第57話 ネイサン・ロスチャイルドを出し抜いてやる
結局王妃さまからはオーストリアもしばしの平和が戻っているとの連絡が有った。タイムマシンは壊れてしまったが、メールの時空送受信くらいは出来るようだ。
「王妃さま、ナポレオンは今が頂点で、やがて彼の権勢は衰退し、フランスは苦境に陥るはずです。オーストリアが無理に出ていく必要はありません」
と連絡をした。
実際この後、ナポレオンはスペイン・ブルボン朝の内紛に介入した結果、マドリード市民が蜂起し、スペイン軍にフランス軍が負けた。皇帝に即位して以来ナポレオン最初の敗北だった。さらにロシアにも侵攻するのだが、ロシア軍の老獪な司令官は、いまナポレオンと戦えば確実に負けると判断し、広大なロシアの国土を活用して、会戦を避けひたすら後退する。フランス軍の進路にある物資や食糧は全て焼き払う焦土戦術で、辛抱強くフランス軍の疲弊を待つ。
荒涼とした原野を進むフランス軍は兵站に苦しみ、脱落者が続出、モスクワを制圧すればロシアが降伏し、食糧が手に入ると期待していたナポレオン。だがロシア兵が放火すると、モスクワは3日間燃え続け焼け野原と化した。ロシアの冬を目前にして遠征の失敗を悟る。フランス軍が撤退を開始するとコサック騎兵がフランス軍を追撃。ロシア国境まで生還したフランス兵はわずか5千人であった。
このフランス軍の大敗を見た各国は一斉に反ナポレオンの行動を取る。ロシア遠征で数十万の兵を失った後に、強制的に徴兵されたフランスの新兵は訓練不足。クルムの戦いでは包囲されて降伏。ライプツィヒの戦いでは対仏同盟軍に包囲されて大敗するなどしてフランスへ逃げ帰った。
やがてフランスを取り巻く情勢はさらに悪化。ナポレオンはわずか7万人の手勢しかなく絶望的な戦いを強いられた。パリは陥落しナポレオンはエルバ島に追放された。彼は全てに絶望し毒をあおって自殺を図ったとされていたが、それでも執念でエルバ島を脱出、パリに戻って復位を成し遂げる。だが、緒戦では勝利したもののイギリス・プロイセンの連合軍にワーテルローの戦いで完敗し、ついにナポレオンの命脈は尽き「百日天下」は幕を閉じることとなる。
ただし、これら一連の歴史はおれの知る史実とは違い、全て前倒しで起こっていた。
この有名なワーテルローの戦いでイギリス国債の逆売りを仕掛け、莫大な富を得たのがネイサン・ロスチャイルドである。彼は情報の価値を誰よりもよく知っており、ヨーロッパ中に情報網を張り巡らしていた。
フランスの王朝時代は絶対王政、まさに権力が王に集中していた時代であった。王室は浪費を繰り返しデフォルト(債務不履行)と何度も金貸し達を裏切ってきた。各国の王室とも、金貸しから国家予算に相当するほどの金を借りている事は珍しくなかった。
この時代にヨーロッパを金で支配していたのは5人兄弟のロスチャイルド家であった。3男のネイサン・メイアー・ロスチャイルドはロンドン・ロスチャイルド家の祖にあたり、イギリス国家に金を貸し多量のイギリス国債を保有していた。そして起きたワーテルローの戦い。この戦いでネイサンは莫大な富を得ることになる。ロスチャイルドのネイサン達、イギリス国債を保有している人々は勿論ワーテルロー戦の行方を注目をしていた。イギリスは勝のか、負けるのか。
ここで戦の情報を誰よりもいち早く入手したのがネイサンであった。馬や伝書鳩を使ったと言われているが、どちらにしてもイギリスが勝った。ナポレオンは負けたと知ったネイサンは、イギリス国債を購入するのではなくその逆、売りまくったのだ。
周囲でネイサンの行動を見ていたシティの人々は、情報通のネイサンが国債を売り始めた、これはイギリスが負けたに違いない。国債が紙切れになってしまう、とつられて国債を売りに出した。当然国債は暴落。その下落していく国債を、代理人を立てて密かに買い漁った者が居る。やがて皆にナポレオン敗北の報がもたらされた。勿論イギリスの国債はにわかに急騰して元に戻った。
この一件で、ロスチャイルドは莫大な富を得ることとなる。実際には、この当時のロスチャイルドを含む資産家の資産は政府や国家に開示する必要が無かった為、どのくらいの規模であったのかは分からない。しかし一説には、この当時イギリス国債の6割がネイサン所有であり、この逆売りの後、安値で買った資産が信じられない倍率になったとも、そして18世紀のヨーロッパの半分の資産は彼らロスチャイルド一家のものであったとも言われている。
「王妃さま、オーストリアの戦後復興には大変なお金が入用でしょう。その算段にひとつのアイディアが有ります」
おれは王妃さまにある提案をしたのだ。
「いまオーストリアが出来る最大限の資金を用意して、後はイギリスで信頼のおける国債の仲介人を何人か探して下さい」
王妃さまからは、おれを信用しているので指示通りに動いているとの連絡が有った。
「何を考えているの?」
結菜さんがドーナツをもぐもぐと食べながらおれに聞いて来た。カレーライスを食べた後の甘いドーナツは最高なのだ。
「ネイサン・ロスチャイルドの1歩先を行くのさ」
「それって仕手戦をやるっていう事なの?」
相場の話をおれから少し聞いている結菜さんは、そう思ったようだ。
「仕手戦なんて、そんな大げさな事じゃないよ」
「…………」
「ただ、ネイサンよりもちょっとだけ先回りをするだけさ」
この介入でおれはネイサン・ロスチャイルドを出し抜いてやる。ロスチャイルド家に一泡吹かせてやるのだ。
「王妃さま、ネイサンの代理人はイギリス国債を一旦売って、下がり切ったところで買い戻し始めるはずです」
「…………」
「ですから王妃さま側の代理人は、その少し前あたりから、相手に悟られないように買い始めて下さい」
おれはナポレオンがワーテルローの戦いで負ける事を王妃さまに知って頂き、ネイサンの裏をかくと伝えた。ネイサンは国債を一旦暴落させておいて、とんでもない安値で買い戻すつもりでいるだろうと。
場の立ち合いが始まると、ネイサンの代理人が次々と売り注文を出した。
勿論それを見た周囲の投資家達は誰もかれもがそれに続いた。国債の価格はすぐに落ち始め、やがてパニックになるほどの売り注文で場はごった返した。
誰もが怒鳴り声を上げ、売り注文を約定させようとして、両手を振る人の波が場内を渦巻き出している。
こうなると国債価格下落の流れは止まらない。もう暴落どころではない。誰も買おうとしないから、どんなに指値を下げようと値が付かないのだ。ついに成り行きで(幾らでもいいから買い手の言い値で)売ると言い始めた。
「今だ、王妃さま、少しづつ買い始めて下さい」
「分かりました」
場を離れた席からそって見ていたおれは、傍に居た王妃さまに言って代理人に合図を送って頂いた。
勿論王妃の代理人が一声「買う」と声を上げると。とんでもない売り注文が殺到して、まとまった単位の投げ売りで決済される。その買い注文がしばらく続くと、暴落が少し止まったかに見えた。
この状況にネイサン側の代理人は首を傾げた。おかしい、どんどん暴落するはずなのになぜ止まるのだと。勿論ネイサンからは、買う前に徹底的な暴落を演出せよとの指示が出されている。そこでさらに売り注文を加速させた。これで再び暴落が始まる。
おれはさらに買い注文を出すように指示した。ついにネイサン側の代理人はあらん限りの国債を売り始めたのだった。
「よし、どんどん買ってしまえ!」
なんとか暴落させようと夢中で投げ売っていたネイサン側の代理人が気づいた時は、売ったあらかたの国債が何者かによって買い取られてしまっていた。しかもほとんど底値をさらわれていたのだ。ネイサン側は買い戻す暇が無かった。絶対に買い手は現れないと決めつけていたからだ。
ここでついに戦場からの知らせが届いた。ナポレオンが負けたと言うのだ。
国債の取引場内は再びパニックに襲われる。買い戻し注文が殺到し始めた。
ところが今度は誰も売る者が現れない。価格の気配だけがどんどん上がり、ついに元の値段を越してしまう。
「よし、いいだろう、少しだけ売ってやろうではないか」
おれは何割かの国債を少しづつ売るようにと指示した。
この日だけで王妃さまの得た莫大な利益は天文学的なものであり、イギリス・ロスチャイルドの資産がそっくりそのまま王妃さまの懐に移ったのに等しいものだった。
ロスチャイルド家マイアーの3男ネイサンは、ロンドンの国債取引場に併設されているサロンでたったひとり椅子に座っている。これ以上変わりようも無いだろうと思われるほどの青白い表情をうかべ、虚な目を辺りに投げかけ、ただそうやって無為に時間を過ごしていた。
そう、この男はたった今、半日にも満たない時間のイギリス国債取引で、ほぼ全ての財産を失ったばかりなのだ。
当時のイギリス・ロスチャイルド家はイギリスが発行している公債の大部分を所有していたとも言われている。もちろんこの損失でネイサンの資産が全てなく無なったわけではない。全財産を失ったと言うのは大袈裟である。それでもヨーロッパの王族達を手玉に取る程の手腕を誇ってきた彼にとってこの失態は、自分の心臓をえぐり取られたに等しい打撃だっただろう。それを防げなかったのだ。
ほんの数時間前の事だった。
ワーテルローの戦いでナポレオンが負けた、という情報を誰よりも早く知ったネイサンは賭けに出た。
自分の行動が周囲の投資家から注目されているのは十分承知している。自分が買えば周りも買うし、売ればナポレオンが勝ったと思いこみ売るに違い無い。
ワーテルローの戦い、全力で出陣したイギリスの命運は、この一戦にかかっている。投資家だけではなく、イギリス国民誰もがこの決戦の報を待ち、それぞれの思惑を胸に、息を潜めているのだ。
ネイサンは冷静にこれから起こる事を見据えていた。国債取引での値動きは、常に半年も先を見通して動くという。イギリス軍がナポレオンに破れたのであれば、敗戦国の運命はどうなるか分からない。市場での狂乱にも等しくなるだろう値動きで、国債は紙屑にもなりかねない。全ては状況次第で乱高下する、それが相場というものだ。
ここは群衆心理を上手く利用する。徹底的に売って暴落を引き起こせば、途方もない勝機が生み出されるだろう。後はパニックに陥った市場で、何食わぬ顔をして底値で買い戻せばいい。
いよいよ立会が始まってもネイサンはサロンを動かなかった。市場に顔を見せない方が、かえって投資家達の想像力を掻き立てるだろう。その代わりもちろん代理人には細かな指示を出してある。
やがて市場の状況が使用人を介して逐一サロンに入ってくる。ネイサンの売り圧力から国債の価格は次第に下り始め、すぐに暴落しだしたと連絡が入る。
ネイサンは笑みを浮かべてグラスを傾けた。
しかし途中で少し暴落を止める動きが有ったとの報告には少し首を傾けたが、とくに新たな指示は出さずにいた。その後やはり暴落が止まったのは一時的で、国債の価格は下がり続けているとの報告にネイサンはニンマリと笑った。
ところが立会も終盤に差しかかった頃だ、普段あまり飲まないネイサンは、珍しく何杯目かのグラスを傾けていた。しかし誰かが一気に買い始めたとの思いもかけない知らせに顔色が変わる。信じられない事だが、これはロスチャイルド家以外にも、ワーテルローの勝敗をいち早く知った者がいると考えていい。
椅子を蹴って立会場内に駆けつけると、ネイサンは手を振って代理人に向かい大声を上げる。
「待て、売るな!」
しかしその悪魔の様な形相を、離れた位置から見た代理人は、恐れを抱いたのではないか。指示通りの暴落を完遂出来ずにいるからだ。更に必死になって売り続ける。ネイサンの声など届いていないのだ。
「止めろ、直ぐに買い戻せ!」
やはりその声は周囲の騒音にかき消され、代理人に届く事はなかった。
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