第52話 フランス軍将校の首が宙に飛んだ
傭兵騎馬軍団を投入する手立ては整った。今度は安兵衛の所だ。
「安兵衛」
「殿!」
安兵衛はユキと一緒に居た。
「ユキさん、今日は」
「こんにちは」
安兵衛に寄り添う幼いユキは、小さな声で身体をもじもしさせながら答えた。
「安兵衛、じつは――」
「ちょっとお待ちください」
安兵衛はユキの相手を使用人に任せた。オスマン時代から従って来ている者達だ。おれは安兵衛とふたりだけになると、やって来た事情を手早く話して聞かせた。
「分かりましたお供させて頂きます」
「そうか、頼む」
安兵衛は即答をした。剣に生きる気構えは健在だった。以前の安兵衛とは違い、今は幼い子供がいる。迷惑はかけないと思うが、その事には触れないで置いた。今回は王妃さまの戦でもあるが、まさか本当に彼女が馬に乗って前線に行くわけにもいくまい。おれが出て行くしかない。そのために護衛がどうしても必要なのだ。多分奇襲は短時間で終わるだろう。ユミさんとも細かい打ち合わせをした。
「王妃さま、準備は整いました。結果をお待ちください」
「ユイトさん、私はどうすればいいのですか?」
「やはり王妃さまが前線に出られるのは危険ですので、今回は私の方だけで行います」
王妃さまは納得してくれた。
問題はナポレオン本陣か司令部のすぐ近くに、我らの軍団が出る必要が有るという事だ。手薄になる瞬間とは言っても、ナポレオン軍本隊は多分2万前後の兵力だろう。その全てを相手にするわけにはいかない。まさにピンポイントの奇襲を掛けられるかどうかが、成否を分けるのだ。長引いたら失敗すると思った方が良い。決め手はナポレオンの居場所だ。2万前後の軍勢なら、その陣営範囲は相当広い。彼が何処にいるのか、どうしたら分かるだろう。
しかしなかなか良いアイディアが浮かばないまま、戦闘は始まってしまった。
今は戦場から遠く離れた丘の上に安兵衛と居る。この位置からなら全体の動きは分かるし、ナポレオン本隊らしき軍も双眼鏡で確認できる。だが当然こんな遠くからナポレオン本人を確認する事など出来ない。
大きなテントのようなものがあれば目安にもなるのだが。それらしいものはほとんどない。この戦は一日半で終わっている。拠点を確保するというよりも、ほとんどその辺でごろ寝の野宿状態だ。ナポレオンにもまともな寝床など無いのだろう。ここは広大な平原で見渡す限り混とんとした状態の野営地が広がっているだけなのだ。軍服の見分けも付かないおれが、この中からナポレオンを見つけ出すのは至難の業ではないか。
だが、
「安兵衛、見つけたぞ!」
「殿、居りましたか?」
「いや、ナポレオン本人は確認できないが、あそこに居るはずだ」
おれはユミさんとスタッフ数人に来てもらった。
「ユミさん、ピンポイントでナポレオンの側に行くというのは難しいのですね」
「そうです、過去に一度でも移転の経験があれば、その人物の情報が残ってますから位置を何時でも特定できるのですが、ナポレオンはまだですから」
「分かりました。それではあの馬に乗った一群を見て下さい」
馬にまたがる将校らしい軍服の集団が見つかったのだ。騎馬隊ではない、明らかに軍指導部の面々だ。
「あの方角と距離を目測で確認出来たら、バルクの騎馬軍団と私達ふたりを同時に移転させてください。そのタイミングは後でお知らせします」
「分かりました」
ユミさんとフタッフが帰った後、
「安兵衛、いよいよ始まるぞ」
「やってやりましょう」
安兵衛は嬉しそうに笑った。
この前日、オーストリア軍は突然渡河して来たフランス軍に不意を衝かれ、ドナウの川岸に展開していた部隊は蹴散らされた。フランス軍は昼までにアスペルンからエスリンクの一帯を制圧し、午後には18万の大軍が渡河を完了した。そして左翼に1軍団、中央部に3軍団、右翼に1軍団を配置し、20キロにわたる陣を張った。ナポレオンはヨハン大公が率いるオーストリア軍の別働隊が駆けつけるという情報を入手しており、その前に勝負をつけたいと考えていた。ところがこの日の攻撃は、小規模なものにとどまり失敗した。
翌朝、戦闘が再開された。まずオーストリア軍がフランス軍右翼へ攻撃を仕掛けた。続いて2軍団による本格的な攻撃がフランス軍左翼へ向けられた。フランス軍は後退させられる。これに対して、フランス軍では主力の一部と騎兵が増援に向かい、さらにドナウ川中州のロバウ島から砲撃を浴びせてオーストリア軍の攻勢を停止させた。
そしてここで右翼のフランス軍がオーストリア軍を押し返し始めたのだ。ナポレオンはこの好機を見逃さなかった。オーストリア軍の中央部へ向けて、フランス軍主力と近衛軍団に突破攻撃を命じ敢行した。さらにほかのフランス軍団も援軍として駆けつけ、援護突撃を行った。凄惨な戦いが繰り広げられ、オーストリア軍の中央部は突破され始めた。フランス軍の目が全てそこに集中し始めたのだ。
「今だ、ユミさん頼む」
戦場後方に位置するナポレオン軍本隊近く、兵の居ない空き地の空間がゆがむと、バルクの率いる騎馬軍団が忽然と姿を現した。周囲に居たフランス軍の兵士達は、唖然として見ているだけだった。
「バルク隊長」
「ユイト殿」
騎馬軍団と共に時空移転されて、すぐ周囲を確認する。するとそこにフランス軍の将校らしい一群が居るではないか。まさにほとんど目と鼻の先だ。
「あの馬に乗った一群を攻撃して下さい」
「分かりました」
もうそこにナポレオンがいるかどうかなど確認している暇はない。やるしかないのだ。
「野郎ども、戦場でやる事はただひとつ、殺せ殺せ殺せだ!」
騎馬軍団を前にして、バルク隊長の罵声が響いている。あの、これは奇襲なんだ。軍団の士気を鼓舞するのはもういいから、早く攻撃してくれ。しかしこの事態に周囲のフランス軍兵士達はあっけにとられていた。騎上の将校達も同様だった。
「剣を抜け、突撃だ!」
ついに騎馬軍団の全員が剣を振りかざし、フランス軍将校らしい者達の一群に向かって切り込み突撃を開始した。勿論いきなり切りつけて来る軍団に、将校達は大混乱となった。剣を抜く暇も無く、次々と切られて行く。しかしここで当然の結果が起こった。いきなり至近距離に現れた敵の騎馬軍団に反撃出来るはずもなく、パニックになりながら将校達は四方八方に逃げ始めたのだ。
周囲のフランス軍兵士達も、すぐには発砲の準備もままならず右往左往する始末。仮に撃てたとしても周囲は味方のフランス兵だらけだ、下手な発砲は出来ない。何人のフランス軍将校が切られたのか分からないが、逃げて行く者も多い。もちろんナポレオンが何処に居るのか全く分からない状況だ。
だがその時、
「あれは?」
走り去って行く騎乗の将校が振り向いてこちらを見た。そのすぐ傍に従っている者が何人かいる。おれはその将校の方角を指さし、
「バルク隊長、あの者を追ってくれ!」
「承知しました」
隊長は片手で剣を持ち、左手でたずなを掴む。疾走する馬の横に下ろした右手の剣がなびき光っている。生れ落ちると、歩くよりも先に馬にまたがっていたというバルク隊長だ。馬の首と隊長の上半身が一体になって風を切って行く。鞭を入れる必要もない。隊長と共に戦場を駆けて来た馬は全てを分かっている。
先を行く将校達がついに離れ離れとなってしまう。その中心に居た者の側を隊長は通り越した。追っている敵を通り越してしまったのだ。だが、そうではなかった。
急停止した隊長は取って帰すと、馬を進んで来た敵の方角に走らせ、右手に持った剣を横に払ったのだ。フランス軍将校の首が宙に飛んだ。
だがやっと事態を認識したナポレオン軍本隊の兵士達が武器を構え集まり始めた。
「まずい、これまでだ」
襲撃が始まって、まだ10分か20分くらいしか経ってないだろうが、これ以上の長居は無用だ。軍団の被害も今ならさほどなさそうだし、さらに幸いにというか、おれの護衛に付いていてくれた安兵衛には出番がなかった。
「ユミさん皆を戻してくれ」
「王妃さま、襲撃は終わりましたが、残念ながらナポレオンがどうなったのかは分かりません」
「ユイトさん、まだ確認は取れていませんが、ナポレオンは無事だと聞いております。代わりに彼の有能な副官が殺されたようです」
戦いはナポレオン軍本隊の混乱から戦争継続が難しくなり、フランス軍が一旦兵を引く形で終わったのだった。
「王妃さま、とりあえずお茶でもどうぞ」
「ありがとう」
我がアパートにまた王妃さまがいらしている。これで3度目だから、この状況にもだいぶ慣れて来た。ただ訪問は気軽に出来るのだが、ウイーンの居城から突然居なくなると周囲の者が騒ぐから、あまり長居は出来ないと言われる。一泊二日が限度か。
そしてうれしい事に、王妃さまが使える日本語も増えてきているから、おれとの直接会話も少しづつ出来るようになってきた。
実はマリー・アントワネットが熱心な読書家だったという話はあまり知られていない。ベルサイユ宮殿で彼女のベットルームには秘密とされるドアが隠されていた。そこを開けると幾つもの落ち着いた部屋に通じていたのだが、その内の一つが書斎で、壁は書庫になっており本で埋まっていた。さらにその奥には畳で言えば十畳ほどの読書室が有った。比較的狭い空間だが、豪華なシャンデリアが天井から下がっており、やはりそこは王妃の間であった。
しかし話題はパンの代わりにお菓子を食べたらとか、宝石やドレスに散財したとかの話にばかり集中しがちだ。しかし本当は相当な教養人だったのだ。彼女の奔放で勝気な人柄が人々の目を狂わせていた。だから勉強し始めていた日本語は、かなりのペースでマスターしていった。
「王妃さま、ナポレオンの件ですが、残念でした」
「いいえ、ユイトさんには本当に良くやって頂いて、感謝しております」
やはりナポレオンは生き延びていたのだった。
その後傭兵のバルク隊長には、王妃さまから感謝の言葉と共に十分な金貨が送られた。
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