第50話 イスラムでは無いんだから豚肉でいいよな


 吉野家に入るとそこに居合わせた客から一斉に見られてしまった。やはり王妃さまは目立つ。箸は無理なようなので、フォークを出してもらった。カウンターに腰掛けていると、王妃さまは好奇心を抑えきれない様子で、


「ユイナさん、ここではどんな料理が出るのですか?」

「王妃さま、とても美味しいと言って頂けると思います。お楽しみに」


 結菜さんは小声で王妃さまにそうささやいた。結局カレーライス同様、こんな美味しい物は初めてだと牛丼は完食だった。王妃さまには日本の食べ物が合っているようだ。昼食の後はスターバックスに入る。メニューを見る王妃さまは嬉しそう。


「スタバの新作で、桃の果肉がたまらないピーチフラペチーノですって!」


 結菜さんは自分が食べたそうに言った。おれはカフェラテにして後はふたり仲良くピーチフラペチーノを注文、その後は静かなコーナーを選んで座る。そこでゆっくり王妃さまにはヨーロッパの現状を話して頂いた。


「ナポレオンがフランスを留守にしている間に、イギリス、ロシアなどとの第二次対仏大同盟が結成され、我が国は北イタリアを奪回しました」


 ところがその状況に危機感を抱いたナポレオンはエジプトからフランスに戻り、クーデターを起こして独裁権を握ったという。そして反撃のためアルプス山脈を越えて北イタリアに進出。

 マレンゴの戦いでは、フランス軍はオーストリア軍の急襲を受け窮地に追い込まれるが逆襲に成功する。ライン方面も、ホーエンリンデンの戦いでオーストリア軍を撃破した。フランス軍の行軍スピードが速すぎるのだ。

 さらにユミさんから得た情報では、重火器の進歩が激しいため、戦術もかなり変わっているようだ。

 18世紀後期、歩兵の主力兵器はフリントロック式の前装銃から後込めに変わっていた。日本からイングランドに伝わった新式銃は、既にヨーロッパ全土に行き渡っていたのだ。仁吉の開発した機関銃もさらに進歩していた。

 歩兵部隊は従来の弾幕射撃と違い、精密な狙いを定めしかも遠距離攻撃出来る為、塹壕が掘られ始める。

 砲兵は、それまでは歩兵の援護のもとに行動する機動性の低い部隊であったが、フランス軍では機動性を高めた独立した部隊として編成された。

 この時代、物資は各国軍とも現地調達によるしかなかった。だからフランス軍は人口密度の高い地域では円滑な調達により高い機動性を発揮したが、人口希薄なロシアなどでは機動力が鈍った。


 ここで注文した品が出来たので、おれが取ってくるとテーブルに戻った。もちろん美味しそうなピーチフラペチーノに王妃さまは目を輝かせた。スプーンですくい口に入れた王妃さまは、これ以上満足な顔は出来ないといった風だ。ひとしきり食べるとまた会話を戻した。


「王妃さま、残念ですが私達が知っている知識は既に過去のものとなっているようです。あまり参考にはなりません」

「…………」


 ここでおれはコーヒーを一口飲んで先を続けた。


「ただナポレオンは巧みな戦略的機動によって、より有利な状況を作り出すことを得意としているようです」

「…………」

「分散して進撃するオーストリア軍に対して、機先を制して各個に撃破したり、敵主力の側面から背後に移動し、敵の主力を包囲して降伏に追い込んだりしてます」


 王妃さまは黙って結菜さんの通訳を聞いている。


「また自軍の一部をもって敵主力の攻撃をひきつけ、その間に主力をもって敵の弱点を衝く作戦を得意としているようです」

「…………」

「つまりナポレオンは敵を分散させて味方の有利な状況を作り出し、包囲して殲滅させることをしてます」

「…………」


 のどが渇いたおれはまた一口飲んだ。


「だからナポレオンにやられないためには、味方同士の連携が最も重要になります」

「…………」

「彼はオオカミのように敵を孤立させては、個別に撃破して行くんです。それを可能にしているのがスピードなんです」

「……スピードと連携プレイですね」


 王妃さまはスプーンを回しながら、深いため息をついた。そんな事はすぐに出来るものではないだろう。


「ユイトさん、彼を亡き者には出来ないでしょうか?」

「はっ!」


 ピーチフラペチーノを召し上がって、一息ついた王妃さまの口からとんでもない話が飛び出して来た。


「あの、彼って――」

「もちろんナポレオン・ボナパルトの事です」

「…………!」


 あまりに唐突な王妃さまの発言に、おれも結菜さんも言葉をうしなってしまった。


「えっ、それって、ナポレオンを暗殺するって事ですか?」

「そうです」


 王妃さまは動かしていたスプーンをカップの横に置き、おれを正面から見据えて、そう言い切った。


「しかし――」

「もちろん彼のガードは固いでしょう、危険は十分承知の上です」

「…………」


 結菜さんは王妃さまを見つめたまま、全く声が出なくなっていた。とんでもないナポレオン暗殺計画が、おれとマリー・アントワネット王妃さまとの間で話し合われ始めたのだ。

 スターバックスの一角は、ここだけ時間が止まってるように、周囲とは隔絶された空間になっていた。



 ナポレオンが統領政府の第一統領となったときから、彼を狙った暗殺未遂事件は激化し、1800年には王党派による爆弾テロも起きていた。それにしてもこんなに優雅な王妃さまの口から、このように過激な発言が飛び出すとは……。


「王妃さま少し時間を下さい。あまりにも突然で、なんて答えたらいいのかすぐにはお返事出来ません」

「分かりました。でも私は真剣なんです。暗殺計画の実行には、私自身も参加をいたします」

「王妃さま!」


 確かにナポレオンさえ居なくなれば、ヨーロッパ連合はフランスに勝てる確率が格段に高くなるだろう。オーストリアを背負って立つ王妃さまがそう願うのは当然だった。





 1804年の始めナポレオンは、当時フランス警察が追求していた政権打倒計画の仲間に、若い公爵が関与しているとの知らせを耳にした。その内容は、計画に関わっているとみられる貴族が極秘にフランスに入国したと言うものだった。

 ナポレオンは公爵を逮捕する命令を出した。それを受けて騎馬憲兵隊は密やかにライン川を渡ると、公爵の居館を取り押さえた。その後パリ近くのヴァンサンヌ牢獄に収容される。

 パリの知事によって、フランス軍の治安判事団が公爵の裁判の為に即座に収集される。だがナポレオンは罪状の裏付けが希薄な事を知ると、告発理由を急いで変更した。こうして罪状の主だった内容は、過去の戦争でフランスに対し武器を振るい、またイギリスから金銭的援助を受け、第一統領の命を狙ったという内容に変わった。

 深夜に開始された裁判には証人も被告側弁護人も、証拠とされる手紙も提示されずに進行し、大急ぎで極めて略式の有罪判決文を書き上げた。アンギャン公自身はこれは冤罪だと主張しており、何としても晴らしたいと願っていた。だからナポレオンと面談したいとの請願をしたのだが、非情にも却下された。そして翌朝、公爵は14発の銃弾をその胸に受け、牢獄を囲む濠の中に倒れた。その側には彼の墓穴が既に掘られていた。




 スターバックスで午後のティータイムが済むと、夕食の買い物をしにまたスーパーに行く。アパートの周辺は、これらの店が全て徒歩の範囲に点在している便利な所なのだ。

 おれがカートに籠を乗せて押しながら店内に入ると、王妃さまは面白がって私にもさせてと、おれの代わりに終始笑顔でカートを押してくれた。夕食のメニューはまたカレーライス。今は暗殺計画の事など忘れてショッピングだ。



「王妃さま、これは玉ねぎです。カレーにはよく合います」

「タ、マ、ネ、ギ」


 マリーさんではなく、どうしても王妃さまと呼んでしまう。


「イスラムでは無いんだから豚肉でいいよな。王妃さま、これは豚肉です」

「ブタ、ニ、ク」

「そうです」


 勿論食後のフルーツと、王妃さまが目を輝かせるケーキの数々を籠に入れたのは言うまでもない。レジに並ぶと、やはり王妃さまは注目を浴びる。男も女もさりげなくチラ見をして来るのだった。





 ナポレオンが砲兵将校であったことが、ヨーロッパ大陸諸国の歴史に、意外な影響をもたらしているようです。ヨーロッパの多くの国で車は右側通行なのだが、これはナポレオン戦争当時に確立したシステムだという。砲兵の移動は多くの砲車の移動を人力と馬匹でまかなうため、交通統制という考え方がとりわけ重視された。最低限、道のどちら側を進軍するか、というルールを定めておかないと、収拾がつかなくなる。右側通行が選択されたのは、何故かナポレオンがそう決めたとされている。

 このように、ナポレオンの軍事思想は合理性に基づいており、烏合の衆であったフランスの市民革命軍を、ヨーロッパ最強の軍隊に育て上げた。部隊編成から作戦指揮まで合理主義に徹した、ナポレオンならではの功績とされている。彼はただ戦が強かっただけではなく、その行政は際立った先進性を示していたようです。


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