頷くまで続くと予感させる言い方だった。

 深淵からの、魔物の大侵攻は未だおさまる気配がない。

 もしかしてこれが、我が領の日常になってしまうかもしれないと思うほどに。

 だが戦いに集中するためにも、一度家に戻らなければならないのもまた、事実のようだった。




===




 家宰のロビンに急かされて、いつもと違う部屋に通された。

そこには久しぶりに見る旦那様が、目と口を閉じてむっつりと座っていた。礼儀作法のお辞儀をして、トピカに促されるままに椅子に座る。

 旦那様は、目も口も開くことなく、黙っていた。

 カルティナも、自分の目の前に置かれたティーカップの意味がわからず、黙って湯気を眺めていた。

 しばらくすると、ノックの音がして、ロビンが静かにドアを開けた。そのまま固まった。


「……どういう状況です?」


 自分もよく分からなかったのでカルティナは特に応えなかった。


「旦那様、ご挨拶はなさったんですか?」

「……茶がまだだ」


 旦那様が小さな声で言う。旦那様の前にもティーカップが置かれているが、そちらはすでに湯気が見えない。


「トピカ。旦那様に新しいお茶を」


 言われてトピカが動いた。目に見えないほどの速さでティーポットを持ってきて、どぼどぼと勢いよく旦那様のティーカップにお茶を注ぐ。


「一度カップを下げて、入れて、持ってくるのです」

「何故?」

「そういうものなのです」

「そういうものとは」

「……そういうもの、とは、と言っても……」

「そういう型だ」


 ロビンとトピカの会話に旦那様が割って入ると、トピカは「型なのですね」とすぐ納得した様子でティーカップを下げていった。そして新しいお茶を持ってくる。


「……奥様、お紅茶はお嫌いですか?」


 ロビンが眉を下げて、少し悲しそうな声で言った。わけが分からないので首を傾げ、「だいじょうぶです」と答える。紅茶は嫌いでも好きでもない。


「……もしかしてずっとこうなのか?」

「だから何度も何度も何度も何度も何ッ度もお手紙をお送りいたしました」


 静かだけれど強い口調で、まるでロビンが旦那様を叱っているようだった。なんとなくだけれど、旦那様も叱られているように見えた。顔はむっつりしたままだったけれど。


「……貴族が会話をするとき」


 ぽつり、と旦那様が言う。もしかしてこれは、自分に話しかけられているのだろうか。分からないので続きを待つ。


「特に男女の場合、お互いが茶を飲んでから会話を始める」

「……」

「分かるか?」


 旦那様がはじめて、カルティナを見て言った。はじめて目が合った。その目があまりに美しくて綺麗で、思わず質問してしまった。


「旦那様は女ですか? なら私が男ですか?」

「…………………」


 旦那様は再び黙ってしまった。質問してしまったものはしょうがないので、返事を待つ。


「……少し待て」


 旦那様はこちらに手のひらを向けて言い、ロビンを見た。ロビンは静かに首を振った。本気か、と旦那様が呟く。


「俺が女だというのは、その、……どう……どういうアレだ?」

「“どういうアレ”?」

「どういう意味の質問なのか、と訊いている」

「どういう意味の……?」

「おいこれ大丈夫なのか」

「だから何度も何度も何度も何度もお手紙をお送り申し上げました!」


 今度ははっきりとロビンが怒った声を出した。


「つまり、その、俺が男だというのは、当たり前の……待ってくれ、俺はおかしくないよな? 当たり前のことなんじゃないのか? 何故……、そうだ、何故俺を女だと思うようなことがあった?」

「礼儀作法では、男を素敵ですね、女を綺麗ですね、と褒めると習いました。なので、旦那様は女なのかと思いました」

「…………………もう少し、……もう少しいけるか?」

「“いけるか”?」

「説明できるか?」


 もう少し説明が必要らしい。


「旦那様は私が見た中で一番綺麗なので、旦那様は一番女だと思いました。でも、体が大きいのでオスなのかもしれないとも思いました。現状、とりあえずメスではなさそうだと考えています」

「……………………少し待て」


 旦那様が再びこちらに手のひらを向けて、ロビンを見た。


「たすけろ」

「わたくしも今、想像よりだいぶすごくて驚いております」

「…………よし。よし、わかった。たぶん。会話をする方法は分かった。いける」


 何度か小さく頷いてから、旦那様がまたこちらを見た。やっぱり、カルティナの知るこの世のどんなものよりも、旦那様が一番美しい。


「カルティナ。あなたは俺の妻だ。妻というのは女だ。夫というのは男だ。つまりあなたは女で、俺は男だ。分かるか?」

「わかりました」

「そして、男女が会話をする前には、一口茶を飲む。茶を飲むのが、会話をはじめる合図なのだ」

「わかりました」


 そばに置かれていたティーカップを両手でそっと持って口をつける。旦那様も同じようにティーカップに口をつけて、そして、夫婦は全く同時に咽せて茶を吹き出した。


「えほ、えほ」

「んぐ……」


 生まれてはじめて咽せるということを経験したので、カルティナは軽いパニックになっていた。口の周りが濡れているし、口元を覆った手も濡れている。どうしたらいいか分からない。顔を上げていいのかも分からない。


「奥様」


 ぬっと影が差して、トピカが隣に立った。大きな手が急に顎を掴んできて、無理やり口を開けられる。そして喉の奥に勢いよく指が突っ込まれた。


「!?」

「毒です。吐かなければ」

「違う! お前の入れた茶が渋すぎるのだ!」


 口から大きな指が抜けていって、今度は誰かにぐいと体を引き上げられた。口に布が当てられる。今までに感じたことのない香りがした。まるくて、どこかほんの、ほんの僅かだけ甘く感じる。


「あ……」


 あたたかい感触が、体に密着している。それは今までにない感覚だった。見上げればすぐそこに、旦那様の肩が見える。

 カルティナは、旦那様に抱きしめられているらしかった。


「見ないから顔を拭くといい。ロビン」

「奥様、こちらへ」


 布で口元を隠されたまま、そばに寄ってきたロビンに受け渡される。旦那様と体が離れる。離れがたい。

 喉に指を突っ込まれた影響でまだ涙ぐんだまま、旦那様の袖を小さくつまんだ。

 旦那様が気づいてこちらを向いた。


「……、」

「……………」


 何か言おうとしたけれども、喉に違和感があって声が出なかった。何を言ったらいいのかも分からなかった。

 分からないことが、たくさんある。それがもどかしいと、生まれてはじめて思った。


「話は後でしよう。……ロビン、戻りは明日にする。連絡を頼む」

「かしこまりました」


 ロビンはカルティナの顔を丁寧に拭いてくれた。咳が落ち着いてくると、また旦那様の座っているテーブルに戻される。


「作法については習っていないのか?」

「行儀作法の先生は、678年の8月2日から、680年の終わりまで来てくださいました」

「君は何歳だった?」

「四歳から六歳の間です」

「それ以降は来ていないのか」

「そうです」


 ふむ、と顎に指先をやりながら、旦那様は一度会話を途切れさせた。


「読み書きは?」

「勉強の先生は678年の8月10日から、684年の4月20日まで来てくださいました」

「十歳か」


 考え事をしながら手探りで会話をしているような、一つ一つ道筋を確認して進むような話し方だった。


「食事を食べないとか、一日中窓際に座っているなどの報告が届いている。好きなことをして生きろと言ったはずだが、何もしなかったのか」

「好きなこととはなんですか?」

「君の好きなことだ」

「……私にはわかりません」


 好きも嫌いもない世界、それがカルティナの世界だった。世界はただそこにあるのだ。何も変わることがなく、それこそカルティナが生きていようがいまいが、ただ続くものだ。


「食事をとらないのはどうしてだ?」

「私は食事を食べています」

「パンとスープを少ししか食べていないと聞くぞ。肉も魚も卵も嫌いか?」

「? 全部食べると他の人が困ります」

「……嫌な予感がする」


 旦那様は一度深く息を吸って吐き、よし、よしいける、大丈夫だ、と呟いた。独り言の多い人なのかもしれない。


「そうだな……。……分かった、こうだ。食事のルールやマナーを教えてくれ。君が教えられたものだ」

「食事は、上の人間が残したものを下の人間が食べます。身分が上の人間ほど、身分が下の人間を慮って食事を残すべきです。私は一日中働かないので、実際に働くメイドや他の誰かの方がお腹がすきます。その者たちに分け与えることが、上の人間としての当たり前のつとめです」

「行儀作法の先生が言ったのか? それとも勉強の先生か?」

「メイドです」


 この屋敷にきてトピカがついてくれることになってから、いなくなってしまったメイド。彼女が新しい服を用意してくれて、体を拭くのに井戸に連れて行ってくれたりした。部屋の掃除もしてくれた。だからカルティナは、上の人間として彼女に食事の大半を分け与えていた。用意された食事の中で、パンが一つと、スープがほんの一口。残りはメイドが隣で食べる。それが、貴族としてのあり方なのだ。

 カルティナの説明に、旦那様はほんの少しだけ眉間に皺を寄せた。


「……そのルールは君の領の独自のものなのだ」

「そうなのですか?」

「同じルールの領は他にもあるのかもしれない。しかし、我がパルヴァタサン深淵境領では自分の食事を自分で食べるというルールがある。メイドにはメイドの分の料理があり、君には君の食事が用意されている」

「なるほど」

「……わかってきたぞ。その顔は分かっていないな。もう少し説明する。つまり、君は食事をする際、自分の前に出された料理を全て自分で食べ切るように努めなければならない。なぜならここではそういうことになっているからだ」


 なるほど、そういうことになっているのなら、そうするべきだ。

 頷いて見せると、旦那様はほっと息をついた。


「まずはパンを一つとスープを全部食べ切るところからはじめなさい」

「わかりました」

「それから君に我が領について学ぶという仕事を与える。俺の妻として必要な知識を得るという仕事だ」

「わかりました」

「学ぶ中で好きなものが見つかれば、それを伸ばしなさい」

「伸ばす……?」

「もっとしなさい」

「わかりました」


 今までやりたいことなど特になかったが、今はもっと言葉が、人の気持ちが、知りたいと思う。他にもたくさんのこと。

 頷いて見せると、旦那様はほんの少しだけ口元を緩めた。笑っているように見えたが、本当にそうかは分からない。

 その日の夕食は旦那様と二人で食べた。カルティナがパンを一つと、具のたくさん入ったスープを食べるのにうんと苦労している間に、旦那様はお肉や野菜やスープやパンをたくさん召し上がっていた。これが深淵境伯家のルールなのだとようやく実感した。実感、ということをはじめてしたかもしれない。理解よりも深いものを得た感覚があった。

 カルティナがパンを一つとスープの具を半分食べると、旦那様は


「よく頑張ったな」


 と言ってまた口元を緩めた。

 よく頑張った。

 うまく理解できない言葉だった。知りたい言葉がまた一つ増えた。

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