第53話 何故私に銃を向けているのですか、下ろしなさい
フランス軍本隊では多くの将校が殺された。さらにナポレオンの最も信頼していた副官までもが殺され、その悲しみはそうとう深かったようだ。
あの時、いきなり目の前に現れた敵に驚いたナポレオンだが、混乱にまぎれて何とか逃げ延びた。理解不能な出現ぶりを演じたあの騎馬軍団は、明かにオーストリアが雇った傭兵だろう。それにしてもその鮮やかな出現ぶりには声も出なかった。命からがら逃げ出すのが精一杯だったのだ。しかしナポレオンは稀代の英雄だ。いつまでも嘆いてはいなかった。直ちに兵をまとめると反撃に出て来た。
「ユイトさん、ナポレオンが反撃に転じました」
「王妃さま、こうなったらとことんやってやりましょう」
反撃に出て来たフランス軍では、ナポレオンの居る本隊は警備が厳重を極めていた。アリのはい出る隙間もないという徹底ぶりだ。よほどあの襲撃が懲りたのだろう。
「ダメだな」
「そうですか」
またおれと安兵衛は小高い丘から戦場を見ていた。
だがフランス軍本隊付近に、バルクの騎馬軍団が移転する隙間が見当たらないのだ。
「これは他の手を考えなければ……」
おれと結菜さん、そして王妃さまはまたスターバックスに来ている。注文はおれがカフェラテでふたりはやっぱりピーチフラペチーノだった。そんなに美味しかったのか。おれはカフェラテを一口飲んで聞いてみた。
「で、王妃さま、その後のナポレオンはどうなんですか?」
王妃さまの説明では、フランス軍は再びドナウ川を渡河して、アスペルンからエスリンクの一帯を制圧し、前回と同じような展開になりつつある。そこまではおれも分かっている。やはりナポレオンは手ごわい相手だ。
「既に奇襲された時の対処法を考えているようで、同じ作戦は通用しないかもしれません」
「そのようですね」
とにかくここは一息ついて、また明日現地に行ってみようという事で、王妃さまも納得された。現代人からしたら、このナポレオン時代の戦争はのんびりしているのだが、王妃さまも結構のんびりした方だ。
というわけで、休憩の後はユニクロに入った。
「王妃さま、何か気にいった服は有りますか?」
「これを履いてみようかしら」
「えっ」
王妃さまが手に取っているのはレギンスパンツだった。傍にある写真を見て気にいぅたようだ。おれは結菜さんに聞いてみた。
「結菜さん、レギンスパンツとスキニーパンツとは違うのか?」
おれも男物のスキニーパンツを穿いていた事があるからだ。
「レギパンはボディラインに沿った細身のボトムスのこと。柔らかさがあり伸縮性の高い人気のアイテムなの。トレンド感のあるレイヤードスタイルには欠かせないのよ」
通販でファッションサイトを見るのが趣味な結菜さんは、得意げに話し始めた。レギパンとはレギンスパンツの略称で、ボディラインにフィットする柔らかい質感が特徴の細身のボトムスということらしい。
「じゃあレギパンとスキニーパンツって、どう違うの?」
「スキニーパンツもレギパンも、ボディラインにぴったりと沿う細身のボトムスなんだけど、レギパンに比べると、スキニーパンツの方がハリのある素材で作られていることが多くって――」
「あの、どっちが女性向きなんだ」
「レギパンの方が、ストレッチが効いた柔らかさのあるパンツで、スキニーパンツは、ボディラインに沿った細身のパンツ――」
「分かった、分かった、とにかく王妃さまにはレギパンの方が良いって事だな」
おれは結菜さんとの会話を打ち切った。
「レギパンを上手に着こなすポイントは、ビッグシルエットのトップスと合わせることで、メリハリのある旬のスタイリングが叶いますよ」
まだ喋ってる……
「レギパンはスカートやワンピース、チュニックといったロング丈アイテムとも好相性だから、レイヤードスタイルにしてコーディネートをアップデートする事で――」
「結菜さん!」
結菜さんは声を強めたおれに目を丸くして、
「なに?」
「王妃さまは試着をしてみたらいいんじゃないか?」
「あっ、そうね」
結局ふたりは試着室に入って行ったが、レギパンを穿いて出て来た王妃さまを見て驚いた。
――わあっ!――
ボトムスだけではなく、上とセットになっていたのだが……
セパレートタイプで、おへその辺りが大きく開いていて、隠れていないのだ。しかも上下とも完璧素肌にフィットしている。王妃さまは以前、ジーンズは窮屈だから無理だとおっしゃってなかったか。ここで結菜さんがいきなり発した言葉に、おれは慌てた。
「王妃さま、ちょっと回ってみて下さい」
「ちょっと結菜さん、それは失礼では」
だが、王妃さまはにこにこと笑いながら回って見せてくれた。足が長いから裾の丈もぴったりで、短く直す必要もない。おれは至近距離から、王妃さまのパンツ姿を前にして、正に目のやり場に困る展開だった。
「安い、これが1万円しないんだ」
「そうよ」
王妃さまが着るから、とてもそんな値段には見えない。かなり気に入られたご様子で、何着も色違いを買われたのだった。
そして夜はすぐ例のファッションショーが始まった。買って来たレギンスパンツを、取り換えひっかえ次々と試着を始めた。着替える度に、ソファーに座るおれの目の前でいちいち向きを変えてポーズをとり、さらには後ろ姿まで見せる王妃さまから感想を聞かれたので、その都度最大級の賛美を贈った。もちろんおれは王妃さまが着替えるたびに、身体をねじって後ろを向いたり前を向向いたりする。それが買って来たレギパン全てを試着をし終わるまで続いたのだった。
ナポレオンが反撃して来たという情報が、オーストリアにいらっしゃる王妃さまからもたらされた。
おれと安兵衛を、ユミさんに頼んで直ぐ宮殿の一角に移転してもらう。そこは王妃さまのプライベートルームで壁の色は落ち着いたグリーンで統一されている。タイムトラベラーの秘密を知る者以外は一切立ち入る事が許されていない部屋である。
王妃さまが綺麗なブルーの瞳で、おれを真っ直ぐ見つめ声をかけてきた。
「ユイトさん、今回は私に任せて頂けますか?」
「え、それは構いませんが……」
すると王妃さまはきっぱりと言い切った。
「私に考えが有ります」
「バルク隊長を呼びましょうか?」
「いいえ、傭兵は必要有りません」
そう言った王妃さまは、ユミさんと何やら話し始めた。
低く垂れ込めた雲が空一面を覆っていた。
オーストリア軍とナポレオン率いるフランス軍は、アスペルンからエスリンクの一帯で再び対峙。一触即発の緊迫した空気が流れ、両軍の兵士達は指揮官の命令を待っている。
「安兵衛、あれを見ろ」
今回もおれと安兵衛は、戦場が見渡せる小高い丘の上から様子を伺っていた。
「え、殿、あの馬にまたがる人物は」
「王妃さまだ!」
色鮮やかなレギンスパンツ姿の王妃さまが、裸馬に乗り、ロングヘアーを風になびかせている。両軍兵士達の間に何処からともなく、たったひとりで忽然と現れたのだった。
これにはオーストリア軍よりも、フランスの兵士達の方がはるかに驚いた。ジャンヌダルクを連想してしまったのとは違う。甲冑などという古めかしく野暮な物は身に着けていない。フランス軍の前に馬を進めて来る彼女は、まるで素肌にペイントを施しているかのように見える。その身体はしなやかで、鮮やかな朱色をしている。
フランス軍将兵達は王妃さまの優雅な肢体に目を奪われた。見方によっては悩ましくもある。全ての女性が重そうなドレスを着ていた18世紀に、まるで水着のようなレギンスパンツ姿なのだ。しかも軽々と馬に乗り、長い髪をあるがままになびかせる魅力的な美人が現れた。これはインパクトが有るだろう。然も此処は戦場なのだ。数十万の兵士達がにらみ合う殺伐とした荒野である。
おれは言葉に詰まった。フランス軍兵士達の驚きはそれ以上に違いない。
「女神だ」
「いや、ビーナスじゃないか!」
「これは!」
「俺たちは本物のビーナスを見ているのか?」
誰ともなく囁く声が、フランス軍の間に広まっていく。ビーナスとはローマ神話の菜園の女神ウェヌスの英語名で、のちにギリシャ神話の美と愛の神アフロディテとなる。だが甘く優しい雰囲気を漂わせた栗毛色の馬を、兵士達の前までゆっくり進めて来ると、その女神の口からは凛とした声が響き渡った。
「何故私に銃を向けているのですか。下ろしなさい」
悠然とフランス軍兵士の前を馬に乗ったまま進んで行き、発したその透き通るような声を聞いた兵達は、思わず指示に従っていた。皆銃口を下に向けてしまったのだ。
さらに女神は言葉を続ける。
「これ以上無駄な争いをして、血を流してはなりません。直ちに軍を引きなさい」
兵士達は、皆互いの顔を見合った。女神と出会っ時の対処法など、誰も思いつかない。戦場で兵士は器械の如く行動しなくてはならない。私情を挟む事はありえない。しかし目の前に女神が現れて、さらに声をかけられた皆の動揺は頂点に達した。
だが世の中には必ずへそ曲りがいる。疑ぐり深い奴だ。
「みんな騙されるな。此奴はまやかしにきまってる。女神なんぞ居るものか。俺が証明してやる」
ひとりの兵士が銃を構えると、女神に向かって発砲してしまったではないか。
「なんて事をするんだ!」
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